素麺
シャワーを浴びて部屋に戻ると、暑いばかりの部屋には数年前に最新モデルだった扇風機がくるくると回っていた。
むわっと感じられる熱い湿気が部屋に充満する中、女に貢がせたというその扇風機はぶんぶんと働き蜂のように稼働している。
その横で、四草が真面目な顔でいつものように素麺を茹でていた。
夏になってからは毎日、外にメシを食いに行く金もなし、安い早いで素麺を食べる日が続いていた。
そろそろ飽きて来る頃とちゃうかな、とは思いながらも、面白いほど飽きが来ない。
いつかの夏におかんの作ってた焼きナスとか、アジの叩きに酢醤油掛けたヤツとか、茗荷の味噌汁とか食いたいなあ、と思っても、このクソ狭くて暑いばかりのキッチンスペースでこれ以上四草に何か作らせんのも手間やし、自分で作るとなると、それこそお手上げや。
朝か夜に茹でておいたもんを昼に冷蔵庫から出して食べたらええんとちゃうか、と思いながらも、夜になってやっと涼しい時にまた汗をかきたくないという葛藤もあって、口にしたことは一度もなかった。結局、昼やったら四草が茹でてくれるし、オレはまあ出て来るの待ってたらええからなあ、といつものように二台目の扇風機に座った。
(こないせんと汗が引かんからなあ。手伝いをサボってんのとちゃうで。)
誰にともなく心の中で言い訳してしまう。こないして一遍座ってしまうと動けなくなるのが分かっていても、もう一台の扇風機の前にどっかりと腰を落ち着けたらもうあかん。
寝てしまいそうや、と思ってたら、開いた窓の隙間から熱風が吹いて来た。
「うわ、あっついな。こらあかんで。」
お前なにやってんねん。慌てて窓を閉めて「おい、四草、ちゃんと窓閉めとかんかい。」と悪態を付いた途端に、今度は調理してるガス台からむわっと暑い気配がやって来た。
「小草若兄さん、その窓、閉めたら閉めたで、風入らんから暑くなりますよ。」
「それ、はよ言わんかい!」
「僕が何か言う前に閉めてしもたやないですか。」
知るかいな、と悪態を吐きながら窓を開けると、籠の中で囚われの九官鳥が行き倒れてるのが目に入った。
「おい、カラス死んだで。」と言うと、そうめん茹で上げ機になってた四草が無言で鍋の火を止めて、こっちにやってきた。
平兵衛さん、と掠れ声で名前を呼ぶとカラスが顔を上げたのでほっとした。
「なんや、死んだふりしてただけかい。」
「そうみたいですね。」
「……人間は脱ごうと思えばどれだけでも脱げるけど、カラスにはこの暑さはかなわんで。」と言うと、四草は九官鳥です、といつものように言い足した。
「後で水浴びさせます。どっちかいうと寒いのに弱いはずなんで。」
「オレは暑い方があかんわ。」と言うと、四草がこっちに指を伸ばして来た。
キスされるんかと思って目を瞑ったら、「髪まだ濡れてますよ、畳に水滴垂れてまうからちゃんと乾かしといてくださいね。」と言われただけやった。
紛らわしいことしやがって。
「カラスもオレみたいに水浴びさせたったらええやないか。」と言うたら、「素麺、伸びてもええんですか?」と四草に聞き返された。
まったく、ああ言えばこう言うやっちゃ。
しゃあないから、言って冷凍庫の中から朝に作っといた氷を取り出した。
製氷皿を曲げてへこませてから、がこんがこんと銀色のボウルの上に氷を落としていくと、あっという間に氷が入ってしもた。製氷皿一個か。
そうめん冷やして、つゆに入れたら足りるんやろか。
カラスの水浴び、と口にしたら、ふと思い出した光景があった。
「なあ、しぃ、もうちょっとデカい冷蔵庫買わへんか?」
「エアコンある部屋に引っ越す金もないのに、そんな夢みたいな話してどないなるんですか?」
金……金なあ。
オヤジが死んだ後、あの三年でほとんどすっからかんになってしもた通帳には、葬式が出せるだけの金は貯めてあった。
新旧取り交ぜた通帳と一緒くたになって、オレ名義の通帳が一冊だけ出て来た。
通帳のデザインがバブル前の古いデザインとは形も違っていて、明らかに最近作られたもののようだった。
常打ち小屋を建てるために貯めてた金なんかは、干された頃に全部使ってしもてたと思ってたけど、いつもの銀行と違うその通帳に、その頃の残りカス――つまり常打ち小屋の頭金くらいにならんか、ていう金が入ってた。
子どもの頃からのお年玉なんかを貯めてた通帳は、内弟子修行を終えたタイミングでおかんから手渡されてオレの手元にある。あの中に、おかんが当座の部屋借りるときの足しにするんやで、とこっそり入れてくれた十五万円が入っていた。それなのに、どこからこんな金が湧いて出て来たのか。
可能性があるとしたら、おかんが死んだときの遺産か。
天狗に干されてからの話とは言え、吉田の菩提寺でのおかんの葬式には、オヤジの顔で方々から人がやってきて、えらい厚みになった香典包みが積み上がった。
寺を借りての葬式にはそこまで金もいらず、香典返しも安うに済んだ。
オレはもうオヤジと縁を切るつもりで、残った香典で常打ち小屋でも何でも建てたらええやろ、と言ってそれっきりや。あの頃の香典の金額はもう覚えてへんけど、半分に割ったのに近い金額が入っているような気がした。
三年も一緒に暮らした草々の分の通帳はどこを探しても出て来ぃへんかったけど、そのことが逆に嫌やった。
家も、オヤジの落語もすっかりアイツのもんになって、オレに残ってるのはこの金だけや。
そないなこと、誰にも言えへん。
「デカい冷蔵庫なんて置いたら部屋も狭なるし、今より暑くなりますよ。」と言いながら、四草がいつものように流水でそうめんを冷やしている。
ステンレスの流しに流れる水の音を聞いてると、なんや食欲が湧いて来た。
「そんな冷たくなくともええで。はよ食べたい。」と言うと、四草がええですけど、後で文句言わんといてくださいよと言わんばかりの視線でいつもの皿に素麺を盛り付けた。
今日はなんでか、緑の筋やピンクの筋が入っている素麺だ。
「そもそも、僕と兄さんの二人暮らしで、中身が詰まるほどの食べ物買ったことないでしょう。何か食べたいもんでもあるんですか。」と聞かれて、ふと頭の隅に浮かんだのは西瓜やった。
草々と並んで座って、縁側から庭に向かって何度も種を飛ばしたけど、一度として芽が出ることがなかった西瓜。
「昔みたいにでっかい西瓜が食いたい。」と言いながら、つるつると冷たい麺を啜る。
美味い。
「西瓜ですか?」
「デカい冷蔵庫ないと、残り中に入れて置くとかでけんやろ。」
「それは、まあそうですね。」と言いながら四草も素麺を食べ始めた。
「お前がオヤジの弟子になるずっと前は、オレとオヤジとおかんと、それから草原兄さんと草々で胃袋が五つ。草原兄さんは結婚前、草々もオレも、丼メシ食ってた時代やったから、ほとんどその日のうちになくなってしもたな。食べる分の西瓜は流しの盥で冷やして、おかんが美味い事切り分けてみんなで食べたんや。四分の一は仏壇屋に持ってったり、て言われて、いっつも暑い中で西瓜抱えて持ってくのオレの役目で。」
「……おかみさんが。」
「おかん、西瓜切り分けるのめちゃめちゃ上手やったで。」と言うたら、四草は眉を上げた。
「それは……包丁ちゃんと研いでたからとちゃいますか? 僕が南瓜買って来たら、おかみさんが包丁で切れ目入れる前にこないにしたらええ、て教えてくれました。」
包丁か。
「まあ、……オレも草々も何でも力任せやったさかいな。」
「力任せが出来るんなら、そないしたらええやないですか。草若の襲名は、そない簡単には出来へんと思いますけど。襲名披露興行に相応しい噺のひとつも覚えて、」と四草がそこまで早口で言うのを聞いてたら、もうええわ、という気持ちになってきた。これ以上は聞いたらあかん、と言う気持ちに突き動かされて、「わーーーかった!」と声を上げて、話の途中で言葉を遮った。行儀悪いなとは思ったところで、後の祭りや。
「それはメシ食ってからでええやろ。素麺の出汁、温なってまうで。」と言うと、四草は、またこの兄弟子は、と言わんばかりの顔で睨みつけて来よる。
あんまり言いたないけど、オレも九官鳥みたいに死んだふりでもしときたいわ。
そないしたら、お前もオレのこと、さっきみたいな顔で心配してくれんのかな。
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