大学生と社会人



朝起きたときには薄曇りだった空が、夕焼けの色に染まってくる。
秋の日はあっという間に日暮れてしまう。
「ハン・ホヨル、もう少しゆっくり歩けよ。」競歩か、とからかう同級生たちの声に、足を止めて振り返る。ほとんど駆け足だぞ、と言われて、笑い返しながら、またやってしまった、と思う。
除隊して大学に入った。入隊した頃は、学生をやり直すことは全く考えていなかったが、DPをしているうちに考えも変わった。除隊後の人間と接触する機会も多く、結果として、大学出の人生を歩むしかまともな職に就ける道はないだろうと気づいたからだ。
軍隊に逆戻りする道だけは避けたい。通帳からはどんどん金が減っていくが、あの中士の顔を思い出すと、今の道筋が必要な投資だという気がした。
それなのに、なぜか勉強やボランティアに精を出すでもなく、ギターマンドリン部なんかに入ってしまった。大学に入学すると、自動的にモラトリアムが選択肢として視野に入ってくることは、入学前から分かっていたことだった。俺は快楽に弱い。
肩に掛けたマンドリンは銃に比べれば驚くほど軽い。五線譜とタブ譜のセットになったこれまた薄っぺらい楽譜を取り出して、夜にスカボローフェアなんかをつま弾いて、隣の部屋の人間にうるさいと壁を叩かれる。ギターマンドリン部のハン・ホヨル。
今日も、週に一度の合同練習会だった。楽器店の密閉した練習室でひとしきり練習した後は、いつもの店で爆弾酒付きの飲み会だ。気楽で身軽な大学生活。
俺、ちょっとコンビニに行って来る。
早く戻って来いよ、女の半分はお前が目当てなんだから。
相手の言葉の中に皮肉な響きを感じ取ってしまうのは、こちらの考え過ぎだろう。春に部活に入って以来、ハン・ホヨルがもてた試しはない。インド哲学科にいそうなくせ毛の男で通っている。
わかってる、いいから先行っててくれ、と手を振って、先を行く背中を見送る。
日暮れる前に目的地に行きつかないと凍える羽目になる。黄色くなった葉を降らせる並木道を歩いている人間を見ると、強くそう感じる。口笛を吹きながらこのままバックレてしまおうか。それでも、きっと大丈夫だろう。俺の不義理は今に始まったことじゃない。
見え透いた世辞を言われて楽しくないわけではないけど、そういうのはもっとアイドルみたいな顔をしてるやつに言ってくれと思う。ハン・ホヨルは違う。アン・ジュノは少し掠っている。見え透いた世辞でも言いたくなる顔だ。
久しぶりに後輩の顔を思い出そうとすると、出会った頃の坊主の伸びかけみたいな頭にキャップを深く被って、決して完璧ではないその隠れ蓑で外からの視線を遮ろうとしていたジュノの、引き結んだ口を思い出す。

コンビニに入ると、暖かい飲み物を置く棚が増えていた。
ふらふらと奥まで分け入って、弁当の棚にジュノの好きだったおかずの入ったものが置いてないかと探してしまう。ワンプラスワンでふたつ貰えるコーヒーを買おうとする。今となっては不要な癖が、未だに抜けないでいる。これはもうどうにもならないような気がする。恋人でも作ろうか、と出来もしないことをつらつらと考えながらコーヒーを手に取ると、どん、と人とぶつかった。満足に弾けもしないマンドリンを肩に引っ掛けているからこういう羽目になる。キレやすくて機嫌の悪い男にぶつかったら終わりだ、と顔を上げると、さっきまで考えてた後輩の顔が目の前にあった。こちらが適当なことを言うたびに、どうしたんですかとこちらを伺うような目つきになったアン・ジュノ。明るいブラウンのブルゾンとジーンズ。
もうキャップを被っていない。誰にでも、隣にいなくても、あの目が見える。
「ハン・ホヨル、」先輩、という言葉をおまけのように付け足す。いつかのような途方に暮れたような顔で。
アン・ジュノ。会計してくるから、ちょっとそこで待ってろ、と外から見える場所にあるイートインスペースを指さす。カードで支払いを済ませている間にも、椅子に座らずに待っているジュノの背中を見つめていた。ジャケットの色と相まって、森に一本だけ立っている、ひねこびた木みたいだ。
「アン・ジュノ。」と名前を呼ぶと、ジュノは振り返った。
手に持っていたふたつの缶コーヒーを冗談のつもりで肩に置いてみる。
肩から生えた角には、俺がマンドリンをつま弾くのと同じくらい意味がない。とはいえ、今の俺に意味があるのは、目の前にいる後輩の姿と形だけだ。
全然表情が変わらないので、一瞬、目の前にいるジュノがまぼろしだったらどうしよう、と考えたところで「暖かいです。けど、もう十分です。」とジュノが反応した。視線を動かして、窓の方を見ている。
「そうか。」コーヒーをぱっと離す。考えれば、昔から、興味のないことには反応の薄いやつだった。まさか、俺にも興味がなくなってるとか?
そうかもしれない。
そう思った途端に気まずくなって、たっぷり一分間はありそうな沈黙の後、元気だったか、と聞くと、ボクシングの勝負に負けて、肩を氷で冷やしていたあの日のような顔になった。
不機嫌そうな顔。いつもか。
「ジュノヤ、髪伸びたな。」というとそうですか、と気のない返事が返って来た。考えてみれば、俺が娑婆に出て行く直前にはもうこのくらいの長さにはなっていたかもしれない。
「どうしてこんなところに?」
「お前こそ。」
ジュノは、「この辺りに住んでるんですか。」と話題を逸らしながら、もごもごと言った。
「そうだよ。丁度いい、そこのスターバックスで、焼き芋ラテおごってやろうか?」
新しく発売された紫色にどぎつく着色されたラテが話題だが、一人暮らしに戻ってからというもの、ほとんどあの手の甘い飲み物を買うことはなくなっていた。俺にも人並みの羞恥心と自制心が備わったということだろう。
「それ、手にあるのジョージアですよね。」と訊かれて真顔で頷くと、それでいいです、とかつての素直で従順だった(はずの)後輩は言って、俺の両手からコーヒー缶を、肩からはマンドリンのケースを取り上げた。素早い。
「何ですか、これ。この形、バイオリンか何かですか。」とマンドリンケースを持ったジュノに訊かれ、バイオリンだよ、と返した。
「何か違うような気がしますけど。」
「ばれたか。本当はマンドリンだ。」
ハン・ホヨルは、階級の上下のないような場所で、ボクシングの達人にお前バイオリンを知ってたのかと口を滑らせてどうなるかと試す勇気はない。ジュノは、俺が軍隊で会った中でも、そこそこに頭が良く、頭が良いなりに扱いにくい男だった。この際アン・ジュノなら大丈夫だろうかと思わないでもないけれど、慢心は身を滅ぼすもとだ。
「おい、アン・ジュノ、床に落とすなよ。高いんだからな。」と釘を刺す。実際は一か月のアルバイトで貯まる金額ではあるが、また買う羽目になるとすれば、話は別だ。
「マンドリン、って何ですか?」
「ポロンポロンと音の鳴る弦楽器。」と言ってはみたが、ジュノの顔を見れば今の説明で納得していないのは明らかだ。バイオリンみたいな弓はなく、ギターみたいにピックで爪弾く楽器だ。
口で説明するよりは、弾いてみた方が早い。
「今日は暇か?」
「暇っていうほど暇でもないですけど、今日は休暇です。」
威嚇するような目つきをしているが、単に不機嫌なだけだろう。そうでなければ、腹が減っているところに声を掛けたのかもしれなかった。
それなら、と言いかけたところでスマートフォンが震えた。気が付くと、赤い夕日は沈んでしまい、外には青白い黄昏がやって来ていた。遅い、というお叱りのメッセージが入っているに違いない。ちらっと、あいつらのいる場所にジュノを連れて行こうかと思ったけれど、休みの日に前みたいに気を使わせるのもな、と思った。
ジュノが肩に引っ掛けたマンドリンケースは、普段より小さく見える。教えたら上達するかもしれないし、せっかくチューニングしたばかりの状態がやり直しになるかもしれない。
「マンドリンは後だ、ちょっと待ってろ。今日の用事をキャンセルするから。」と言って電話を操作する。その間にジュノは缶コーヒーのプルタブを開けていた。ギターマンドリン部、と打ち込もうとした検索欄の下に、ジュノの名前が映る。一年前、間違えてボタンを押したときには電話を切ってしまった。ジュノも、掛け直しては来なかった。押し間違えたというショートメッセージを直ぐに送れば良かったかもしれないと今は思う。
やっとのことで見つけた相手の番号をタップする前に「ジュノ、お前、もしかして腹が減ってるのか?」と聞くと、(喉が渇いてただけです。)とジュノは小声で言った。
夕飯付き合え、と言うと、ジュノは、目を瞬いて、給料日前で金がないです、と言った。ふむ。
「つまり、給料日前じゃなかったらお前の懐は人並みに潤っているのか? 先輩に奢れるほど?」
「いえ。金はいつだってないです。」
「あ、そう。」家に入れたり、妹に小遣いやったりしていればそうだろう。
そうだろうと思った、という代わりに、俺も、と言った。
学生に逆戻りしたので、アルバイトはしているが万年素寒貧のハン・ホヨルだ。おそらく愉快なばかりの一夜とはいかないだろうが、互いに貧乏同士なら、この再会が決定的な破綻となることはないだろう。
「今夜も環境ホルモンなしのラーメンだな。」
袋ラーメンを鍋に入れて卵を入れただけの食事を、こんな風に言うのがあの頃のマイブームだった。今もラーメンは食べるが、このところは殆どカップ麺だ。
「え、」
「え、って何だ。不満か?」
「外で食うんじゃないんですか?」
「給料日前の男に無理をさせられないからな。ついでに、マエストロ・ホヨリのマンドリンの腕を聞いていけよ。自分で言うのも何だが、最高の子守歌になるぞ。」
ジュノは、こういうとき、先輩の気遣いに感動し、喜びのあまり礼を言ったりするタイプではない。失望をあらわにして、「普通はこういうとき年上が奢るものじゃないですか?」と不貞腐れたように言った。その変わらなさが懐かしくて、俺は声を立てて笑い「それは次の機会にしておけ。」と言った。




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