天国


「今日はどうしても行かなきゃならねえ仕事があるんだ、ドクター、このとおり!」
そんな風に頼み込まれて、京介からまたチビ助を預かることになった。
美人だった母親の血が色濃く出た顔を疎んで子を遠ざけるというならまだ多少は分かるが、ギャンブル狂の和久井京介という男にはそんな高尚な精神性はない。ただ育児を放棄しているだけだ。それでも、譲介のヤツはそれなりにこまっしゃくたれたガキに育ってはいるが。
仕事、仕事ねえ……。
この世知辛い渡世に、京介のような男に続けられるような仕事があるとは思えなかった。その上、どうしても行かなきゃ、という一言が言い訳くさくもあった。
そうはいっても、約束しちまったもんは仕方がねえ。
滅多にない休みにわざわざ車を出して、待ち合わせ場所の公園に向かっていると、オヤジほど自分を犠牲にしてるわけじゃねえが、オレもそこそこの馬鹿の部類じゃねえかとは思う。
それでも、譲介のことは、名付けを終えたばかりの赤ん坊だった頃から知っている。
そんなガキのことを、ただの他人の家の子どもと思えなくなっているのも確かだった。
世間からはみ出た親を持った子どもが背負う苦労なら、オレも多少は知っている。
あいつにとって、人生ってもんは、きっとままならないことの方が多いには違いねぇ。


やけに見晴らしがいい場所だった。
ビルや城といった、視界を完全に遮るものは少なく、その代わりに多くの木が植わって並木道が出来ている。京介の野郎が、十時までに譲介を寄越す、と言っていたのが、この公園だった。
近場にあるデパートの地下駐車場に車を停めて地上に出ると、久しぶりに見た太陽が明る過ぎて、この平成に時代遅れにも繁華街でケツモチやってるようなヤクザや腐れ政治家から金を搾り取る闇医者稼業が嫌になっちまうほどだ。
比較的駅裏に近い場所に並んでいるベンチを見りゃ、なるほどなァ、と思う。
この近くのどこからか直通のバスが出てもいるのか、眼前に広がる緑地も見ず、赤鉛筆を耳に挟んで手元の競馬新聞を眺める爺の多いこと。しかも、デカい賞レースの名前がでかでかと新聞の一面を彩っている。
ため息を吐きたくなった。
鈴ちゃんが逃げ出しちまったのも無理はねえ。
オレが女なら、あんな男はあっという間におっぽり出して捨てちまうだろう。
噴水前、薔薇が生い茂る花壇、池のほとり、音楽堂とかいう天井だけの空間に、後はレストラン周り、公園中をぶらぶらしても、いつもの譲介の姿は見当たらなかった。
仕方がねえ、と自販機の横で缶コーヒーを買っていると「テツー!」と呼ばわるでかい声がした。
「……ドクターTETSUと呼べ、っつってるだろうが。」
三歳かそこらで鈴ちゃんに買ってもらったリュックを後生大事に背負って、譲介が道を駆けて来るのが見えた。
たった、たったと。
ついこの間までよちよち歩きしてた子どもが、早いもんだ。
そんな風に感心していたのも三秒くらいで、その隣や後ろにオレが顔を見知った男はおらず、眉を寄せた。
ここまでたどり着いて、足元でぜえはあと息をしている譲介は、オレの足元で顔を上げた。
一文字に結んだ口に、紅潮した頬。
まだ腰のあたりの背丈だが、見下ろしてくるオレに威圧感を感じてはいないようで、ただ真っ直ぐな目でこちらを見つめて来る。いつも被っていた帽子は小さくなってしまったのか今日は身に付けていない。
息を整うのを待って「京介のヤツはどうした?」と尋ねる。
「さっき、競馬に行ってくるってバスに乗って行っちゃったよ。」
母親に似た整った顔は、途端に京介に似たおどけた笑顔になる。
「……あンのヤロオ。」
知った顔のヤクザが馬主をやっているが、ああした男どもが背広で出入りするVIP席と一般客のたむろする界隈じゃ、ガキに聞かせるにゃあ教育によろしくねえヤジが多すぎる。それにしたって、ガキにもガキなりの意思ってもんがある。
譲介に聞かせたい言葉ではなかったが、あのクソったれが、と舌打ちすると譲介はいつものことだから、と言った。
無理に笑うな、と言いたいが、それよりも、先にすることがある。
譲介の身体を抱えて持ち上げ、片手でちょいと目元に付いた目やにを拭ってやってから、ボタンが光る自販機を見せた。
「どれにする?」と尋ねる。
譲介は、喉が渇いていたのか迷わず、これにする、と粒の入ったブドウジュースの缶のボタンを押した。コーヒーは後だな、と思いながら、ガコンと吐き出し口に出て来た缶を取り出して譲介に持たせ、近くのベンチに座らせた。
やって、と差し出された缶のプルタブを空けて戻してやると、譲介は喉が渇いていたのか、ごくごくとジュースを一気に飲んだ。「アイツ、帰りはいつになるって?」と尋ねると、「聞いてない。」と返事が返って来る。
譲介の声にはガキらしからぬ諦念が混じっていて、「分かった。」と頷く。
こりゃ、夜はあの辺りの居酒屋で飯を食わせてやるコースだな。
勝っても負けてもここで待ってる子どもを忘れてしまうような男を、首を長くして待ってるくらいなら、先回りして家に戻した方が安全だ。
あの馬鹿に引き渡してやるまでは傍にいてやらねえと危なくてしようがねえ。
「たまには連れてってくれてもいいのにな。」という譲介の顔は酷く物憂げで。
ガキにこんな面させやがって、と居ない男に唸り声を上げたい気分になった。
「おい、なんか食いたいもんあるか?」と尋ねると、譲介は瞬きしてこちらを見た。
「カレー。」
なるほどな……今のは(それ、改めて聞く必要あるか?)の顔か。
そうはいってもな、と頭の中にあるおぼろげな地図を模索する。
カレーを食わせる店がないではないが、この辺りに店を構えているのは、パキスタンだのインドだの、それなりに本格的なカレーの店ばかりで、譲介が好きな甘口のカレーが食える店があるとは限らない。
「おい、譲介。カレーは夜だ。」
わかったか、と念を押すと「うん、わかった。」と譲介は真面目な顔で頷いた。
外に食いに出るより、材料買って作ってやるか、という気持ちになって来る。
「……おめぇ、昼どうする。カレー以外でなんかねえのか?」


**


父さんがウキウキしてる日は大体大きなレースがある日で、つまり明日の僕はテツと一緒に過ごすんだろうなと察しがついた。
石鹸で洗濯物の汚れを取って、なるべく綺麗に干して、靴も泥が付いてたらちゃんと歯ブラシで擦ってから洗って干して置く。
部屋が汚いままだと、せっかく洗った洗濯物が何かの拍子にまた汚れてしまうことに気付いてからは、乾かしている間に部屋も掃除することを覚えた。箒で掃いて塵取りでゴミを取って畳敷や床を拭いておく。
僕はつまり、テツと一緒にいても誘拐されてないように見える格好に着替えておく必要がある。
父さんと並んで歩いているときには何も言われたことはないけど、テツと一緒に歩いている時は、テツがお巡りさんに呼び止められることが多い。
本当にお父さんですか。ただの他人にそんな風に言われてうろたえてるテツを見ると、僕がしゃんとしないといけない気がする。
テツが情けないところを見るのはいつもなら面白いんだけど、そこで笑うのはちょっと違うような気分になるからだ。だから僕は、背筋を伸ばし、いいところのうちの子のような顔をして、この人は僕のハハカタの叔父さんです、と言う。そうすると、大抵の警察はそうなんだ、気を付けてくださいと言って去って行き、なんだか奇妙な顔をしたテツと僕がその場に残される。
お父さんって言われると困るの、とテツに聞くと、おめぇはどうなんだ、と逆に聞かれてしまった。
テツはテツだから、と答えると、そうさな、とテツは笑っていた。



父さんがバスに乗って去ってしまった後、父さんがテツと、この広い公園のどこで待ち合わせすることにしたのか聞いてなかったことに気付いた。
自分の親をこんな風に考えるのは嫌だけど、父さんはギャンブルのこと以外は本当に何にも考えてない人だった。言い換えれば、自分の興味のない事柄については何にもしない。
つまり僕は、父さんの中では、今日の競馬の結果より順位が低いということだ。
今、僕のポケットの中には、小さな小銭入れがある。そこには、十円玉がいくつかと、家に帰るための電車賃とそれからコンビニでお昼に飲み物とおにぎりを買うくらいのお金が入っていて、夕飯代はそこには入っていない。テツと会えなかったら僕がどうなるかということも考えてなさそうだ。
ときどき、自分の人生にひどくがっかりしてしまうことがある。
母さんがどこか別の場所へと連れて行ってくれた人生もあったはずだ。ふたりで、どこか今まで暮らしていたようなアパートで。そうしたら、掃除も洗濯も母さんが手伝ってくれたはず。泣いていたら手を握って、熱を出したら手を額に当ててくれて。
けれど、もしそんな風によその土地に行くことになったとしたら、こんな風に明るくて広い公園には来ていないんだろうと思う。
テツもきっと、母さんがいると思ったら、遠慮してあんまり会いに来てくれていないはずだ。
電信柱みたいな背丈のテツ。
髪の毛がもさもさで顔が半分隠れてるテツ。
テツと会った後は、いつも空っぽの僕のポケットの中は元気でいっぱいになる。
ずっと、父さんより年が上だと思ってたけど、この間、ちゃんと顔を見たらそれほどおじさんじゃなかった。
そういえば、この間、テツってそれほどおじさんじゃないね、って言ったら、褒めたのに殴られた。あの時の拳骨は普段の倍くらいの勢いだった。
思い出したらまだちょっと頭が痛い気がする。
頭をさすっていたら、自動販売機の横に白くて長いコートが見えた。
「テツーーーー!」
そこにいて、と心の中で叫びながら走って行くと、振り返ったテツは、僕を見てから一瞬眉を上げて、その次の瞬間にはひどく腹を立ててる顔をした。
僕の傍に父さんがいないことに気付いたテツは、よくこういう顔をする。
テツは仕方がない大人だ、と思う。
それでも、仕事もせずに競馬に行く父さんよりは、ずっと大人らしい大人だった。


カレーは夜だ、と言われて、正直がっかりした。
三食カレーでも全然構わないのに、と言うと、テツは、辛すぎるカレーはおめえにはまだ早い、と言ってデコピンする。
デコピンされた後はいつでも額がジンジンして、暫くは熱を持っている。
力加減というものが出来ないテツは、多分僕の痛さがどれくらいかというのを分かっていない。
ただ、痛みは分かってないけど、テツのデコピンは、僕のことをちゃんと見ているぞ、という話があっての話なので、石鹸が買えないで洗濯が出来ない心細さとか、まったく授業についていけてないのに、周りに馬鹿だと思われたくなくて分からないと言えない怖さだとか、普段テツに会えない日に感じるそういう感情よりは、全然マシだった。
「じゃあ、カレーじゃなくてもいいけど。」
何でも、と言われると逆に思いつかない。
いつも、スーパーに行くたびに、何かは食べたいとは思っている。
総菜売り場に並んでいる揚げ物とか、棚の高いところにあるスナック菓子とか。でも結局、甘いカレーが一番美味しいという結論になる。
「また食いたいって思ってるもんとかねえのかよ。ハンバーグとか、エビフライとか、オムライスとか。」とテツは言うけど、僕の答えは同じだ。
そういう「好き」はカレー以外にはそんなにない。
「カレーがダメなら、テツが美味しいと思うご飯でもいいよ。」と言うと、なんだか困ったような顔をされてしまった。
「おめぇ、いつもの定食屋の焼き魚定食みてぇなもん、こんなトコまで出て来て食いてえか?」
「え?」
あの焼き魚定食、テツは好きで食べてたのか。
「安いから食べてるのかと思ってた。」
なにしろ、テツと夜ご飯を食べるいつもの定食屋は、定食がメインなだけあって、オムライスだけとか炒飯だけより、なぜか焼き魚定食の方が安いのだ。
他にも餃子定食とか、唐揚げ定食とか、焼肉定食とか似たような値段の定食は多いけど、焼き魚が一番安い。
「刺身でもいいが、定食屋の冷凍でそんな旨いもんでもねえからな。まあ、確かに他に食いたいもんもねえってのはあるけどよ。」
「ふうん。」
テツがオムライスや炒飯を食べてるところをほとんど見たことがないけど、僕がたまにカレー以外のものが食べたいような気持になったときには、なぜか焼き魚定食の代わりに頼んでいて、少し食べさせてくれる。
そういうのは、カタカナ言葉でシンクロニシティと言うらしい。
テツとお前は相性がいいんだろ、と父さんは言ってたけど、そんなものなのだろうか。
いつもの定食屋で出されるメニュー書きには、小盛がない。ご飯少な目は店員に申しつけくださいと書いてあるだけだ。
ただし、カレーだけは、ずっと小盛の値段がある。
おめえの分も大人料金取ろうとするから、ぼったくるな、っつって店主に新しく書かせたんだよ、とテツは言うけど、本当だろうか。
今年になって、僕がちょっとカレーが足りないと伝えると、ちゃんと大人の大きさで出されることになったけど、メニューから小盛の値段は消えてない。
僕が大人になっても、多分この定食屋のメニューは変わらなくて、別の子どもが小盛のカレーを食べる日があるのだろう。そう思うと、あの日はどうしてか、少し嬉しいような気持ちになった。
「……譲介、寝てんのか?」
朝が早かったから疲れたか、と訊かれて額を触られた。もう母さんがいなくなった頃ほど熱が出ることがないのに。
「違うけど。」
「腹は減ってるか?」
「分かんない。」
「じゃあ、これまでに一度も食ったことねえもんはどうだ。」
フランス料理でもいいぞ、とかいきなり言われても。
「そういう店って予約がいるんじゃないの?」
「……。」
テツは黙ってしまった。
他に食べたいものか。うーん。
「ビックマック、とか?」
マクドナルドか、とテツが言うので、僕は頷いた。
それこそ、アパートの近くにも歩いて行ける場所に店はあるけど、一人で来てる子どもはほとんどいない。父さんに言うと、高いからダメだ、と断られてしまう。
「譲介、おめぇ何個食いてえんだ?」
「何個って?」
「パンだぞ、握り飯と味噌汁ってんなら、ふたつもありゃそれで済むが、後で腹が減るだろうが。」
三つか四つか、と言われてめまいがしそうだった。金銭感覚が違いすぎる。
「テツは……?」
「目玉を挟んだヤツと、あとBLTでも食うか。」
「BLTって?」
「ベーコンにレタス、後はトマトだな。」
「……それ、ハンバーグじゃないじゃん。ただのサンドイッチ。」
「別にいいだろ。おめぇも好きなもん頼め。」
行くか、と言って、テツはベンチから立ち上がった。
「おら。」と差し出された手を取る。
迷子になるなよ、と言われたことは一度もないけど、肩車はもう恥ずかしいと言って以来、テツは一緒に出歩くときはずっとこうしてくれている。
これから天国に連れてってやるよ、とテツは言った。
「天国って、マックのこと?」と言うと、譲介の言葉にTETSUはクックと笑い始めて、おめえはには縁がなかったかもな、と言った。
「天国は天国でも、人間の頭を見るくらいしか出来ねぇ天国だ。」
「?」
「譲介、踏みつぶされそうになったら、ちゃんと言えよ。また肩車してやる。」
ホコ天なんて何年振りだ、と言いながら、口元に笑みを浮かべているテツを見上げて、最初から肩車を頼めば良かった、と譲介は思った。

powered by 小説執筆ツール「notes」

265 回読まれています