水分と塩分と
はて、と男は不思議そうな顔で首を傾げる。
バトルタワーの地下に用があってエレベーターで降りてきたのだけれど、何やら様子がおかしい。 と言っても、この塔の地下は以前から少々おかしくはある。
白い壁と天井、煌々と通路を照らす照明。 壁に貼り付けられた見取り図は、刻一刻と形を変えて見知らぬ道や部屋が増えては消えを繰り返す。 徐々に文字や記号が奇妙な何かに変質しては、次第に元に戻ってゆく。 それが延々と、延々と続いている。
見取り図と地下空間はある程度連動しており、道や部屋が増えては消えるといういたずらは、ポケモンたちによるものだ。
元に戻すために地下でいたずらを行うポケモンたちのために、見取り図の下にはポケモン用のおやつを置くようにしている。 先ほどスタッフに聞いたところによると、おやつは少し減っていたが、まだ在庫はあるとのことだった。
男はただでさえ道に迷いやすく、この地下は男が下手に足を踏み入れれば大変なことになりかねないと分かっているので一人で地下へ降りることはなかった。
なかったのだけれど、困ったことに、今日は同行してくれるスタッフを捕まえられず、おまけにお使いを頼むことも出来ずにいた。 しょうがないので、渋々、とても渋々だが、男は一人で地下へ降りた。
地下にある資料室から、数年前の資料を探して戻るだけ。 資料室はエレベーターのすぐそこにあるから、そう迷うこともない。 そう信じたかったのだ。
その結果、男は真っ白な地下室に一人、ぽつんと佇んでいる。
四方は壁に囲まれており、背後には閉じたまま開きそうにないエレベーター。 すぐそこの壁にあるはずの見取り図さえ無くなっていて、正面には塔の地下にあるとは思えないものがひとつ。
男の右手にはずしりとした重みがあって、何だろうかと確認してみれば、ガラルの様式とは異なる手提げの桶が握られていた。
たっぷりの透明な水で満ちた桶は質の良い白木で作られており、白い薄紙が巻きつけられ、それを赤や白の細い糸のようなもので飾っている。 ジョウトやカントー辺りの様式だというのは察したが、何を意味するのかまでは分からない。
なので、男はポケットにちゃんと入っていたスマホを取り出して、彼女へ電話をかけることにした。
『── はいもしもし、どうしましたか?』
幼い少女の声が電話越しに鼓膜を震わせ、男は安堵の息を吐く。
彼女と繋がるだけで安心出来る。 こういった事態には、とても頼りになる少女だ。
「突然すまない、今は大丈夫かな。 少し困った状況なんだ」
『えー……またどこか変なとこに行ったんじゃないですよね……?』
「変と言えば変だし、そうでもないと言えばそうでもない。 バトルタワーの地下に一人で行かざるをえなくてな、エレベーターを降りたところなんだが」
『まあ、絶対に守れる条件でもないですからね、職場の地下に一人で行かないって……それで? また見取り図がおかしくなったんですか?』
「見取り図が無いんだ」
ひゅ、と電話の向こうから息を呑む音がした。
ああやはり、これはそういう事態なのか。 彼女が息を呑むのは、往々にしてそういうことだ。
『……周りには何があるんです?』
「何もない、と言いたいところなんだけど、少なくとも見知らぬ水桶を右手に下げているな」
『水桶……?』
「それと、目の前には」
ちらりと右手の先から、身体の向こう方向へと視線を移動させる。
近代構造物の地下にあるのは大変不釣り合いな、ざらつく灰色の石を積んで作られたそれが視界に入る。
「井戸が、あるな」
木の蓋が乗せられた大きな井戸は、ただ静かに、四角くて白い部屋のまんなかに存在していた。
『はぁ』
少女のそれは相槌ではなく、絞り出したような呼吸音だった。 深く掠れた溜め息に、男は何だか申し訳ない気持ちになって、少しだけ肩を縮めてしまう。
「俺だってこうなるとは思っていなかったんだぜ、思ってたら、絶対に一人では降りてこなかった。 今後は二度と一人で降りないと誓うよ、せめてリザードンを連れてくる」
『居ないんですねリザードン……』
「モンスターボールを執務室に置いてきてる……」
『あー……ええと、井戸……井戸ですか……? あの、よくある井戸……?』
「ええと、君の故郷の様式に近い気がするな。 何となくだけど、石の質感がガラルっぽくないと言うか。 木の蓋が乗ってて、他に付属物は無いぜ 」
シンプルに井戸ですねぇ……。 と少女が疲れた声でこぼす。 そう、彼女の言う通り、とてもシンプルな井戸だ。 ただ、バトルタワーの地下にあるはずがないという一点だけが異常なだけで。
『ところで、水桶はどんな感じですか?』
少女の問いに、男は右手に下げている水桶の詳細を説明する。 白木で、異国の様式で、 何も書かれていない薄紙と二色の紐飾り。 中が満ちていてずっしりと重い。
それを聞いた少女がひとしきり『どっちだろう』『何でダンデさんを』と呟いて、思考を整理しているのが電話越しにも分かる。 整頓が済むのを黙って待つ男は、井戸を見て、周囲を見回して、右手の水桶を見て、微かな違和感に首を傾げた。
何だか少しだけ、ほんの少しだけ、水桶の水が減っている気がする。
まじまじと水桶の中を覗く。 普通の水、それよりも透き通った清い液体が、男の動きに合わせてちゃぷりと揺れる。
気のせいかな、と視線を上げた。
「ユウリ君」
少女の思考整理が済む前に、名前を呼んだ。
「井戸の蓋が、少しずれてる」
ぴったりと井戸の上に乗っていた木製の蓋が、微かに、横にずれていた。
『……他に変化は?』
「桶の水が少し減ってる気がする」
『他には』
「…………いや、それらしい変化は特に……ちょっとだけ、空気が湿っぽいかもしれない」
『時間制限がありますね、急がないと』
思いの外、少女の声色は冷静だ。 それに安堵しつつ、男は嫌な音を立てて軋む心臓を左手で押さえながら、ゆっくりと深呼吸をした。 喉を通って肺に沁みる空気は、明らかに湿度が増していた。
『意図はどちらかだと思うんです、ダンデさんが水桶を持ち帰るか、あるいはそれを井戸に捧げるか。 間違えると面倒なことになると思うので、もうちょっと判断材料が欲しいんですけど……』
「ううん……何か周りにないか少し探してみるぜ。 ……というか、持ち帰るのならどうして井戸の蓋が開くんだ? 俺は狼藉者のポジションとしてこれを持ち帰らなければいけないってことか……?」
『……見取り図が無いってことは、そこはバトルタワーの地下じゃないんです。 そうなると、どうやって帰るのか、今のところ情報が足りなくて、何も分からなくて』
「あの見取り図ってそんなに重要な存在なのか……? ポケモンたちの、その、いたずらなんだよな……?」
『そりゃあ、見取り図は上から見下ろして描かれてますから。 ポケモンたちがそれにいたずら出来るってことは、ポケモンの視点の方が上なんです』
何やら知らない方が良かったような、知っておいて良かったような、やはり今後は地下に来たくないような情報が入ってきたが、男は一度首を横に振る。
「色々と聞きたいこともあるが、それは帰ってからにするぜ」
『そうですね、水の量と井戸の蓋はどうですか』
視線を下ろす。 水桶の中身は、明らかに最初に見た時よりも減っている。
視線を上げる。 井戸の蓋は、先程よりもずれており、僅かな隙間から暗闇が見て取れた。
「このままじゃまずそうだ」
『そうみたいですね』
改めて、胸に手を置いて男は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
すると何やら、くらりと頭の芯が揺れるような感覚に、少しばかり眉を寄せる。
目眩までは行かない、けれども呼吸は僅かばかりに浅く感じる。 額の奥の辺りが揺れて、頬骨周りの皮膚が少しだけ熱を持つ。
「……?」
『ダンデさん?』
「ユウリ君、ヒントがあったかもしれない」
身体に生じる違和感、それに抱く既視感に、男は水桶に顔を近付けて息を吸った。
鼻孔から気道、肺胞に感じた噎せるような熱。 これは。
「水桶の中身は、アルコールだ」
『── 井戸は、手入れがされてるように見えますか?』
あまり近づきたくはないが、そっと一歩踏み出して井戸の様子を窺う。
荒れ果てているようには見えないけれど、蓋には少しだけ砂埃が積もっているようにも見えた。
「いいや、あんまり。 ぴかぴかに手入れされてるって感じではなさそうだ」
『分かりました、蓋を開けてください』
「かなり嫌だぜ」
『でしょうね、では開けてください』
「チャンピオンはスパルタだなあ……蓋を開けたらどうすれば良い?」
『お酒を入れてください、少し減ってるから満足はしてもらえないかもしれませんけど』
「他には?」
『何も思わずに手を合わせてください。 ダンデさんは代理なので、何も分かってないって知っていますから』
「それで俺はバトルタワーに帰れるのかな」
『足りないものがあります。 でも、まずはお酒を入れてください』
「…………今出来ることが他にないなら、やるしかないか。 行ってくるぜ」
『はい、捧げてください』
ふう、と大きく息をして、男は井戸にしっかりと近づく。
捧げ物らしい酒を地面に下ろすのは気が引けたので、水桶は肘にかけた状態で、蓋を両手で掴んでずらした。 途端に、ひんやりとした水っぽい空気が辺りに満ちる。
井戸の中をちらと覗くも、中は真っ暗で何も見えない。 男が立つ空間は白く明るいはずなのに、井戸の底は見えず、光の反射さえ届いていないようだ。
肘にかけていた水桶を両手で支え、井戸の中へと注いでゆく。 ちゃぽちゃぽという水面を叩く音は、思ったよりもずっと浅いところから聞こえた。
最後の一滴までしっかりと捧げるよう、軽く揺すって桶の中身を全て水面へ注ぐ。 もう雫が落ちないと分かり、桶を天へ向けて持ち直せば、その中身は先程まで液体で満ちていたとは思えないほどに乾ききっていた。
空になった水桶を地面に置いて、目を閉じて手を合わせる。 異国の風習はそこまで馴染みのあるものではないけれど、不思議としっくり来る。 まるで、こうすることが当たり前みたいに、手を合わせて捧げることが定められていたみたいに。
いつまでこうしていれば良いのかは聞かなかったけれど、なんだか、まだこうしていなければいけないような気がした。 そうあれと言われているというよりか、そうあるべきだと自分で理解しているかのようだ。
男は静かに、ただ静かに手を合わせて待つ。 待つことのみが許された行為であって。 捧げられるのは男に許された権利であり義務でもある。 けれども男は代理であったため、その義務は本来よりもずっとずっと、ずっとやさしいものだ。
それに想定よりも減った量が少なかった。 だから男は不足分を補うにも少量で済んだ。 本来ならば不足分を補ったとしてもそれ以上に捧げなければいけなかったのだから。 けれども減ってはいるのだから、補う必要はあるのだ。 減ったのならば足さねばならない。
幸いなことに男は高潔な人間でもある。 ただびとにしては格が高い。 なので補うにもわずかで済んだ。 よい代理だと思った。 ほんとうにただびとだったらもう少し、多めに捧げねばならなかった。 ただびとでなければ、もっと少なく済んだのだけれど。 あれは捧げられるものではないから、贅沢は言わずにいよう。
ぽたり、ぽたりと不足分が補われてゆく。 陽の射さない地下には眩しい色がちょうどよかった。 少しの間だけ色は欠けるがじきに戻るものだから。 捧げはしてもまた満ちる。 贅沢は言わない。 肥え太ってもよいことはない。 捧げられた不足分が染み込んでゆく。
あとすこし。 もうすこし。 足りないものも、補われたもので満たされた。 ああ、そろそろいいだろう。 満足した。 もういいだろう。 満足だ。 もういいよ。 もういいかい。 もういいよ。 ああよかった。
ごちそうさまでした。
──── ふと意識が浮上した男は、自分を見下ろすチョコレート色に目を細めた。
ガラルでは珍しい色の瞳をしばらく見てから、辺りに視線を向ける。 人の姿こそ無いが、いつもと変わらないバトルタワーの地下だ。
視界の端に地下の見取り図が掲げられていることに気が付いて、戻ってこられたのかと男はゆっくりと身を起こした。
どうやら少女のリュックを枕に横になっていたらしい。 少女は、その横にしゃがんで顔を覗き込んでいたみたいだ。
「ダンデさん、大丈夫ですか?」
「ああ……ええと、井戸は無いな……?」
「無いですね、いつもの地下です」
「良かった……また君に迷惑をかけてしまったな、助かったぜユウリ君」
「もう慣れたから良いですけどね、ところで、ほんとに大丈夫ですか?」
「うん? うん……身体の調子も悪くなさそうだし、見取り図もちゃんとあるし……」
リュックを背負って立ち上がった少女から、赤黒い布を渡される。
反射で受け取ったそれが、濡れて重く、鉄さび臭いことに思わず眉を寄せた。
「……これは?」
「ダンデさんの顔を拭いたあとのハンカチです」
「…………」
「鏡、見ますか?」
「頼む……」
どこか怪我でもしたのだろうかと内心不安になりながら、可愛らしいモモンのみ型のコンパクトを受け取る。 ぱかりと開けて鏡を覗くも、顔に傷らしいものは見当たらなかった。
僅かに拭き取りきれなかった血の跡はあるが、出血のもとがどこかも分からない。 はて、一体どこから、と首を傾げた時だ。
鏡の中の自分と目があった男は、思わずひゅっと息を呑んだ。
「……これ、治るんだよな……?」
「たぶん……」
色の抜けたような灰色の双眸の男は、深く深く息を吐いて肩を落とす。
命があるだけましだと、そう自分に言い聞かせるほかない。 しょっちゅう妙な場所に迷い込むのだから、ほんとうに、命があるだけましなのだ。
「まあ……君のお陰で戻ってこられたし、良しとしておこうか」
「わたし何にも分かんなかったですけどね……」
「でも、水桶の中身が酒だって分かったら、すぐに何をすれば良いか教えてくれたじゃないか」
「あれってお酒だったんですか?」
「え?」
「え?」
顔を見合わせて、首を傾げて、二人揃って見取り図を見上げる。
奇妙な形に道と部屋を増やし続ける見取り図の中に書かれた『井戸』の文字が、現れてすぐに消えていった。
「まあ、井戸神さまにお酒を捧げるのは珍しいことじゃないですからね」
「何で俺がその役目だったのかは不思議だが、まあ無事に果たせて良かったよ」
「でもちょっとだけ不思議ですね」
「ずっと全部不思議だぜ」
「井戸にお酒を捧げる時は、だいたい塩も一緒に捧げるんです。 お米とかもセットになるんですけど、神饌的にはお酒が一番で、塩は清める役割だったりで」
「……俺の目の色は、塩でも米でも無いと思うんだけどな」
「それは趣味じゃないですか? どっちかというと、血の方を捧げ物にされたのでは」
「血なんて井戸に捧げたら汚れないか? 泥を一握り入れるだけで泥水になるだろうに」
「それは神様次第かもですねえ」
「……治るよな? この目……」
「たぶん…………」
一週間くらいで目の色は戻った。
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