蒼玉を仰ぐ

 将軍!
 今日暇?
 星陣棋やらない?
 
「……暇なわけがあるか……」
 ロックをかけないまま列車のソファに置き去りにされたスマホの画面を見て、青ざめた顔でそう呟いたのは丹恒だった。更に恐ろしいのはその返信として、『構わないよ』という端的な一文とマルを示すパムのスタンプが続いていることだ。構わないわけがあるか。
 メッセージアプリの中で、列車の友人は嬉々として待ち合わせ場所と時間を指定していた。車掌に仙舟名物を買ってくるよう頼まれている、とあるから、そのついでに羅浮いち忙しい神策将軍の顔を見ようとでも思いついたのだろう。悪意もなければ他意もない。そういう男だ、彼は。
 ――と。彼のスマホを発見した一瞬でそこまで思考を巡らせた丹恒は、仲間の個人的なメッセージを盗み見てしまったことに気まずく唇を引き結んだ。穹の帰りが遅い、と車掌から捜索を命じられた身ではあるが、列車の仲間のプライバシーを侵害するのは本意ではない。努めてそれ以上は視界に入れないようにして、丹恒は拾い上げたスマホの画面をオフにした。
 さて、すでに穹が列車を出てから数システム時間は経っている。何事もなければ今もふたりで星陣棋に興じているか、とうに別れて道草を食っているかのどちらかだ。ひとまず目的地は、指定されていた待ち合わせ場所――金人巷。
 着いたら探し回らねばならないだろうが、ひとりは羅浮の将軍、ひとりは羅浮を救った英雄だ。手がかりゼロということはないだろう。
 そう冷静に思考する傍らで、静かに緊張する自分を感じている。そんな胸の内から目を逸らしたまま、丹恒は列車を出た。
 
 
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 パムへの土産とは別に買った自分用の玉実鳥串に齧りついていたとき、待ち人はようやく姿を現した。とはいえ待ち合わせ時間にはぴったりだ。無理なら無理と最初から言うだろうが、まったく律儀な人物である。
 羅浮でいちばん忙しいのに、と他人事のように思いながら、穹は戸をくぐってやってきた男へと片手を振る。穹が座すのはこの地でもっとも静かでもっとも賑やかな場所――金人巷に軒を連ねる料亭の三階席だ。
 座敷と外界との間は仕切り壁がなく、涼やかな風と地上の喧騒がほどよく通り抜けていく。夕暮れに浮かぶ提灯や屋台の灯、それに空を飛び交う星槎の美しさといったら! 穹はここからの眺めが一等好きだった。
 金人巷の中でも要人や上客しか入ることを許されないこの場所に、穹が立ち入れているのはほかでもない。座卓を挟んで正面に座した羅浮将軍のおかげである。初めて金人巷をふたりで訪れたとき、なかなか盛大な祭りを思わせる事態になったため、店主の好意でここを使うよう提案されたのだ。実際、金人巷の祭りの際にはこの座敷が解放されるらしく、景元も利用したことがあるとのことだった。
 羅浮将軍お墨付きの店となれば酒も食事も一級品だが、今回はそれがメインではない。ふたりの間にあるのは星陣棋のバーチャル棋盤だった。おたがい顔を見合わせにこりと笑い、おもむろに穹が最初の一手を打つ。
「今回はピノコニーに行ったんだ。知ってる?」
「宴の星ピノコニー? もちろん知っているとも。かの調和セレモニーが開催されたと聞いているが」
 後手の景元の一手も迷わず返され、しばし会話しながらの応酬が続く。いろいろあってさ、と前置きした穹が喋る間に景元が熟考し、相槌と共に駒を動かし手番を回した。たっぷり時間を使って考える景元とは対照的に、穹の思考は五秒にも満たない。
「夢に景元が出てきたよ。丹恒と一緒に助けにきてくれたんだ」
「丹恒殿と? それは光栄だな」
「結盟玉兆で現れる雲騎軍、めちゃくちゃかっこよかったぞ」
「……夢の中で玉兆を使ったのかい?」
 それはそれは、と首を傾げて笑う景元の打った次の手を見て、穹がぱちりとまばたきをする。
「……ちょっと意地悪だ、それ」
「わかるのなら、やはり君には才能がある。いつものように“建前”だけでこの対局を済ませてしまうのは惜しい」
 にこにことした笑みを絶やさない雲騎将軍を上目に睨めつけ、初めて五秒以上考え込んだすえ穹は返しの一手を打った。ほう、と口元に指を当てた景元は再び熟考を始める。
「対局、っていえば……そうだ、エーテル戦線って知ってるか? この前ベロブルグで大会が開かれたんだ」
「ああ、彦卿もプレイヤーだと聞いたな。剣以外の勝負事もあの子の糧になる。ぜひ彼とも戦ってあげてくれ」
「もちろん。将軍にもルール教えるよ」
 少しずつ、景元と穹の思考時間が拮抗してくる。それと共に穹の語る旅の出来事も、“とりとめのない”という表現がふさわしいような小さな思い出が増えてきた。ヴェルトが姫子のコーヒーを間違えて飲んで大変なことに――なのと写真を撮ったら珍しい生き物が写り込んでて――丹恒の槍は常冬峰の吹雪の中でも狙いを外さないんだ――パムは仙舟グルメが大好きでいつも口いっぱいに頬張って――。
「――あっ」
「ん?」
 ぱっと顔を上げた穹は慌ててスマホを取り出そうとし、ポケットのどこにもないことに気づいて青ざめた。景元に時間を問えば、列車を出てからずいぶん経っている。
「パムのお土産、買ったら連絡するって言ったのに忘れてた。スマホもない」
「おや。私の端末を使うかい?」
「助かる」
 怒ると怖い車掌は間違いなくおかんむりだろう。手早く謝罪の一文を打ち土下座のスタンプを連打していると、視界の端で景元の手が動いたのが見えた。
 その結果盤面に現れたのは――いわゆるところの、詰みである。
「――あっ」
「ん?」
 数秒前と同じやりとりが繰り返され、しかし声の調子はまったく違っていた。一方はなんとも絶望したうめき声、一方はにこにこと愉快そうに笑んでいる。
「ず……ずるいぞ! 俺が集中してない間に、」
「勝負に待ったはなしだ。試合事の最中に気を散らした君が悪い」
「それはそうだけど――!」
「将軍相手に駄々を捏ねるな、穹」
 話が違うだろ、と続けて言い募ろうとした穹の頭に向かって、唐突に手刀が振り下ろされた。
 頭を押さえつつ振り返った視界にいたのは呆れ顔の丹恒だ。「こんばんは、丹恒殿」と挨拶をした景元に「彼に付き合わせてすまない」と折目正しく礼を返し、丹恒は穹のスマホを差し出す。
「ラウンジのソファに置きっぱなしになっていたぞ。外出するときは持ち物を確認しろと何度も言っているだろう」
「時間なかったから慌ててたんだ。ごめん、ありがとな」
 受け取るなりメッセージアプリを開き、パム宛に再度謝罪のスタンプを連打する。すぐにぷんすこ膨れたスタンプで押し流されたかと思えば、景元からメッセージが来て肝を冷やした、という内容が続いた。羅浮将軍からいきなり謎のメッセージが来れば誰であろうとたまげるに違いない。
 お怒りの車掌いわく、追加の土産がないと許さん、とのことだ。パムのご機嫌が取れそうなものにあたりをつけつつ穹は立ち上がった。
「丹恒、ちょっと待っててくれるか。パムのお土産買ってくる!」
 戸口へ急ぐ穹は不意にハッと振り返り、腰に片手を当て景元に向かってまっすぐ人差し指を突きつける。
「次は負けないからな、景元!」
「ふふ。楽しみにしているよ」
 再戦を誓う勇ましい表情から一転、にっこりと顔を綻ばせた穹は「今日はありがとう。気をつけてな」と言い置いて外へ駆け出していった。
 
 
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「……この盤面」
 慌ただしい足音が聞こえなくなった頃、星陣棋の盤面を見下ろして立ち尽くしていた丹恒はおもむろに景元の正面へと座した。
 そしてひとつ、駒を手に取る。
「数十手前にはもう詰んでいたはずだ。彼のために手を抜いたのか?」
 盤面は変わらず詰みのまま――しかし丹恒が打ったのは勝敗に影響のない一手で、応じる景元もまた取れるはずの玉将には触れなかった。
「|星陣棋《これ》はあくまで建前で、私たちは星陣棋のために星陣棋をしていたのではないんだ。今回は私が欲を出してしまったが……丹恒殿、君はルールを?」
「アーカイブで学んだ。一通りの定石は知っている」
 ここから巻き返せるとは思えないが、と付け加えながらも丹恒の手は淀みなく動く。すでに勝負の決まっている一角を無視して、ふたりはたわむれの対局を続けた。
「建前、というのは?」
「開拓の旅路について聞かせてほしい、と。私から頼んだはいいものの、なにせナナシビトの物語に果てはない。際限なく聞き入ってしまいそうだから、時間の区切りとなるものを設けることにしたんだ」
「……そのために一局をわざと引き延ばしていては意味がないと思うが」
「建前だからね。この局が終わったら帰る、と言い訳が立てばいいのさ」
 子どものようだ、との感想を丹恒は口には出さなかったが、神妙に寄せられた眉根で景元にはしっかりと伝わったようだ。控えめに微笑む姿はどこか気恥ずかしそうに見える。
「では……欲とは?」
「もともと彼は駒の動かし方すら知らなくてね。適当に動かしてくれればそれでいい、という話だったんだが……何度もやっているうちに、面白い手を打つようになってきたものだから。老人としてはやはり、見込みある若人の才能に触れてみたいと思ってしまうものだろう?」
「……俺に同意を求めないでほしい」
「ふふ、そうだね。すまない」
 とはいえ、丹恒にはわからないでもなかった。穹はゲームと名のつくものが得意だ。定石など覚えようともしないのに、本能で好手を選び取っていく。その姿を見ているとどうしても――次はどんな手を見せてくれるのかと期待せずにはいられない。
 仲間を認められたような心地で、内心ほのかに浮き足立ちつつ駒を動かす。「おや」ほとんど無意識に打ったその手が、景元の詰みを示していることに気づいたのは一拍置いてからだった。
「…………」
 ひとつの盤上に、景元の詰みと、丹恒――もとい穹の詰みが同時に存在している。普通ならありえない盤面だ。
 星陣棋のために星陣棋をしていたのではないと、景元は言った。だからこんな状況が生まれていて、だからこんな状況になったとて、無理やりに続けることはできてしまう。
 もちろん、次の一手で終わらせることも。
「……そろそろ彼が戻ってくる頃かな」
 にこりと笑んで景元が右手を動かす。その手はどこかへ向かうはずだ。次の手番は景元なのだから、続けるにしろ、終わらせるにしろ、どちらであっても彼が選び取ることになる。
「――待った」
 その選択を、見たくないと思ってしまった。
 咄嗟に伸びた手が景元の駒を取り上げる。駒を奪われた景元はぴくりと動きを止め、それから頬杖をついてこちらを見つめた。その顔に、実に愉快そうな笑みが浮かんでいるのが見なくてもわかる。
「さすがに反則だよ。丹恒」
「……わかっている……」
 エラーを記録した盤面にノイズが走り、一瞬あとには夢のように消え去った。詰みを無視するように設定された電子の盤上遊戯でも、あからさまなルール違反は見逃してくれないらしい。
 勝ち負けなどすでにあってないようなものだったが、穹と景元との間で成立していたゲームに無体なことをしでかしてしまったのは事実だ。いたたまれない気分で唇を引き結んだ丹恒は、今はもう何も持っていない手を拳に握りしめた。
「……次は、君が相手をしてくれるということでいいのかな」
 ぽつりと対面から聞こえてきた声にまばたく。顔を上げれば、愛おしげに目を細めて微笑む男がひとり。
 思わず慌てて下を向いた丹恒に、景元は声を上げて笑った。
「け、……将軍が、いいのなら、もちろん。……光栄だ」
「こちらこそ光栄なことだ。君の話も聞かせてほしい。ナナシビトの物語は、羅浮いちの講談師の講談にすら勝るとも劣らない価値がある――君の口から語られるものなら、私にとってはそれ以上に」
 視線が。熱い。気がする。
 流れるように述べられた言葉を聞く間、丹恒は生きた心地がしなかった。どう考えても、列車の皆を差し置いて羅浮将軍直々に戴く評価ではない。
「さすがに大袈裟だろう……特別扱いのように聞こえる。穹が聞いたら拗ねるから、すまないがその言い方は――」
 やめてくれ、と続けようとして、ちらとでも顔を上げたのが運の尽きだった。
 じっとこちらを見つめる金の瞳のその熱が、じかに襲いかかってくる。熱い、どころではない。火傷しそうな温度と呑み込まれそうな質量がたしかにある。その眼差しに込められている。
 列車を出る前、彼と顔を合わせるかもしれないと考えたそのときの静かな緊張を、丹恒は思い出していた。ああ、自分はこれを見るのが怖かったのだ。
 ――と。永遠に続くかと思われた瞬間を打ち破ったのは聞き慣れた声だった。
「たんこー!」
 地上から聞こえてきた声に目を向ければ、穹が店の前で両手を振っている。その手が掲げているのはぱんぱんに膨れた大きな袋がひとつずつ。
「お待たせ! 帰ろう!」
「……買いすぎじゃないか?」
 思わず漏れた呟きは当然穹には届かず、代わりに正面の景元が噴き出すように笑った。はっとそちらを見てみれば先ほどの熱情などどこへやら、いつもどおりの穏やかな景元将軍がゆったりと微笑みを浮かべている。
「行きなさい。また会えるのを楽しみにしているよ」
「あ、ああ……」
 見逃された。直感的に浮かんだのはそんな言葉だ。
 いいや、これは星陣棋の対局ではない。悪手も好手もない、はずだ。ただ会話をして、ただ再会の約束をして、ただ帰るだけ。
 自分の知っている、普段と同じコミュニケーション。そのはずだと、丹恒は思った。
「丹恒殿」
 そんなことを考えていたからこそ――後を追ってかけられた言葉の意味を、丹恒はすぐさま余さず理解した。
「“定石は知っている”……のだったか?」
 振り返って見る男はやはり頬杖をついて、目を細めてこちらを見つめていた。いつもどおりの穏やかな景元将軍、などと言えたのは一瞬前までだ。今の丹恒には、その姿はこちらに投了を迫る棋士に見える。
 ならば自分がするべきは。どうやら待たせてしまったらしい対局の開始を告げる、返しの一手を指すことだろう。
「……いいや。“これ”の定石は、俺は知らない――あなたに教えてもらえるなら、とても嬉しい」
 また連絡させてもらう、と言い置いて、返事は聞かずに踵を返した。
 雑で乱暴な一手だろうか。いいや、定石は知らないと言ったばかりなのだし、このくらいは大目に見てもらいたい。
 言い訳のように考えつつ店を出て穹と合流する。穹は丹恒の顔を見、それから店の上階を見上げ、おそらく景元に向けて手を振ったのち歩き出す。丹恒は振り返ることはできなかった。
「勝てたみたいだな」
 あの様子だと、と穹は言う。ゲームが得意な友人にはすべて筒抜けだったらしいと察して、丹恒はしばし考え込んでから答えた。
「勝ったなんておこがましい。引き分け、程度に考えてもらえていたら……ありがたいな」
「……なるほど?」
 したり顔で口角を上げた穹はおもむろに右手を差し出す。羅浮土産がぱんぱんに詰まった袋の片方を持った手だ。そうして、「景元がどんな顔をしてたか、教えてやろうか」とにんまり笑った。
 片目をすがめてその姿を見遣った丹恒は、歩くスピードを上げて追い抜きざまに荷物を奪う。やった、と無邪気に喜ぶ穹を背に、丹恒は足を止めなかった。
 
「――すっごい、負けず嫌いの顔してた!」
 
 
 
 
 
 了

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