人情噺


「あんなあ、オレ、そろそろこのうち出てった方がええか?」
「はあ……?」
子どもが食事をして出て行った後の、晴れた五月の朝というのは、何でも出来るような気がして来るものだ。
結局は食事の片付けをして掃除洗濯をしてしまうと後は出て行くだけで、戻って来るのは夕方、後は夕飯を食べて子どもの次の日の準備をさせて寝かせてちょっと稽古のおさらいしてこの人にちょっかい掛けて、夜の仕事が入ってる週末を待つ、といういつものルーティンだ。(ちなみに『ちょっかい』の内容は毎晩少しずつ変えるようにしている。)
僕は子どもが焼いた茶色が焦げる寸前の色をしただし巻き卵(今朝は僕が作るんや!と子どもに作らせた失敗作で、味はそれなりに美味い)と納豆でメシを食いながら、今日も草原兄さんのとこに行くか、火曜だから例のカルチャーの日と被るから余った時間をどうするか、といつもの日程を頭の中でこねくり回していたところに、これである。
しかも、爆弾発言をした本人が、ことの重大さに気付いていない顔をしてることがまた腹立たしい。
「そうかて、……もうお前が一緒に居りたい人おるなら、オレここにおられへんやん。」
「……それ、どういう話か順を追って話してくれますか?」と箸を置くと、ここ弁当付いてるで、と指先を伸ばして口元の米粒を取るようなことをするので指ごと食べたらぱっと顔が赤くなった。
「そういうことするから誤解するんやないか。」という独り言に、何が誤解や、とは思ったが、そんなことを考えている時点で僕の敗北はすっかり決まっているようにも思えた。



「この間風邪引いた日に、お前の寝言聞いてしもたんや。」と言われた時には、えらい古い話を持ち出して来たな、と思った。
あれは確か二月の豆まきの翌朝で、水垢離終えてから来たというおっさんにつばき交じりの盛大なくしゃみを浴びせられて、この人はピンピンしてて、横でかぶった僕の方が熱と寒気とで体調を崩しまくったあの頃のことだ。
熱に浮かされて心細くなっていた上に、子どもも隣の部屋に避難させてる最中で、部屋にはこの人と僕のふたり。
ずっと傍におってくれ、と口が滑った告白に、何も返事がなかったのが気に掛かってはいた。
それでも、あの後体調が良くなってからは、手を伸ばせば拒まないし、どさくさ紛れの告白がきっと功を奏したのだろう、と呑気に考えていたのだ。
お前に好きな人がおるて思ったから、オレが身を引こうとしとるんや、と言われてがくりと肩が落ちそうになった。
「普段落語の人情噺をアホか、と馬鹿にしてるくせになんでこんな時だけ頭が江戸時代なんですか。」
「そうかて……お前も、グラマラスなおねえちゃんの方がええんとちゃうか、て。」
「まさか草若兄さんの考えとは違うでしょう?」
「お咲さんが、おちびのおかあちゃんの胸がこんなんやった、て。」と手で胸を作ってみた。
そら一緒に暮らしてた骨みたいな男のことを思い出したくないから、正反対の体つきの、しかも性格はあんたにちょっと似たがさつな女と暮らしてみたんでしょう、とか、今更言っても仕方がない話だった。二股も三股も出来ないわけでもなかったが、この部屋の前で鉢合わせされてからは、声を掛けにいくのがそもそも面倒になった。子どもは出来てしまったし。この人は可愛がっているし。
ずっと結果オーライのように考えていたのがそもそもの思い込みだったという訳だ。
まさか、一緒に暮らして食事を共にして、月に数度の頻度でセックスもしている人間が目の前にいて、別の人間に言った寝言だと誤解していると、誰が考える?
「……で、何の夢かもわからない寝言で勝手に誤解をしたと。」
「そら、お前にはどないな夢見てそんな風になったか分かるかもしれへんけど、オレには誤解かどうか分からんからな。」
まあオレがまだおってええなら、しばらく隣におるけどな、と言いながら、顔を逸らすためか、食べ終わったちゃぶ台を片付け始めた。
「しばらくじゃ困ります。」
「そらまあ、引っ越してもおちびの送り迎えとかいらんようになるまでは手伝うて、」と言いながら普段はお前がせえ、と言う人が自主的に茶碗を洗い始めた。
振り返って、逃げるな、と言えれば話は簡単だった。
そもそも、こうした話から逃げているのは僕も同じで。
子どもがいるからいてください、と僕ら自身のことが曖昧に出来るこの関係の居心地が、それなりに良かったからだ。
「草若兄さんがうちを出て行くなら僕も子どもも付いて行きますよ。」
「はあ?」
「僕にそういう性根があると誤解するのは、まあ根拠がないでもないですけど、全部昔の話です。そもそも時間がないでしょう。」
「……時間出来たら他所行くんか。オヤジみたいに。」
あの師匠を親に持ったこの人がそんな風に考えるのは不思議でも何でもなかったが、未だに引きずっているとは思わなかった。
「だから、そういう勘繰りはもう止めてくださいて言うてんのです。」
「勘ぐりて……オレはお前の彼女とちゃうで。」
「今はそれと似たようなもんでしょう。……僕が出ていけて言うたら、ほんまに出て行くつもりなんですか?」
食べ終わった皿を持って、これもついでにお願いします、と言うと視線がそらされた。
「そら……直ぐには無理やけど。」
「それ、師匠やったら、他人みたいな遠慮しくさって、て殴るとこですよ。」
この人も底抜けのアホだが、何がトラウマになってブレーキを掛けているのかは分かっているつもりで、安心させるような言葉は掛けて来なかった僕も悪い。
仕方がないので濡れた手を取って、「どこにも行かんといてくれ、ここにおってくれ。」ともう一度だけのつもりで言ってみた。
これで逃げられても、次は追いかける。
ふるさとになってください、と言うと、「また小浜のおかあちゃんみたいなこと言うて。」とひとこと言って、兄弟子は僕の肩に顔を埋めた。
あっという間にTシャツの肩が濡れて冷たくなっていって、僕は赤ん坊をあやすようにして、恋人のような、弟のような、出来の悪い兄でもある背の高い男の背中をゆっくりと撫でた。

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