シーズングリーティング




テレビでクリスマスのコマーシャルが流れると同時に、皿に残っていたカレーを勢いよくかきこんだ譲介が「ごちそうさまでした。」と合掌して立ち上がる。
さっと自分の分の皿を洗って片付けてしまうと、お先に失礼します、と頭を下げて部屋に戻っていった。
この間約3分。
部屋を出て行く様子を眺めていた村井さん、麻上くんと一緒に顔を見合わせた。
普段であれば、茶を飲みながらタイミングを見て、部屋に戻るところだ。
ルーティンの雑事を無視してしまうというのはいつもの譲介ならありえないことだった。

――今年のクリスマスは、家族みんなでスパーランドへ行こう!

不機嫌の扉が開いた理由は、恐らく直前に流れたコマーシャルだろう。
あるいはツリーを飾り付ける家族を描いたカレーのCMか。
譲介はあのドクターTETSUと二人暮らしだった、と思い出すのはこんな時だ。
あの男なら、譲介がテレビを消したいという意思を示せば、その理由を詮索することもなく好きなようにさせてやったに違いない。あるいは、譲介が言っていた通り不在がちだったというなら、テレビ自体を付けずに過ごしていたとも考えられる。
だが、今の状況はその頃とは異なっている。
集団生活、と言うには小さなコミュニティだが、この診療所で暮らしていくなら、慣れて行くしかない。
自分の気持ちをコントロール出来ないまま医者になることは出来まい。
この先、十二月の終盤まで、こうした映像は何度も流れるのだ。
「譲介君、今日は疲れてたのかしら。」
麻上君は、部屋に籠ってしまった譲介にも聞こえるような不自然に大きな声を出した。
何が譲介にとっての不機嫌のスイッチになったのかは、この場にいる三人は分かっているが、だからと言って今更わざとらしくテレビを消すわけにもいかなかった。
村井さんの視線が、譲介の背中を追うでもなくこちらを伺っていた理由も分かる。
親父が消えてからの一年を、この人と一緒に過ごしたのだ。残念なことに、譲介の取った行動は、身に覚えのあるものだった。村井さんから見て、部屋を出て行った譲介の背にあの頃の俺の姿がオーバーラップしたとしても不思議はない。
「……譲介君にコーヒー入れてきましょうか。」と麻上君から合いの手が入る。
そんな風に譲介のフォローを入れて済ませられるような問題ではない、とは、ここで彼女に言っても仕方のないことだった。
「飲み物を持って行くにせよ、今は放っておいた方がいい。」と伝えると、「はい。」と頷く彼女は、こちらの言葉に納得していないような顔つきをしている。
声を掛けるタイミングは早ければ早いほどいい。看護師としての経験上、彼女の中でそうした勘が働いたであろうことも分かっているが、彼女には親がいない者の気持ちを想像することは出来ても、経験したことはない。
「腹も満ちたことだ。譲介も、明日になれば落ち着くはずだ。」
腕組みをすると、「紅茶なりコーヒーなりが必要なら、私が持って行きましょう。」と村井さんが助け舟を出した。
村井さんからのフォローに「じゃあ、今夜は村井さんにお任せします。」と麻上君が答える。
お先に失礼させていただきます、と立ち上がった麻上君が礼をする。
「譲介君、今夜は勉強捗るといいですね。」
「そうだな。」
麻上君は、譲介が他者への壁を作っている理由を、養い親であった男から捨てられたことが理由だと思っている節があるが、実際はそれだけではあるまい。二親から捨てられた生い立ちが、譲介の人生に今も影を落としているのだ。
このまま医者になったところで、いずれは行き詰まりを感じる時がやって来る。
だが、傷が癒えるには、時が掛かるだろう。


譲介の代わりに片付けをしてから帰宅しようとする麻上君を手伝っている間に、村井さんは、昼の残りのほうじ茶を茶碗に入れ、盆に載せて部屋を出て行った。戻って来たのは、数分後だ。
「譲介はどうでした。」
「普段通りです。」
「……麻上君に、言わないでいてくれてありがとうございます。」
「はて、何のことですかな?」
こんな風に村井さんのとぼけた顔を見るのも久しぶりだ。
少しだけ笑ってしまった。
「先生、話は変わりますが、私から見ても、譲介くんには掃除だけさせておくには惜しい腕がある。この先も何も教えないつもりですか?」
はい、ともいいえ、とも答えづらい質問だった。
今の譲介には、少なくともTETSUの教えた経験値がある。
けれど、この先春まで何も学ばないまま時が過ぎれば、それを無に帰すことになるかもしれない。
そのことを村井さんは懸念しているのだ。
身体で覚えたことは忘れないが、知識は上書きしていく必要がある。
「麻上君と一緒に、外回りには出てはいるでしょう。」
「彼では、幼い頃からここにいた一也君と同じようにはいきません。この先、比べられもするでしょうなァ。」
村井さんが何を懸念しているのかは分かるつもりだが、譲介とてそれを承知でここにいるはずだ。
「譲介が普段見ているものから学ぼうとしないのなら、こちらからは何も言えません。」
「先生、もしこの先……譲介くんがここにいるとなれば、」
続く村井さんの言葉を、どうしてか聞く気にはなれず「次こそ受験に合格するでしょう。」と言った。
「……そうですな、きっと。」
心の中に、幼い日に受けた傷跡がまだ残っているとしても、それは本人でどうにかするしかない問題だ。
他人が手助けすることは出来ない。
「先生、」
そう村井さんは言うが、目の前の人は、父母が健在だった頃の俺に相対していた頃の顔つきになっている。
腕組みをして「なんでしょう。」と頷く。
「譲介くんは、十九の学生です。麻上くんが彼を心配するのは、彼が子どもだからです。」
「十九の年は、独り立ちが出来る年でしょう。」と言うと、村井さんは眉を上げ、それからまたいつもの顔に戻った。
今日はもう失礼します、と飲み終わった茶椀を流しに持って行き、そこで茶碗を洗いながら「今となっては言い訳になりますが、私が一度ここを去ったあの年も、あなたが大人だから大丈夫だろうと思っていたわけではないのです。」と村井さんは言った。
そう言われて、TETSUに置いて行かれた日に泣きじゃくっていた譲介の顔を思い出した。
いつものボア付きの襟が付いたジャケットを羽織り、では、また明日、と言って村井さんも薬品庫に帰っていく。
誰もいなくなった食卓の上のリモコンを取って、テレビの電源を消した。
譲介が部屋に籠ってしまった後の夜の診療所は、あまりにも静かだった。



***



「定期検診の前だからってご遠慮なさらず、まだ十日もあるじゃないですか。ええ、はい。――それでは、ご希望は土曜日の十一時半からですね。必要事項を記入した問診表と接種券をご持参ください。――ではまた土曜日に。失礼いたします。」
受話器を置いた麻上君に「宇佐美さんか?」と尋ねる。
「はい。去年は皆さんも、普段の検診よりワクチン接種に切実でしたが、……先週に宮坂先生も仰っていた通り、今年になってからは、定期検診があるんだからそのついでに、という方が多くなりましたね。こちらからハッパを掛けておかないと、もう、あっという間に雪が降って来ちゃいますから。」
ふう、と麻上君が息を吐いた。
彼女はこう言っているが、未だにコロナ前と比べれば、師走も半ばと言っても、予防接種の予約は引きも切らない状況だ。
富永が実家を継ぐためにS県に戻ってからというもの、師走はずっと例年通りのばたつきと言ったところだったが、ミレニアムから二十年という節目の年を目前に、世界を席捲するウイルスが現れた。
ウイルスへの備えとそれに対応するワクチンの接種が急務となってからこちら、診療所も細々した仕事が増えるばかりで、一日一日はまるで早回しになったビデオのように目まぐるしく過ぎて行く。
診療所自体が狭い上、平成の間に過疎化が進んだことで、基本的に複数人の待合になることはこれまでも稀だったが、ほとんど個別応対となってしまうのだ。そこに来て、死亡率が高い新しい感染症の流行とあっては、普段以上に高齢者の健康に気を使って顔を合わせる時間も最小限に留め、来所の人数は、一家族、あるいは車に同乗してやって来る二、三人までとして、普段は休みになる祝日も、予防接種の人数の割り振りをすることになった。世間でも必至の流れとはいえ、このところは、休日を返上して接種に当たることもある。村の外からの来客もなくなってしまったことで、麻上君が不在の日には、富永が来たばかりの頃のように、村井さんとイシさん以外にも交代で助手をお願いすることもある。
譲介が渡米して以来、一也と宮坂君には交代で休みを取ってもらっていたが、このところのふたりに疲労がたまる前にと、竹松地区での往診の予定を繰り延べにさせてもらい、今日はふたりともを休ませることにしていた。
西海大では、医師、看護婦ともに罹患者が増えており、手術の手が足りずに延期が続いているような様子で、その上、長距離の公共交通機関を使っての移動ともなれば、途中で感染の危険もあるということもあり、年内に数件の予定があった手術が見合わせとなってしまった。
診療所には、イシさんが通っている上、村井さんも心臓の手術歴がある。
麻上君も、口には出さないがホッとした様子で、これで良かったのだろうかという気持ちはあるものの、今はまだ、村を動かずにいるのがベストの選択なのかもしれなかった。
村に籠って、外の惨禍に手をこまねいているばかりの日々に、明るいニュースはほとんど聞こえて来ない。
父の許しを得て白衣に袖を通すようになって以来、日々研鑽と念じてやってきた。それが、ここに来て、冬は寝起きが億劫になる、という富永の言葉を思い出すことが多くなった。
麻上君がポストに郵便物を取りに行った玄関先から、わあ、という声が聞こえて来た。
「先生、譲介君からエアメールですよ。」と消印の押された封筒を持ち上げてこちらに知らせて来た。
「……早いな。渡米して三か月だぞ。」
「まだ三か月経ってないんじゃないですか。譲介君、もうすっかりあっちに馴染んだかしら。」
イシさんが送るカレーには、毎回メールを礼状代わりにしたためて来る譲介が、初めてこちらに寄越して来た封筒だった。
麻上君は「黒須先生と宮坂先生がお休みを取ってる日めがけて手紙が届くなんて、さすが譲介君だわ。」などと呟いている。
表書きには神代一人様、診療所の皆さんと書いてある。確かに神代宛になっているとはいえ、譲介が一番気を遣っているだろう人が不在のうちに、勝手に見ていいものかと思う。
「今日、イシさんが来たタイミングで封を開けたらよかろうとは思うが、……一応、村井さんにも、調整して早めに来てくれるようにと呼んでおくか。どう思う?」
「そうですね、ではこの手紙はお昼時にしましょうか。村井さんも薬品庫を空けて来る必要がありますし、今のうちに連絡しておきます。」
今日は大丈夫かしら、と麻上君が電話の受話器を上げる。内線じゃないのが面倒なんですよね、と言っていたのがいつのことだったか、今では暗記してしまった薬品庫の電話番号をプッシュすると、村井さんに連絡が取れた。


「ほ、これは。」
「……あら、譲介君ってば。」
「意外ですな。」
譲介の封筒を開けて出て来たのは、一枚のクリスマスカードだった。
ハッピーホリデーズと金色の箔押しで書かれたカードは、確かにこちらの書店で売っているようなクリスマスカードでは見ない仕様だった。
譲介が選んだのは、クリスマスツリーの下に並ぶプレゼントと暖炉の前の犬の絵柄だった。
ありがとうございました。来年もよろしくお願いします、と書かれている。
ここに来たばかりの頃には、クリスマスの頃にテレビを付けながら食事をしていると、ニュースの合間のコマーシャルを眺めては食事を終えて部屋に籠ってしまっていた、あの頃の譲介のことを思い出せば、人は変わるものだと思う。特に、一也や宮坂君がここに来てからは、普段の口数が特段に増え、その年なりの青年の顔になっていた。
とはいえ、いつもの譲介の字で端書に年賀状のお気遣いは不要ですと書かれている。
「気遣い不要って言われても、何か一筆書きたいわね。皆さんどうです?」
「いいですなあ。」
「またカレーを送る時に入れたら届くじゃろて。」
「俺は、」
「先生、お便りっていいものですよ。今の譲介君には、必要だと思います。先生用には、あまり書くスペースがない葉書を選んで買って来ましょうか?」
そう言って、麻上君は笑っている。
「そうだな、」と答える。
譲介がここにいた七年で変わったように、俺もまた、変わっただろうか。



「ジョー、またカレーが来たのか? そうだろう。いつもと足音が違ってた。」
隣の部屋のジェイがやって来た。
なんて鼻が利くヤツだ。
日本からの荷を開封するのは自分だけが部屋にいるタイミングでしておきたいと思うのに、それがなかなか難しい。
普段は顔を見せないで部屋に籠って勉強漬けなのは僕も同じだが、ジェイの方が英語が堪能で、顔を合わせるのは課題に苦悩している時か、夜食を分けて貰いたいと思う日くらいだ。世話になっているのだから、わざわざ来なくても一応顔を出すつもりではいるのだが、いつもこうして先を越されてしまう。
いつもの通い箱を開けると、一番上に新聞紙で包まれた何かが入っている。
「今日はカレーだけじゃないみたいだな。これ、肉か?」とこちらの肩越しに荷を眺めていたジェイが言う。
パックにされた肉にしては薄い、と思いながら新聞紙の包みを開けると、あの頃に見慣れた紙束が入っていた。
「………年賀状だ。」
「ネンガジョウ、って日本のシーズングリーティングだったっけ。ジョー、すごい枚数だぞ。これは、全部君宛か?」
「そうらしい。」と譲介は言い、中の台所用のジップロックに包まれた年賀状を手に取った。
束になった年賀状の、その一番上に、先生の名前がある。
神代一人。
裏を捲ると、麻上さんから、メモが入っている。

――譲介君に年賀状を送るって村井さんが周りに言ったせいで、村の人の分も送ることになったから、その分カレーの量が減っちゃってるかも、ごめんね。

ここにはいない、彼女の声が聞こえる。
「嬉しいか?」
「ああ、嬉しい。」
「そうかそうか。」とジェイは言って、サムギョプサルを切る調理用の鋏を器用に操る手で、そっとこちらの肩を叩いた。
「手紙を読みたいなら、席を外そうか。」
「いや、寝る前に読むから、カレーは先に食べてしまおう。」
寮の冷蔵庫に食べ物を入れておくと、名前を書いておいてもなくなっていることがあるのだ。
誰が食べたか分からないほど人数が多く、そしてその分だけ治安も悪い。
寮の部屋を移って、自分の部屋の中にそれなりの大きさの冷蔵庫も置けたらいいと思うが、あの通帳の金を使うと思えばそれも難しい。カレーが来た時には、結局、隣のジェイの部屋にある、キムチ用の小さい冷蔵庫を借りることになる。
「夕飯にはまだ早いけど、ジョーが食べたいなら仕方ないな。先にキッチンに行って、ライスとカレーを暖めて来るから後で来い。」
それにしても、今日のは随分しょっぱいカレーになりそうだ、と言って、譲介の肩を叩いた隣人は、二セット分の食事を持って部屋を出て行った。
譲介は、目の端に滲んだ涙を拭って、ジップロックから葉書を出した。
年賀状の束には、すっかりカレーの匂いが移っている。譲介は小さく笑って、大好きなその匂いを吸いこんだ。

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