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「蓮、明日時間ある?」
うだるような暑さをほんのり残す夏の気配が、ようやく爽やかな風に散っていく昼下がり。珍しく明智がそんなことを言った。行儀悪くもテーブルに肘をつき、携帯端末の画面をトンと指先でつつきながら発せられた言葉に俺は思わず首を傾げる。
「え、あるけど」
明日は休みの日だ。店長に働き過ぎだと指摘される俺は、強制的に二連休を取らされることがままあった。いやだってお店忙しいじゃないですか、と反論したところで店長の後ろにいるスタッフみんながこぞって「雨宮さんはワーカホリックか何かですか?」「働いてないと死ぬんですか?」「いつ休んでるんですか?」「家でも試作してるんでしょう?」などなど様々な指摘が飛んできて、何も言い返せない間にあれよあれよと休みを取ることになり連休になってしまった。まぁ、明智と一緒に過ごせる時間が増えるのは嬉しい事ではあるんだけれども。
特に買い物に行く予定もなし、誰かと約束があるわけでもなし。ちょっとだけ手抜きのままで過ごしていた家の掃除をしたり、家にある材料でなにかしらの試作をするのもいいかなと思っていたところだった。明智の好きな食べ物を増やすべく、俺は試作と言い張りながらひっそりこっそりと日々頑張っている。
ホットにするかアイスにするか悩んだ結果、とりあえず今日はアイスになったコーヒーが満たされたグラスを明智に手渡す。ありがとう、と受け取ってくれる事実が嬉しい。
「じゃあデートしよう、蓮」
ふ、とどこか面白い事を思いついたとばかりに口角を上げた明智の表情を見て、俺は思わずぱちりと目を瞬かせた。
「僕はちょっと先に仕事で用事があるから。仕事が終わるのは多分十二時過ぎ。集合場所はいつものところ」
仕事に出る明智の見送りに出た俺は、玄関口で告げられたそれらの言葉に再び瞬きを繰り返すこととなった。昨日から明智はどうにも機嫌がよさそうだ。
「いつものところ?」
ことりと首を傾げると、明智は楽しそうにふふと笑った。そう、いつものところ。そのままおうむ返しされてしまって、俺は思わず眉を寄せた。いつものところ、という程決まった場所が、俺たちにはあっただろうか。
「……明智の職場の最寄り駅?」
「さぁ? 君ならわかるでしょ」
怪訝そうな俺の表情とは正反対に、彼はとても楽しそうな顔をしている。そんな顔を見せてくれるのは結構珍しくて、思わず見惚れてしまいそうになる。いやいや、見惚れていてはいけない。どういうこと、と問いただそうとした瞬間に、ぐいっと襟元を掴まれて引き寄せられた。わ、と間抜けな声が口から零れ落ちる。次の瞬間、ちゅっとくちびるに触れるだけの口付けが贈られた。明智の柔らかいくちびるは相変わらずきちんと手入れされている。珍しい、本当に珍しい。昨日から明智はどうしてしまったんだろう、と思わずにはいられないほどに。
「間抜けな顔。じゃあね、行ってくる」
ぴし、とついでみたいに俺の額に痛くも痒くもないデコピンをかました明智は、颯爽と扉を開けて出勤して行ってしまった。ひゅう、と廊下を吹き抜けていく風は先週よりも少しだけ涼しげになっている。
「……えぇ…」
思わずくちびるに指先を当てて、熱を持ってしまった頬を風に晒す。あつい。……すぐには元通りになりそうにもない。
明智の言ういつものところ、とはどこだろうか。それを探せ、ということなのだろう。早く見つければそれだけ明智とのデートの時間が取れる、そういうゲームなのだ。
「……明智、ずるい」
思わずそんな言葉をぽつりと呟いてしまう。なんだかんだで、昔からずっと彼のこういった言葉や仕草や表情のひとつひとつに心をかき乱される。たった一年の違いなんて、学生時代を終えてしまえばほとんど気にならない。なのに、こういった時はどうしても意識せざるを得ない。たかが一年、されど一年。その一年の余裕をもってして、明智は俺の事を思う存分振り回すのだ。彼らしい仕草で。
「………ずるいなぁ…」
明智が歩いて行った廊下の向こう側は、とっくに誰もいない。熱い頬を持て余したまま、のろのろと家の扉を閉めてとりあえずと自分の意識の切り替えを最優先にした。そう、早く見つけてしまえばデートの時間はたっぷりとれるのだ。明智がああ言うのだから、きっと明智は行きたい場所を言ってくれる。そんな自信がある。
「よし。切り替えていこう。どうせデートするなら早く捕まえたい」
ちらりと壁掛けの時計に視線を向ける。仕事が終わるのは十二時過ぎだと言っていたはずだ。今は九時前。いつもの家事をこなしてから、色々と準備をして家を出れば十分間に合うだろう。いつものところ、が、明智にとってはどこを指すのかはいまだにピンとこないけれど、ある程度の候補は絞れるはずだ。
ぺしんと自分の頬を軽く両手で叩く。とりあえずは目の前にある家事を終わらせてしまいたい。まずは作業をしながら候補を出していくとしよう。
ぱたぱたとスリッパの音をさせながら、俺はタスクを素早くこなすために玄関からリビングへと戻っていった。
いつも以上に手際よく一通りの家事をこなした俺は、鞄の中に財布と携帯端末、念の為の折りたたみ傘を突っ込んで家を出た。まずは明智の職場の最寄り駅に行こうかと思ったのだが、おそらく明智はそんな簡単なところにはいないのだろう。確かに待ち合わせをしたことはあるが、二回くらいしかその場所を使ったことはない。いつものところ、に該当する気はしない。
出待ちをしても、多分明智はするりと俺を撒いていくだろう。そんな気がしたし、それは待ち合わせとは言えない。そんなことをしようものなら、明智は間違いなく機嫌を損ねる。流石にそれは避けたい。
「……でも、まあ、駅くらいなら…?」
ううんと悩みながら歩いて、自宅からの最寄り駅に到着した俺は路線図を見上げながら首を傾げていた。
駅、と言うのであれば、明智の職場の最寄り駅よりも俺の職場の最寄り駅のほうが待ち合わせに使ったことが多い。確率的にはこちらのほうが高いはずだ。こんなところで悩んでいる時間ももったいないので、俺はよしと気合いを入れて改札をくぐった。
電車に揺られること十数分。我ながらちょうどいい通勤時間だ。人でぎゅうぎゅうの満員電車でも、それくらいの時間なら耐えられる。この都会では通勤時間が一時間を超えることもざらだと聞くので、俺はだいぶ恵まれた環境で生きているのだろう。ちなみに明智の職場はちょうど俺と逆方向の電車で約二十分ほどの場所にある。
「……うーん、いないか?」
見慣れた改札を出て、俺はきょろきょろと辺りを見渡した。いつもの時間よりは人が少ない改札口、出てすぐの場所に待ち合わせにはちょうどいい少し開けた空間。等間隔に配置された丸い柱のそばには、待ち合わせをしているのであろう人がちらほらと見えた。その中に、見慣れた明智の姿はない。
「まぁこんなわかりやすい場所にはしないか」
明智のことだしなあ、と思わず唸ってしまう。ここまで来たなら、俺の職場という可能性も潰しておく方がいいなとも気付いた。何度か明智が迎えに来てくれたこともあるし、いつもの、とは……少し言い難いが、駅から歩いて少しの場所だ。多少時間を使ったところで大幅なロスにはならないだろう。
毎日使っている通勤通路をとことこ歩く。未だに元気な太陽はじりじりとアスファルトを焦がしていて、すぐにうっすらと汗ばんでしまった。鉄板の上に放り出されたみたいな真夏の頃よりかは多少はマシだが、それでも暑いものは暑い。首筋を滑り落ちていく汗が不快指数を高めていた。
あっという間にたどり着いた職場は、時間のせいもあるが相変わらず繁盛している。道路に面した大きなガラス窓の向こうはいつも通り満席のようだ。もう数時間もすればティータイムに切り替わるので、ここが正念場である。
「あ、やば」
ガラス窓の向こう側、にこやかにフレンチトーストをサーブしていたスタッフとばっちり目が合った。ぎょっと目を見開かれてしまって、あー見つかっちゃったな、なんて思ってしまう。
「ちょっと雨宮さん!? なんでいるんですか!?」
「いや違う違う働きに来た訳じゃない、通りがかっただけなんだってば」
予想通り、そのスタッフが店の外の黒板を直すふりをしながら飛び出てきた。ああもう違うのに、と眉を下げるが、正直彼らにこの表情はもう効かない。自業自得である。ぶんぶんと両手を左右に振るが、それも全く効果はない。
「めちゃくちゃ中覗き込んでたじゃないですか」
「いやほんと違うんだって聞いてよ」
「いくら仕事の虫だからって……こんな休みの日にまで……」
「お願いだから、俺の話を聞いてくれ」
よよよ、と演技がかった仕草で嘘泣きを披露してくれるスタッフの両肩を掴んで揺さぶる。違うんだってば、と焦る俺の姿がよほど滑稽だったのか、嘘泣きをしていた彼はふふふ、と思わずといったふうに笑っていた。
「ふふ、でも、休みの日に来なくてもいいじゃないですか本当に」
「それはそうなんだけど。連れを探してて」
ようやく本題に入ると、そのスタッフはきょとんとした顔をしていた。前に雨宮さんを迎えに来たあの方ですか、と言われてこくりと頷く。彼は接客業を生業にしているからか、人の顔を覚えることが得意らしい。あんな綺麗な人忘れるわけないじゃないですか、とも言っていたような気がする。
「そう。店には来てないよね?」
「俺、朝イチから入ってますけど見てませんよ」
「そっか、わかった。ありがとう」
本当に探しに来ただけなんですねえ、とほっとしたように笑う彼に重ねて最初からそう言ってただろうと返しておく。休みの日にまで自主的に出勤する上司がいたら働きづらいったらありゃしないだろう。俺だってそんなことはしたくはない。……過去何度かやってしまった事はあるが、今は棚の上に投げ捨てておく。
店の中に戻っていく背中を見送って、俺はくるりと踵を返した。先程出てきた駅へと戻る。はてさて、次はどこにしようか。携帯端末を引っ張り出して見てみるも、明智からの連絡は無かった。
明智と一緒に行った場所を改めて振り返って考えてみる。高校時代を含めると、それなりに色々な場所に行ったなぁと懐かしくなった。あの頃はお互いに隠し事ばかりで、それぞれの腹の中を探り合うための付き合いだった。俺は呑気に仲良くなれたかもなぁと喜んでいたが、明智からみると標的の懐に潜り込むための手段のひとつだったのだろうなとも思う。お互いの温度差に今は笑うばかりだ。
彼と初めて二人で行った水族館は、あの高校以降は行っていない。選択肢から外しておく。とにかく距離があるので、行ってからハズレだとかなりの時間をロスしてしまう。明智とのデートの時間がどんどんなくなっていってしまうのは正直悲しいし嫌だ。
「うーん……」
そうなると選択肢として挙げられるのは四軒茶屋、渋谷、吉祥寺くらいか。明智はあまり自主的に何処かに行きたいとは言わないけれど、こうして同じ家で生活するようになってからも行っている場所ならこのあたりだろう。
「とりあえず……四茶、行くか」
あまりあれこれ悩んで時間を浪費したくはない。明智がいそうな確率の高いところから行ったほうがいいのは間違いないのだ。先程出た改札を再びくぐる。運よくすぐにホームへ滑り込んできた電車に飛び乗って、俺はルブランを目指した。
「あれ、蓮?」
「なんだ、珍しいな」
「こんにちは、惣治郎さん、双葉」
「ワガハイもいるぞ!」
「モルガナも久しぶり」
カラン、と響く古めかしいドアベルの音が懐かしい。少しだけ重さのある扉を開けると、慣れ親しんだコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。いい匂いだ、とほっとする。あの頃の記憶がぶわりと蘇ってきた。惣治郎さんに扱かれつつ習得したコーヒーの美味しい淹れ方。カフェラテの牛乳の量。ミルクピッチャーに入れるミルクはここまで。オレンジジュースとコーラはできれば瓶で欲しいなんて言ってたなあ。こういった記憶は、匂いや音楽と強く紐付くものなのだとどこかで聞いた気がする。それって本当なんだな、としみじみ思う。
優しい橙色のライトが照らす室内はあの頃と何も変わらない。入口の横に置いてあるサユリの絵も変わらず、スタンドに立てかけられている新聞と雑誌だけが最新のものに入れ替わっている。
相変わらず、客の姿はない。まあ、そもそも客が少ない時間帯ではあるが。
「こんな時間に一人で来るなんて、珍しいな」
「あぁ、まぁ用事があって」
「へぇ」
カウンターの奥で、あの頃より少し短くなった髪を上手にまとめた双葉が不思議そうに首を傾げている。
「アケチはどうしたんだ?」
「あー……」
すっかりルブランの看板猫の立場を獲得したモルガナが、カウンターの上でぐうっと伸びをした。弓のように撓る尻尾がぱたんとマホガニーのカウンターを叩く。
「合流地点を、探してる……」
「は?」
「言葉の通りなんだけど……」
惣治郎さんはカレーの仕込みに奥へと引っ込んでしまった。カウンターでグラスを拭き上げる双葉が、モルガナと一緒に首を傾げる。いや本当に言葉の通りなんだけど、ともごもご言えば、一人と一匹は訝しげに俺の顔を見つめてきた。
「なに、その表情……」
「いや……ねえ?」
「なぁ…?」
放っておくと今にも二人でひそひそと内緒話を始めそうな雰囲気に小さくため息を吐く。喧嘩したわけじゃないんだって、と首を振れば、二人はきょとんとした顔をした。遺憾の意だ。
「え、違うのか」
「あのな……いつも喧嘩してるわけじゃないし、ていうか、喧嘩することのほうが少なくなってきたんだぞ」
「えぇ……」
「俺達のことを何だと思ってるんだ?」
相変わらず俺達はどんなふうに見られているのだろうか。あの高校時代から数年経過し、お互いそれなりに落ち着いてきた自覚がある。同棲を始めた最初の頃はそりゃあお互いの譲れないところでぶつかり合ったりもしたが、それぞれの落とし所を見つけてからは根気強くすり合わせを重ねに重ね、程々に穏やかに生活をしている、と、思っている。
……いや、大丈夫だと、思っているのが、俺だけじゃないのならばいいんだけれど。実際のところ、言っていないだけ、なのかもしれない。不意に不安が立ち込める。
「……明智が不満を感じてるならもっと直球で何か言われる、と…思う……多分…たぶん…」
「あーあ、始まったぞ。フタバぁ、責任取れよ〜」
「ええ!? モルガナも調子乗ってただろ~!?」
「ワガハイはそこまで言ってないぞ!」
もしかして明智はやっぱりなにか我慢をし続けているのだろうか、と思ってしまうとぐらりと揺れる。不安になる。大丈夫だと言い聞かせているだけでは駄目なのではないか、やはりしっかりと明智に聞いておかないとならないのではないか…などという淀んだ感情がぐるぐるし始める。俺の悪い癖だと言われたのはいつだったか。ぺしん、とメニュー表で頭を軽く叩かれた。その軽い衝撃にはっと我に返る。
「ごめんって蓮。からかいすぎた。で、結局今日はなんでここに来たんだ?」
ちょっと心配そうにこちらを覗き込んでくる双葉の瞳はあの頃と変わらない鮮やかな夕焼けの色をしている。ずっと変わらないもののひとつにほっとして、俺は人差し指で頬を掻いた。
「いや…昨日明智が、デートしようって言ってくれたんだ」
「なんだ惚気か」
「先を聞いてくれ」
「はいはい」
お互いデートするつもりであることは間違いない。けれど午前中は仕事の明智に合わせて、昼過ぎから合流することになっていることを伝える。ええー、と首を傾げながら聞いていた双葉が、どんどんじとりとした目つきになっていった。なんでだ。
「……惚気じゃん。聞いたわたしが馬鹿だったやつ」
「こいつらが惚気ないことなんてあったか?」
「ないわーなかったわー」
「……俺惚気たつもりないんだけど…」
「そういうとこだぞ」
「そういうところだな」
「二人して言わなくていいだろ」
む、と唇を尖らせるも、気心の知れた二人には何の効果もない。最近こんなことばっかりな気がするなと思わずにはいられない。いいんだか悪いんだか。多分いいことなのだろう。おそらく。
「まあいい。明智なら来てない。もしも来たら連絡してやろうか?」
「……うーん、そうだな。頼む。ついでに引き止めておいてくれ」
「プライドを投げ捨てたな、レン」
「明智とのデートの時間を確保できるなら、俺のプライドなんて醤油に漬けて唐揚げにでもしていいと思ってる」
「……ソッカー」
棒読み状態の双葉の声を聞き流す。いいんだ俺のちっぽけなプライドなんて。もしも明智がここに来て、どこか行きそうなら引き留めておいて、という追加の注文にも双葉はまぁいいぞと快諾してくれた。流石俺の義妹である。彼女の手元で丁寧に拭き上げられたグラスが、カウンターの向こう側の棚に仕舞われるのを見届けてから、俺は携帯端末を確認した。
相変わらず明智からの連絡はない。既読もつかない。かくれんぼなんだか鬼ごっこなんだかわからないが、あの頃をほんのりと思い出す。ひたすらに明智を探して追いかけて追いかけ続けたあの冬。今となっては大事な思い出のひとつ。
「ま、いいよ。おにーちゃんの頼みだからな。また今度わたしに付き合ってくれれば」
「何か欲しいものがあるのか?」
「ある。でもその話はまた今度な」
ふにゃあ、とモルガナが大きなあくびをしてカウンターに再び丸まる。くるりと尻尾を上手に体に沿わせて、その青い瞳を目蓋の裏に隠した。
「ま、オマエラが上手くいってるならそれでいい」
「んだなぁ」
そんなことを言う二人にくすぐったさを覚えながら、俺はまた来ますと惣治郎さんに挨拶してルブランを出た。
ついでに向かい側にある銭湯とコインランドリーをちらりと覗く。相変わらず古びた洗濯機が、今は静かに佇んでいる。利用者は今もぼちぼちいるらしく、壁際の長椅子が新しいものに置き換えられていた。
「……まぁいないよな」
銭湯はまだ閉まっている時間だ。ここに明智がいないことを確認して、俺はさっさと外に出た。
懐かしいな、と思う。個人的にはよく利用していたが、明智と共に銭湯に入ったのは高校時代だ。その後も何度か一緒に利用したことはあるが、それだけだ。たまには入りに来てもいいかもなと思いつつ携帯端末を確認する。先程と変わらない画面に小さく溜息を吐いて、再び駅へと向かった。
滑り込んできた電車に乗り込む。行き先は吉祥寺だ。ルブランよりも吉祥寺の方が明智がいる確率が高いだろう。だって吉祥寺は明智に教えられ、案内された場所だからだ。
冷房の効いた電車の中は涼しくて、汗ばんだ肌が冷やされていくのが心地いい。相変わらず太陽は強いままだし、空もまだ夏空のままだ。もくもくとした綿飴みたいな雲が真っ青な空に広がっている。
大勢の人が波のように移動している渋谷で乗り換え、電車で揺られること約二十分。乗り換えにもだいぶ慣れたし、それなりに他人を案内できるようにもなった。昔、関東で初めて生活を始めた頃は駅の構造も全然わからなかったし、乗り換えのアプリがなければ迷っていたな、と思い出す。いや、乗り換えアプリがあっても普通に駅構内で迷っていたっけ。都会の駅は複雑怪奇だ。
ぷしゅ、と軽い音を立てる電車の扉から駅のホームへと降り立つ。相変わらずの夏の名残の熱気がぶわりと頬を撫でる。真昼間に関してはまだ秋は遠いなあと思いながら改札を出た。人の流れに乗って駅前の通りまで出る。いつものアーケード街が懐かしい。ここには高校時代の思い出ばかりが詰まっている。特にあの年が明けた一月、今と正反対の頬を刺すような冷たい風が吹き抜けていくあの冬。明智とともに何度も訪れた場所。
「……待てよ?」
高校時代の事もデートとカウントすれば、吉祥寺が一番明智と訪れた場所なのではないか? とはたと気付く。ただ、あの頃は別に付き合ってもいなかったし、自分の中の恋心に気付いてもいなかったけれど。
もしかして、俺より明智のほうが先に好きになっていてくれたのか……? というような思考が頭の中を過ぎるも、俺の中の明智が眉間に皺を寄せて大きく首を左右に振っていた。まあそうだよな。落ち着け俺。
よくわからなくなってきた思考を振り切って、俺はとにかく歩を進めた。ざわざわとざわめく人の流れは今日も変わらず、元気そうに歩いていく人、仕事上がりなのだろう疲労感を漂わせて駅へと吸い込まれていく人、様々な姿を見せている。
時折聞こえる日本語ではない言語に、海外からの観光客も多いな、だなんて思えるくらいには馴染んだんだな、なんて思ったりもする。
まずはあの時以外でも何度か行ったカフェでも見てみるか、と駅前の道を曲がる。大通りよりも少しだけ細い道を歩いて何度か角を曲がった先に、あの頃と変わらずテラスにテーブル席があるカフェが見えてくる。白い幌――あれはカフェオーニングと言うらしい。働き始めて正式名称を知った――が未だに眩しい太陽の光を遮って丁度いい日陰を作っている。
暑さのせいか外に人は並んでいないし、テラス席にも人はいない。まあそれもそうか。もう少し涼しくならないと最近の夏は本当に厳しい。明智が最近出社するときは素直に日傘を持って行っている事を思い出して、俺もそろそろ買うべきなのかもしれないなと思い始める。
大きなガラス張りの店は、外からもしっかりと中の様子が見える。ほとんど席が埋まっているらしい。自分の職場と同じく、繁盛しているようだ。
奥の方は四人がけのボックス席になっているので、もしも明智がいるとしたら手前の方にある二人掛けの席だろう。ちらりと様子を伺うも、明智の姿は見えなかった。そもそも明智なら窓側に座りそうな気もする。待ち合わせ、と彼が称しているのだから、目につく場所にいるだろう。
「うーん、違うか」
その近くにあるペンギンスナイパーにも顔を出す。あの頃と変わらない、少し狭い階段を上がっていった先、一人が通れるだけの細長い扉を開けた先には見慣れた光景があった。大きなビリヤード台はしっかりとメンテナンスされていて、その左手側には何度も遊んだダーツ台が変わらずあった。
「いらっしゃいませ。あれ、珍しい」
珍しいなと思うのはこちらも同じで、受付のカウンターの中には店長の姿があった。いつもならバイトの大学生がいるはずの時間に店長がいるだなんて。
「こっちの台詞ですよ店長。こんにちは」
「一人ってのも珍しいね。どうしたの?」
「あー…連れを探してて…」
「あぁ。彼? 今日は見てないよ」
ここで合流予定なのかい、と聞かれて俺は少しだけ考えてから首を横に振った。店の利用じゃないのにこんなことを言うのは心苦しいのだが、事実ではある。そんな俺に、店長はからからと笑って手を振った。
「ま、合流場所にしてくれても全然問題ないけどね。また今度思いっきり遊んでくれればいいんだから」
こういったおおらかなところが客から好かれているんだろう。有難い限りだ。今度また明智と一緒に来ようと心に誓う。最近来ていなかったから、明智を誘えばきっとすぐに頷いてくれるだろう。なんだかんだで明智の好きなものやその時の気分がなんとなくわかるようになってきた、ような気がする。多分、おそらく。昔に比べれば、ではあるけれども。
また来ますとペンギンスナイパーを後にして、道中にあるじゃずじんにも寄ってみるものの、今日は珍しく昼の営業を休んでいるようだった。いつもならこの時間くらいまでは遅めのランチをやっていることもあるが、時折こうして休みになることがある。隣の看板をちらりと確認すると、今日の夜は演奏だけではなく歌手の女性も来る日のようだった。なるほど、準備のためのクローズらしい。
「うーん……となると……」
思いつく場所はあらかた訪ねてみた。携帯端末に明智からの連絡はないし、双葉からの連絡もない。ルブランにも顔を見せていないのであれば……もうこれといって思い当たる正確な場所は出てこない。
「うーん……」
吉祥寺の駅に向かって歩きながら、俺はうんうん唸りながら場所を考える。けれど、やっぱりピンとくる場所はもうなくて。
「……困った」
しおしおと溜息を吐きながら、俺は目の前に来た電車に飛び乗った。
学校帰りの生徒の割合が多い電車の中は、相変わらずにぎやかだ。もうそんな時間になってしまったらしい。携帯端末は相変わらず静かなままで、表示されている時間が無情にも現実を叩きつけてくる。今日に限って直感というものは全く役に立たないし、ただただ懐かしの場所を徘徊するだけの人間になってしまっている。
これからどこに行く、観たい映画があるんだあ、この間SNSで見かけたパフェ食べに行ってみたい、学生割引あるんだって! なにそれいい! 並んでなかったらそこにしない? カラオケ行こうよ~……などと聞こえてくる学生の元気いっぱいな声が羨ましい。友達と、もしくは彼氏彼女と、またはひっそりと想いを寄せている人と――それぞれがそれぞれの相手と共に楽しむのであろう時間がいいものであればいい、とぼんやりと思う。学生時代は二度と帰ってこないと気付くのは、大人になってからだ。あの頃にしか感じられないものもたくさんあった。今ならそれがわかる。
大人になってからは大人なりの遊び方や楽しみ方があることを知ったし、それも悪いものではないと思う。けれど、学生時代にしかできなかった遊びも確かにあるなと感じるのだ。懐かしくてちょっと羨ましい。
あんなことがなければ、俺は明智と出会うことはなかっただろう。なにもなかったなら、俺はどうなっていただろうか。今となっては想像もつかない。
俺はきゃあきゃあと賑やかに電車を降りていく学生たちと共に渋谷へと降り立った。携帯端末を確認するともう早めの帰宅ラッシュに食い込むくらいの時間が表示されている。人の波が凄い。もうこれは大人しく明智に敗北宣言をした方がいいのでは? と思う自分と、いやいや負けただなんて言いたくない、とりあえずもう一回渋谷からあたりを付けて探し直すしかないだろう、と思う自分が俺を両側からぎゅうぎゅう挟んで喚いている。決着はつきそうにない。我ながら厄介な性質持ちだと思う。明智が関わってくると意地を張って素直に頷けなくなってしまうのは、出会った頃から変わらない。全くどうしようもない性質だ。
地下からの階段を登って地上に出ると、人のざわめきはもっとうるさくなった。路上でパフォーマンスをしているらしい声と、何かしらのインタビューをしているのだろう声、ざわめきの合間に聞こえてくるギターと歌声。そこに混じるのは大きなディスプレイから流れ出す広告の音。相変わらず渋谷は静かとは程遠い場所だ。深夜にならない限りは騒がしいくらい人がいる。
そんな音を聞き流しながら、俺はもう一度気合いを入れて乗り換え場所に向かおうとした瞬間、視界の端に見慣れた色が過ぎった。
「!」
ばっとそちらに顔を向ける。雑踏の中に再びちらりと見えた薄茶のその色に向かって、俺は慌てて近付いた。それが同じような色を持った他人だとは思えなかったからだ。
「明智!」
「……遅いよ、蓮」
振り向いて俺だということを確認した明智は、やっぱりどこか楽しそうな顔をしていた。
人混みの中で珍しく明智に手を引かれ、電車に揺られる事数十分。俺は再び吉祥寺に降り立っていた。
「……さっきまでいたんだけど、俺」
「ふぅん。惜しいね」
明智はちらりと腕時計を確認して、ちょっとだけ早いからと近くの喫茶店を指差した。どこにでもあるチェーン店だ。そのかわり席は多くて価格も安い。時間を潰すにはもってこいな場所である。コーヒーなら俺の方が美味しく淹れられるんだけど、という大人げない嫉妬心が顔を出してしまう。そんな俺の事を見透かしているのであろう明智がくすりと笑った。
「そんな顔するなよ」
「……してない」
「聞き分けのない子供だな」
ほとんど待つこともなく俺と明智の前にはコーヒーが運ばれてくる。つやつやのグラス、からりと涼やかな氷の音。うちの職場で出してるグラスとちょっと違うな、とすぐに考えてしまうのは完全に職業病だった。
「あと十分遅かったら、渋谷から移動してたね」
「明智も動くなんて聞いてない」
「言ってないからね」
「……ずるいぞ」
む、とむくれながらアイスコーヒーに刺さったストローに口を付ける。俺が好んで淹れるものとは違い、苦みが控えめなものだった。もしかすると水出しなのだろうか。明智の事を見るのに必死で、メニュー表なんて全く見ていなかった。
「結局見つけたんだからいいでしょ」
「……」
むむむ、と眉間に皴が寄るのを止められない。これは、明智を早く見つけられなかった自分への不満と、そんな自分の事を予想していたのだろう明智が酷く楽しそうなのが悔しいという気持ちと、そんな感情を抑えられない情けなさがごっちゃに入り混じっているやつだ。明智と同棲するようになってそれなりに経つが、やっぱりそのあたりは上手に制御できない。明智の前だと、どうしても零れ落ちてしまう。それが情けなくて恥ずかしいし悔しいけれど、明智はそんな俺を見て楽しそうに笑うことが多いから甘やかされてしまうのだ。それがよくないとわかっていても。
「……ったく、機嫌直しなよ蓮。これからデートなんだから」
「そう、だけど」
「しょうがないな」
そういって笑う明智は、完全に年下を甘やかす年上の姿だ。我儘を言う幼子を嗜めるような響きがあるのは否定しない。そんな俺をこうして甘やかしてくれるのだから俺は頭が上がらないのだ。
「夜のデート、だよ、蓮」
わかってるよね、とその赤い瞳がすうと細められる。ほんの少し傾げられた首、さらりと一房落ちるミルクティーみたいな髪が途端に色香を纏い出す。どきりと心臓が跳ねたことを、明智はしっかりと見抜いているようだった。テーブルの上に置いていた俺の右手に明智の左手が重なる。手の甲を辿る指先の熱に思わずびくりとしてしまった。微かに上がった口角に、これから先の約束が見えた。言わずともわかるだろう、という信頼にぼっと頬が熱を持つ。
「じゃずじん、そろそろだから行こう」
そんな俺の反応に満足してか、明智はぱっとその手を離して立ち上がる。離れていく熱が惜しかったけれど、今手を伸ばすべきではないと俺は判っている。
きちんと意図が伝わったことを理解したのだろう、明智がことさら上機嫌に笑った。
ズゴ、とストローの先が残り僅かなコーヒーを吸い上げる音が妙に大きく聞こえて、俺はやっぱり明智には敵わないなと思うばかりだった。
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