ドーナッツ


「人知れず休憩できる穴場があるから、教えてあげよう。」
先々、譲介君にもそんな場所が必要になるかもしれないから、と言って朝倉先生に連れてこられたのは、大学から十五分の距離にある、何の変哲もないドーナツショップだった。
クエイド財団本部ビルからほど近い場所にあって、けれど、中に一歩入って見ると、大学生や医師の姿はほとんど見られない。昼食を食べるための時間はすっかり過ぎていて、客層は老若男女問わず、と言ったところだった。学校をサボってスマートフォンをいじっている高校生らしい二人組。小さな子どもをベビーカーに載せた女性ふたり連れ、子育てが手を離れたらしい年代で集う女性達や、ドーナツを黙々と食べながら新聞を開いてる男性もいる。
「こんな場所があるんですね。」と譲介が言うと「みんな、ここのドーナッツを目当てに来るのさ。かくいう私もその一人だけどね。」
朝倉先生は笑いながら、壁際に並んだドーナツの棚の前に譲介を誘導する。
言い慣れた英語の発音を無理に日本語に直しているようなドーナツの響きに、譲介も笑い返す。
いつも微笑んでいる彼に、こっぴどく叱られたのはほんの一時間前のことだ。あれは確かに初歩的なミスで、後になればなるほど、どうして、という気持ちが強くなる。元々の英語話者でない、ということは言い訳にもならない。
今、彼は、譲介に伝わる言葉で話しかけている。当然のようにフォローしてもらうべき新人として扱われることは悔しいが、今日の僕の出来を見れば当然だし、忙しい彼がこうして時間を作って外に連れ出してくれたことに感謝の気持ちが湧いてくる。
さあ、甘いものでも食べて気を取り直そう、と張り切っている朝倉先生の様子を見ると、気持ちが軽くなってくる。
それにしてもこの店、トレイとトングがどこにもないな。
初めての来店で勝手がわからずに辺りを見回している譲介の疑問に朝倉先生は「前はセルフだったんだけど、コロナがまん延した時期に、注文票を書いてその数だけ店員に取らせるやり方に変わったんだ。」と教えてくれた。「胡麻のたくさんついたドーナッツが一番人気。カレー風味のドーナッツは……ないようだ。」
さて、君はどうする、と言われて、譲介はドーナツの前に貼られた商品名のカードを眺めた。コーヒー味、チョコ味、クリーム入り。
あの人と暮らしていた時、近所のパン屋で揚げたてを出していたようなシンプルな粉砂糖掛けのドーナツが食べてみたかったけれど、似たようなものはないようだった。それなら、何も考えずに朝倉先生のお勧めを選んでおけばいいかと思いながら視線をうろうろさせた譲介の目は、奥の棚にあるカラフルな一角で留まった。
チョコレート掛けのドーナツは、ピンクとブルーと黄色で、色とりどりのチョコレートやココナッツの粉、あるいは小さく千切ったマシュマロが掛かっている。
時折、春先のコンビニで苺風味のチョコレートを掛けたドーナツを見かけることはあったけれど、青い色は奇妙にアメリカ風だ。
――和久井君、たまには、アメリカらしい写真を撮って送ってくれない? 私から麻上さんにも転送しておくし。
しばらく前に宮坂から入っていた短いメッセージをふと思い出した。
「どれを食べる、というより、いくつ食べるかで迷ってるのかな。私は先に飲み物を選んで席に付いているから、君はゆっくり選ぶといい。」
飲み物はコーヒーでいいだろう、今日の豆はメキシコ産で飲みやすいタイプだ、と言われ、譲介はお願いします、と答える。
この時間に食べるドーナツは、昼食の代わりだ。青いドーナツをひとつ選んで、もうひとつは無難にオールドファッション。トレイに載せて会計をして振り向くと、朝倉は、店の奥、絵が飾ってある手前の席に陣取り、譲介に手を振っていた。
「先に食べていただいてて良かったですよ。」
席に付いた譲介がそう言うと、「メールが入っていてね。休憩を巻いて早めに戻って来て欲しいって。君宛の伝言もあった。」と朝倉先生は苦笑した。
「僕にですか?」
「私の首根っこを掴んで戻らないと、実習の点数を下げるって。」
「それは怖いですね。」
そういうことを真顔で言い出しそうな教授の顔を頭に浮かべながら、ジャケットに入れていたスマートフォンを取り出して食べる前のドーナツの写真を撮った。
「スタンダードから外れるスタンダードだね、君のチョイスは。写真映えはするだろうけど、いつもの好みとは違うんじゃないか。」
「勉強ばかりじゃなくて、たまには留学生っぽいことをしないとそのうちパンクする、と宮坂から釘を差されたので。」
ああ、一也君のステディの彼女、と朝倉先生は言った。
彼女か。
それはまあ、一也の方ばかりを見ていたらそういう認識にはなるだろうな、と譲介は思う。
黒須一成が宮坂詩織を好いていることは、傍から見ても一目瞭然だ。
けれど、宮坂詩織という女の普段の生態がどうかというと、一也のことも譲介のことも、まとめて医者という道を志す好敵手と見て、日々ライバル心を燃やしているのだが、彼女のそうした面を、この人はほとんど見ていない。
今はどうなってるんだろうな、と思うが、宮坂のメッセージからうかがえる一也の近況を見るに、さして進展はしていないようだ。
「こっちでの生活はどうだい? 英語には慣れてきたようだけど。」
「順調と言うのとは違いますが、そういえば、この間夜中に腹が減って、ありあわせの材料でカリフォルニアロールを作りました。」
イシさんから送られて来たカレーのルーやスパイスも粗方尽きて、余った米をどうするかと考えた時、海苔があったのだ。アボカドと卵、サーモンを買って来て、巻きすがない代わりにクッキングペーパーで代用した。
「ああ、それはいいね。」と彼はコーヒーを啜りながら言った。
「米は腹持ちが良いから、少しで足りると分かっていても、私も時々食べ過ぎてしまう。」
カリフォルニアロールを作っている間、不思議なことに、カレー以外のもんも食べれるようになれ、と言いながらずっと譲介のためにカレーを作ってくれていた人のことを思い出した。
「食堂で時々出されるガンボ、あれも次行った時に食べてみようかな、と思います。」
オールドファッションを四つに千切り、もぐもぐと咀嚼する。油か、あるいは粉が違うのか、日本で食べるのとはまた別の味に感じられる。
「ガンボねえ……もっといい時期になったら、美味しい店を紹介するよ。シーフード全般が美味しくて、いい感じの店だから、いつか、君の大事な人がこっちに来たら、連れて行くといい。」
朝倉先生の言葉に、譲介はコーヒーを吹き出しそうになった。
「な、あの、」
譲介が朝倉先生の前でTETSUの話をしたのは、あの出発の日の一度きりだ。
それも、手紙を書いたと言っただけ。
恩師を前に、まだそのネタを引っ張りますか、とも言えないし、それは誤解です、と言えば言うほど、逆に藪蛇になりそうなのが困る。
「シェフは僕の元患者だったんだ、君にも一度紹介するよ。」
「朝倉先生……単純に疑問なんですが、今の僕にそんな余裕がありそうに見えますか?」
「今じゃないよ。いつかの話だろ。その時は僕にも紹介してね。」と譲介の師匠はにっこり笑っている。
朝倉先生のさっきの切り返しは、確かにこの気まずい場面の助け船でもあったはずだが、それは二秒前の話だ。これ以上からかうのは止めて欲しい、ときちんと断っておかないと後々の禍根になるという気持ちが先走ってしまった不肖の弟子は、自らが掘った墓穴に頭から突っ込んで土を被った。
はい、ともいいえ、とも言えずに譲介がまごついていると、「まあ、君が医者になったら、きっとその人もこっちに顔を見せてくれるさ。」と彼は手を伸ばして譲介の肩を叩く。
この先の僕の歩みは、病に立ち向かうあの人の時に間に合うだろうか。ふとした瞬間に頭の中を過るそうした焦りに囚われてしまう自分を、朝倉先生は、前に立って導いてくれる。
僕は大丈夫だ。
目の前の師匠は、さて行こうか、とこちらの気持ちも知らぬげに上品にドーナツを齧り、指先についた胡麻を舐めた。
「一つじゃ足りないな、手土産を持って帰ろう。」そう言って立ち上がる姿に、譲介も、はい、と返事をして後に続く。
返却用の棚に皿を重ねたトレイを乗せながら「どうせ誰かに食べさせるなら、あのピンクのマシュマロを乗せたやつを買ってみたいね。誰が見たって、あれは食べにくい。」と先生が言った。
譲介は、TETSUがカラフルな春色のドーナツを手にしているところを思い浮かべて、小さく笑った。

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