MP48無配
アン・スホが着ていた上着は、シウンの部屋のクローゼットにしまわれている。
赤と黒のコントラストが印象的なそれを、彼本人から託されたわけではない。彼の祖母に無理を言って譲り受けたものだ。「これから秋になるから。この子が起きたときに、寒いといけないでしょう」切ないまなざしを伏せ、彼の上着を病室の棚に畳んだまま家へ持ち帰ろうとしない彼女に、すがるようにして。それを僕にいただけませんか。代わりに別のものを持ってきますから。どうか。お願いです。そう、請うた。だんだんと長袖が恋しくなり始める、晩夏の夕暮れのことだった。無口な孫の友人が必死な面持ちで言い募った願いは彼女をひどく驚かせたようだったが、そうして結局、上着はシウンのものになった。
手に入れたそれを、どうしようと思ったわけではない。ただ、抱きしめて眠れでもしたらどんなにいいだろうかと考えただけだ。ほとんど衝動だった。けれども、腕の中に閉じ込めた上着は温かくもなく冷たくもなく、自身の体温がじわじわと移っていくのみで、シウンをひどく落胆させた。たぶん、期待をしすぎていたのだろう。バイクに乗るあの子を吹きつける風から守っていたこれが、おのれの寒さもどこかへ遠ざけてくれるような、そんな気がして。
病室には入れなくなった。代わりにあずけた、灰色のジップアップパーカーだけがスホを見守っていた。かつて彼の上着が置かれていた場所で、ひっそりと。部屋の主の眠りを妨げないようにと、余計な気遣いをするかのごとく。ぴったりと閉ざされた清潔な引き戸も、採光のよくない薄闇の廊下も、生命維持装置の無機質な電子音も、すべてが自分を拒んでいるようにシウンには感じられた。週に一度、彼を見舞うこの行為がはたして彼のためか、あるいは自らのためか、もはやわからない。スホに会いたいと思う純粋な気持ちの一方で、罪悪感からくる贖罪としての行動であることを否定はできなかった。お前はいつ目覚めるんだと未読バッジの消えないメッセージを送って、直後に後悔をした。それを言う資格がだれにある? 少なくとも、おのれにあるようには思えなかった。
スホの上着を抱きしめて眠ると、いつもよりも寝つきがよくなるような気がした。けれども同時に、むなしさが募った。肩に置かれた彼の手の体温を思い出せないはずがない。物言わぬ上着はただの布のかたまりで、あの温かさとは似ても似つかなかった。シウンが望むと望まざるとにかかわらず、涙は勝手にあふれ出す。だが、撥水性にごく優れたただの布地はそれを染み込ませてさえくれなかった。上着は所詮上着であって、スホの代わりには決してなり得ない。そのことに気がついた日、あんなにも渇望したはずの赤と黒を、シウンは自室のクローゼットの中にしまい込んだ。そうして二度と、外へ出さなかった。
その灰色を見間違えるはずがない。おのれが身につけていたものだ。袖口に付着させたちいさなインクの染みまでそのまま残っている。どこにでもある、量産品の、いたって面白味のないジップアップ。思い返せば彼の私服は原色ばかりだった。彩りに欠けるぼんやりとした色味のパーカーを着ている姿が珍しくて、それが逆に頭の中の空想ではない、現実のアン・スホがそこにいることの証左のように思えた。
風が吹く。春に差し掛かった空はやわらかな太陽の光に包まれて澄み渡っていたが、空気はまだどこか冷たく、冬の残り香を感じさせる。スホがパーカーの襟元をそっと引き寄せたのを見て、寒いかと聞いた。「ああ、うん」彼は曖昧な返事をした。
「中に入る?」
「いや、大丈夫」
彼が首を振るのを涙まじりに見つめている。「いい気分だ。晴れてるし、風もない」スホの声はシウンが記憶の中へ大切に閉じ込めたそのままで、低くおだやかな音色を持ち、耳によく溶けた。「それに、シウンさんにも会えた」
伸びた前髪が目にかかっている。スホが幾度かまばたきをする。鬱陶しいのだろう、と思う。ちょうどいい長さに整えてやりたかった。他人の髪を切ったことはなかったが、まっすぐに切るだけならばおのれにもできる気がした。シウンは「髪が伸びたね」と言った。言ってから、二年ぶりに交わす会話としてはあまりにくだらないと思い直した。
「……会いたかった」
「うん」
スホは笑っている。シウンを見て、おだやかに。それからパーカーの袖をくいと引っ張って、「これ、俺の病室にあったんだけど」と言った。俺の服じゃない。だから、お前のかな、と思って。あたり? と尋ねる表情はひどく無邪気で、柔和に笑んだ眦は晴れの陽気によく似合っていた。
「お前、背が伸びた?」
「……え? いや、そんなには……」
「そうか? なんかこのパーカー、大きい気がしてさ。お前の背が伸びたのかと思ったんだけど、違ったかな」
病院の庭を彩る緑も、かつておのれのものだった上着のグレーも、シウンの目には何ひとつ入ってこなかった。視界の中には、スホのやさしいほほ笑みだけを捉えておきたかった。見たいものも、見なくてもいいものも、すべてがもやのようになって溶けていく。頬をつたう涙を恥だとは思わなかった。
車椅子の上に座る長身を抱きしめる。筋肉の削げ落ちた身体はぎょっとするほど細く、儚かった。これが二年弱の歳月を物語っていた。瓶の詰まったケースを平然とふたつ重ねて運んでいたあの日の彼はもう、どこにもいない。
どうしたんだよ、シウンさん。驚いたような彼の声が耳もとにかかって、シウンは自身の言語能力の低さに愕然とした。何を彼に伝えるべきか、わからなかった。違う、違うんだ、スホ。そう言って次の言葉が出てこない。スホは「何が?」と笑って答えた。
違うよ、スホ。僕の背が伸びたんじゃない。お前が痩せてしまったんだよ。
涙はいっそ好都合だった。告げる勇気が出ないことを、嗚咽に阻まれているのだと思ってもらえるから。そうして何も言えないおのれを情けなく思い、同じように何も言わずに許してくれるスホの顔が見られなくなる。シウンは痩せた体躯にほとんどすがりついていた。変わらないのは笑顔と声だけだ。友人の入院着からは、薬品めいたにおいがつんと漂っている。
「これ。返しに来たんだ」
配達です、と聞き慣れた声が懐かしい響きをもって訪ねてきたので、シウンは家の廊下で転びそうになった。それほどまでにあわてていたということだ。玄関の扉を開けると、久しぶりのアン・スホがそこに立っている。退院後は何かと忙しいだろうと思い、あえて連絡を控えていた。たった二週間。たった二週間だ。二年弱も耐えたのに、週を二回またいだだけで、とめどない恋しさに襲われた。
抱きつきたいのをぐ、とこらえる。心臓は早鐘を打って憚らないが、シウンは何とか冷静を装って「何?」と聞き返すことができた。
「お前の上着。いつまでも俺が持ってるのも悪いと思って」
「ああ……」
返さなくてもいいのに、と思う。いつも一緒にはいられないおのれの代わりに、ずっとそばに置いておいてくれたらいいのに。そんなことを考えて、心の中がむず痒くなる。スホが差し出した紙袋の中に、丁寧に畳まれた灰色のパーカーがおさまっていた。貸したときよりもきれいになっている気がする。もしかすると、律儀にアイロンまでかけてくれたのかもしれない。
「……僕もお前に返さないといけないものがある」
「え? 俺、何か貸してた?」
彼がシウンの上着を返すならば、シウンは彼の上着を返さなくてはならない。約束をしていたわけではないが、そうすべきだと感じた。スホを玄関に待たせ、自室へ戻る。一年以上もクローゼットの中にただ閉じ込められていただけのトラックジャケットは、洗濯もしていなかったが、目立った汚れがあるわけでもなかった。今から洗濯機を回すわけにもいかないので、申し訳ないと思いながらもできるだけ丁寧に畳んでみる。シウンの涙の一滴も吸い取ってくれなかった撥水性のある布地は、あいも変わらず無味乾燥としていた。
シウンが自身の上着を持っていたことを、スホはいたく驚いたようだった。え? あれ? なんで? と彼が当然の疑問を呈すので、正直に答える。僕が頼んだんだ。お前のおばあさんに。代わりに僕の上着を置いておくから、これを僕にください、って。ごめん。勝手に。
「……いや、別にいいけど……なんで?」
「なんでって……」
「なんで俺の上着を? トレーニングでも始めたの?」
どうしてかな、と考える。よく眠りたかったのだと思う。スホが隣にいないから、彼が着ていたものを代わりにしようとした。後悔と罪の意識に支配された心にすこしでも光が当たれば、それで救われると思った。安心したかった。おのれにそんな権利はないと知りながら、安寧を求めた。その安寧には、どうしたってアン・スホの存在が不可欠だった。
「……お前に、そばにいてほしかったんだ」
彼に対する罪悪感が消えたわけではない。失われた歳月は元には戻らない。スホが寝ていた二年間は、スホにとってもシウンにとってもあまりにも長い年月だった。彼の時間を奪ったのは自分だという自覚はあったし、贖罪に意味がないこともわかっていた。ただ、皮肉にも、経過した時間の中でシウンは自らの感情を吐き出すことが上手くなっていた。覆水は盆に返らず、こぼれた言葉が消えることもないが、とりとめのない思いだけが山のように蓄積されていく。
しばしの沈黙があった。静寂は苦ではなかった。スホが隣にいてくれるのなら、何時間だってこのままでいいとさえ思った。目覚めてからすこしの入院期間を経て、彼の頬は健康的な血色を取り戻している。そこに、さっと赤みが乗った。ややあって、スホは気後れがちに目を伏せた。あのさ、シウンさん。
「それ、やっぱり俺が持っててもいい? お前の上着」
「え?」
どうして、と思ったのが顔に出ていたらしかった。スホはシウンにふたたび視線を向ける。彼の口もとにははにかむような、からかうような、独特の色をはらんだ笑みが浮かんでいた。
「俺のものにしたくなったんだ」
シウンはスホが望むことを何だって叶えてやりたいと思っている。着古したおのれの上着など、手離して惜しくも何ともない。いいよ、お前が欲しいなら。あげるよ。そう答えるつもりで口を開いた。けれども、身体は思考と時折決別して、制御不能になる。
「僕も」
水を注ぎすぎたグラスのように、言葉はあとからあとからあふれてくる。僕も。僕もだ。スホ。シウンはスホを抱きしめていた。退院したとはいえ未だ万全とは言い難い痩躯が、シウンの勢いに押されてわずかによろめく。うわ、どうしたの。困ったように笑いながら問うた友人の顔を、直視できなかった。
「お前も俺の上着が欲しいって? ……うん、じゃあ、持っててよ」
長身を半ば玄関の扉に縫い留めるようにして、シウンはスホの胸板にすがりついた。骨ばって薄いそこに顔を押しつけ、大きく息を吸う。温かかった。いくら上着を抱えて眠っても得られなかった温かさが、ここにはあった。胸が苦しくなって、何も言えなくなる。だから首だけを横に振った。違う、違うよ。上着が欲しいんじゃない。お前が。お前が欲しいんだよ。音を乗せないその言葉にスホが気づくことはついぞないだろうが、別に構わなかった。ただ、この腕の中に彼がいてくれるのならば、それだけで構わなかった。
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