ある人にとって、傘は

イ・ドにとって、傘は消耗品である。夕方、交番の前を学生が通りかかった。急な雨に振られた学生に、イ・ドは「これ以上濡れないように」と私物の傘を貸した。ただのビニール傘だ。愛着もなければ惜しくもないし、自分が濡れて帰れば済むだけの話だ。こうしてイ・ドは、何度も新しい傘を買う羽目になる。折りたたみ傘も、ビニール傘も、だいたいが一、二回使ったところで自らの手を離れていく。昨今の天気予報はわりかし正確ではあるが、気候変動のせいで突発的な雨が増えたし、皆が天気予報に関心があるわけもない。時に、交番のランプ下は雨宿りには最適だ。雨宿りしに来た人に貸した場合、たまに戻ってくることはあれど、泥酔した酔っ払いから返って来たことは一度もなかった。
つまり、この日もイ・ドには傘がなかった。勤務が終わり、ランプ下で一向に晴れる気配のない薄暗い空を見上げる。濡れて帰れば済むとはいっても「喜んで」というわけではない。こんな日に限ってバイクが故障して、家に置いて来ざるを得なかった。バイクならどうせ濡れるしと、早々に諦めがつくというのに。
無駄な抵抗とわかりつつ、MAー1ジャケットを頭から被る。交差点の歩行者信号が赤になり、駅へ向かう傘の群れが一斉に動き出すのと同時に、イ・ドもその中へ飛び込もうとした時。

交差点の向こうに、頭ひとつ飛び出た黒い傘が見えた。傘の持ち主が顔をあげ、うれしそうに手を振る。道ゆく人々の中で一際目立つ大きな男が、ゆらゆらと幽霊のようにやってきて、やがてそれは、イ・ドの目の前で立ち止まった。
「迎えに来た」
少し上へあげた目線の先。やけに得意げな顔のムン・ベクがいた。ずい、と差し出される黒い傘。イ・ドの頭の上に、傘の下で笑う男と同じ影が落ちる。パラパラと弾く粒の音に、しばし喧騒がかき消される。ひとたびそこへ小さな王国ができあがると、王はまた、不敵に笑った。
「ごはん食べいこ?」
「雨なのに?」
「だから迎えに来たんだってば。どうせないんでしょ、傘」
「よくわかったな」
「なんでもわかるよ。あんたのことはさ」
傘の主が進むのにつられて、イ・ドも歩き出す。体の大きな男がふたり、肩をくっつけて雑踏を行く。歩幅を合わせる必要がないのは楽だが、はみ出たほうの肩は思いっきり濡れている。「意味あるのかこれは?」とイ・ドは少々頭を悩ませる。けれど、不思議と気分は悪くなかった。気
持ちが良くなると、腹も減るというものだ。
「チヂミでも食うか。せっかくの雨だ」
「なんで?」
「知らないのか? 韓国人は雨の日チヂミを食べるんだよ」
「ぜんぜんわかんねー」
「ほらあれだ。エモいってやつだろ?」
「無理すんなよアジョシ」
ヒョンだろ、と言いかけて、イ・ドは口をつぐんだ。かつて小さな弟と過ごした雨の日の記憶が蘇る。こんなふうに、ひとつの傘で買い物に出かけたことがあったような気がする。その時、どちらが傘を持っていたのだろう。持ちたがる弟に譲ったのか、あるいは。
「……貸せ」
「へ?」
民衆から飛び出た黒い傘が、一瞬ふわりと宙に舞う。そして少しだけ高度を落として、その肢をイ・ドが掴んだ。
「楽だろ。このほうが」
「ん〜?」
ムン・ベクが、居心地悪そうに背中を丸める。それから、露先から溢れる雫を不思議そうに眺めたあと、しばらく押し黙ってしまった。駅に着くまでの間も、彼はまるで借りてきた長い猫のようにおとなしかった。




* * *
ムン・ベクにとって、傘は餌である。それを差し出せば、誰しもが自分の世界の住人、あるいは支配下になる。見下ろすのは気分が良い。幼い頃は、這いつくばって見上げてばかりいた。片目でろくに見えやしない、薄濁った世界だ。イ・ドもきっと、自分と同じように、汚いものばかりを見てきたのだろう。だから、彼を近くに置きたかった。影の中に、彼を引き摺り込みたかった。
厨房のほうで、チヂミがぱちぱち音を立てている。焦げとニラと、漂うごま油の香り。食堂の窓際の席で、ムン・ベクは謂れのない不愉快さを感じていた。頬杖をつき、窓ガラスに当たる忌まわしい雨粒を睨む。ぱちぱち。ぱちぱち。
「……うるさいな」
「ずいぶん不機嫌だな。傘を持てなかったのがそんなに嫌だったのか?」
向かいでイ・ドが言った。まるで弟でも見守るような、優しい目つきで。
「別にぃ。不機嫌じゃないし、嫌じゃなかったよ」
「じゃあなんだ」
「ん〜。わかんない! たださ。こんな感じなんだって思って。そんだけ」
ムン・ベクはまた、窓を睨んだ。あちらこちらで鳴る、ぱちぱちを聞きながら。

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