雨の夜


カリフォルニアに雨が降るのは、珍しい。
それも、横殴りの雨だ。
突然の雨天で車が渋滞する中、買い換えたばかりの愛車――パートナーの好みで、結局はハマー二号のようなジープになってしまった――を運転して、這う這うの体でマンションまで戻って来ると、まるで車が屋内駐車場に入るのを待っていたとばかりに小雨になっていて、譲介は舌打ちをしたいような気分になった。
カリフォルニアに長く暮らしていて、もう傘なしで生きていけるようになってように思っていたけれど、やっぱり長く住んでいればこんな日もある。車に乗る直前にも降り込められたせいで、ほとんどおろしたてのジャケットに、すっかり水が染み込んでいる。もう一か月はこのままでいられると思ったのに、こんなに早くクリーニングに出す羽目になるとは、とため息を吐いた。とはいえ、このジャケットにランチで隣合わせたり、エレベーターで乗り合わせたりした男女問わずの香水や何かの匂いに妬いてしまうような相手と同居していることを考えたら、確かに雨の匂いだけが残っているこのジャケットはいっそ天の配剤かもしれなかった。

昼間のように明るいエントランスを通り抜け、エレベーターに乗る。
腕時計を見ると、針は午前二時を指していた。今からベッドに突っ伏せば、四時間は寝られるはずだ。シャワーを浴びてパジャマに着替える時間が惜しい気がするが、後になって必要だと思うことは今済ませておくことが大事だ、と考えながら、デジタル錠と鍵の二重ロックを開ける。
学生時代に借りていた部屋ほど狭くはないが、診療所の入口ほど広くはない玄関に足を踏み入れると、上がり框もなくフラットなその一角の隅に、いつもの往診鞄があった。その横に、小さな手荷物を入れた自分のリュックを置く。十六の年から、ずっとそうしていたみたいに。
出しっ放しになっているということは、あの人はまた、明日も近くに住む妊婦の面倒を見に行くつもりなんだろう。医療保険が高すぎるということもあって、アメリカという国では、医療へのアクセスは貧困家庭でなくともハードルが高いことがままある。この区域では、クエイド財団によって、それをカバーするための網が満遍なく敷かれてはいるが、どんな理想郷でも、その大きな網の目からこぼれ落ちる人たちがいる。定職に就いた――村の診療所に居た僕をスカウトしに来た財団に医師として雇われ、時折会長補佐としてあちこちに出没する朝倉先生の右腕となり、間接的に財団の方針決定に参画する羽目になっているという現段階での状況を、一言で言い表すにしても、それは端折り過ぎではないかと思うこともあるけれど――僕の稼ぎがある今、TETSUは誰に頭を下げることもなく、やりたいことをしている。それは誰にとってもいいことじゃないか、と思う一方で、暴れるのはクエイドの中だけにして、目の届かない場所には行って欲しくないという気持ちに囚われている自分もいる。誰から見ても、寛解後の彼は今では元気すぎるほどで、財団の中では、百まで生きるだろうと賭けまで行われているというのに。
はあ、とため息を吐くと、「遅かったじゃねえか、譲介。」という言葉がリビングから掛けられる。
「ただいま、徹郎さん。」と言うと「おかえり。」と返って来る。
夜まで掛かる手術のある日の常で、TETSUはいつものようにリビングで起きて待っていた。
僕は、気持ちの赴くままに彼に身を寄せて、座ったままでいる彼の頬にキスをする。くすぐったそうにして彼がそれを受ける。幸せだな、と思っていたら、頬にぺたぺたと手形が飛んできた。「おい、譲介。どれだけ疲れてても、こんなところで寝るな。」
疲れがどっと来て、一瞬だけ目をつぶっていたらしい。
「雨が降ってたの、知ってるでしょう。あちこちに渋滞に行き会ってこんな時間になったんだから、少しはいたわってください。」と冗談めかして言うと、TETSUは、この馬鹿がという顔をしてから、獰猛な顔で笑った。
「ったく、昨日はもう少し寝ておけっつっただろうが。」
「それはそうなんですが。」
「てめぇのコンディションはてめぇで把握しておけ。寝不足で手術に失敗するような頓馬にクエイドが椅子を残してやるとでも思ってるのか? ここが訴訟大国ってのは知ってるだろうが。」
「ストップ。」と彼の意気軒高な忠告に口を挟み、一杯だけ、と流しで水を汲んで一息に飲み干す。
疲れた体に水が染みる。
「反省してます。自分でもわかってるんです、途中で止めておけば良かったって。でもあなたと一緒に論文のことを考える時間が持てるのが楽しくて。」肩を竦め、仕方なく正直に言った。
十六の年の自分は、最初に認めたライバルで、今は得難い友人ともなっている一也との間にある十年という経験値の差を感じ、いつかは追いついてやる、と意気込んでいた。それでも、この人との間に横たわる三十年は、長すぎる。ずっとあの頃のまま、埋まらないと思っていたのだ。
夜に差し向かいでコーヒーを飲み、ひとつのテーマを話題に、対等に話し合う。
自分が誇らしく思えるような、そんな瞬間が来ると、どうして想像できただろう。
初めて夜更かしをした子供みたいに、この時間を手放したくない、一瞬でも長く、と思ってしまうのだ。
「例え制限時間を決めたとしても、昨日みたいに話が白熱したらどうなるか分かりません。」と言って肩を竦めると、「んなこたぁ、分かってんだよ、オレだって、」とTETSUは言った。
照れたような様子で白髪頭を掻くその仕草が愛おしくて「好きです。」と言うと、調子に乗るな、と言って立ち上がったTETSUに耳を引っ張られた。「さっさとシャワー浴びて着替えて来い、馬鹿野郎が。」と言われ、バスルームに追い立てられる。
「先にベッドに入って、論文読んで待っていてください。」
なるべく早く行きますから、と言うと、この間みたいに年寄りを枕代わりにすんなよ、と言って彼は笑った。




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