観光大使


一門会の打ち上げのあった翌日。
子どもを先に学校に送り出して朝飯を食べていると、向かいの四草と目が合った。
「留守電に着信入ってたから後で聞いておきましょう。」と普段の声で言う四草の、寝癖でやけに跳ねている髪を眺めながら、おう、と返事をする。
「朝からキムチですか。」
「何か悪いんか?」
「いえ、なんでも。」
最近韓国料理が流行りなんですよ、と楽しそうな様子で若狭が手土産に持って来た、鶴橋で買うて来たという来歴のキムチだった。
原材料のところを見ると、イカやらタコやら細かい海産物が入ってて、一口食べてみると、確かにスーパーで売ってるようなのと一味違う気がする。けど、日持ちはしなさそうやな、というのが正直なところだった。
口の中に味が残るのが嫌です、と言って四草が食べようとしないので、このままだと冷蔵庫の中で残ってしまうやろ、とオレがこないしてせっせと食べることになったわけや。
まあ旨いからええけど。
「そういえば昨日の若狭、天狗芸能で今、若い芸人に会社で携帯持たせることにしてるとか言ってましたね。」
「へえ。なんやサラリーマンみたいやなあ。」
「今はどっちかというと東京の方に人が集まってるみたいですし、こっちの芸人の首根っこ押さえて、逃げられんようにしたいんとちゃいますか。」と言いながら、四草は澄まし顔で卵を食べている。
逃げられんように、て。
「お前、いつもながら恐ろしいこと考えるやっちゃなあ。」
「会社の考えることなんてどこも同じですから。上に高い給料払ってるようなとこは、下にはえげつないことをするもんです。」と言いながら味噌汁を啜っている。
人生を斜に構えてる男が、昔のことを話す時、オレはどうしてこないな男と暮らして、こうして毎朝飯食ってんやろうな、と思う。
あの頃のオレには、オヤジもおかんも草原兄さんも草々も、近くに皆がいるのが当たり前の生活をしていて、目上のもんを目上とも思ってへんような言葉遣いをするこいつのことも、オヤジがこいつを拾った理由も、さっぱり分からんかった。
今は手放したらあかんな、と思ってはいるけど、若狭と草々があないして互いを思い合っているようにはなられへんのは分かってるし、どっちかと言うと、子どもがデカくなるまでは何があっても一緒におるやろな、くらいの気持ちしかない。
こいつにとっては、長いこと、人生で一番に大事なのはオヤジで、二番がオヤジに貰った烏。転がり込んだ頃はずっと、オレを置いてるのは、そのおまけみたいなもんやろとずっと思っていた。
あの頃はそれでも良かった。
オヤジもまだ生きてたし、家もまだあった。
こないして一緒におるのが当たり前みたいな顔が出来るようになっても、オレにはこいつしかおらへん、みたいな気持ちを持つのが怖いのかもな、と思う。
電話は、留守電が入っている様子で、ずっとランプがチカチカしてる。
「オレがこっち片付けしとくから、お前は留守電流しててくれ。もしかしたらFAXも入っとるかもしれん。」
「そのうち、パソコンでも買いますか?」と四草は言った。
「パソコンなあ……。」
一般企業が職場でパソコンを取り入れるようになったのは2000年に入った時分で、若狭がオヤジに入門してしばらく経った、あの年の頃だった。
会社で働くということについては、四草のヤツがオレらより十歩も二十歩も見識があった頃もあったが、あれから、すっかり月日が経ってしまった。
オレは一時エーコちゃんとお付き合いの真似事みたいなのをしてて、本当は好きな人がいるんです、とフラれてしまうまでは、パソコンを使っている彼女の仕事ぶりを、時々は横で見せて貰っていた。
若狭と正反対のあの子は、やっぱりうちの妹弟子とは違って人に教えるのが上手な質で、オレは彼女からパソコンの使い方をちょっとだけ教えて貰った。
それで分かった。落語会のポスター作るにも、お客さんの名簿ひとつ作るにしても、パソコンて道具がどれほど便利だとしても、落語家のほんまの仕事のためには、パソコンはむしろ邪魔やないか、と。
「仕事のメールなんか、見逃したら怖いやんか。四六時中張り付いてたら、稽古も出来へんようになるで。パソコン使ったあれこれは、マネージャーに任せとけばええやろ。そのうち、もうちょい操作のしやすいのが出来て来るやろうしな。子どもに与えるにしても、落語の基礎みたいなもんを、オレとお前で実地でちょっと考えてからの方がええ気がするし。」
「やりとりも電話やなくて、メールで済ますことが増えてる、て聞きますけど。」
食事を終えて箸をおいたばかりの四草は言った。
今日はなんや粘るな。
「あんなあ、しぃ。オレは何もパソコンが高いからこない言うとんのとちゃうで。オレらみたいな年のおっさんが、仕事の連絡ひとつに、ぽちぽちぽちぽち時間掛けてやってる間ぁに、日ぃが暮れてしまう。まだFAXの方がええやろ。」
あのカラスマがそれなりに出世してしまって、別のやつでは三代目草若一門の全員のスケジュール管理は頼んない、ちゅうんで、今はオレの部屋にも、四草の部屋にも、FAXを置くことになった。……というのは建前で、番号の違う二台のFAXは、ふたつとも四草の部屋に置かれている。並んで置かれたFAXは、大概内容が被っているのでほとんど一台しか稼働していない。
導入する時に、気が付いた人間が、気が付いたタイミングで印刷しておく。手が空かないときは相手に頼むこと、と決めはしたが、結局は四草に任せることがほとんどだ。
そうですね、と納得してないような顔で、四草は茶を啜っている。
(それにしても、朝飯も、ほとんどこいつが作ってるし、こいつがおらんようなったらオレの生活、どうなるんやろうな。パソコンなんかの話より、そっちのがよっぽど大事や。)
そんなことを考えていると、茶を飲み終えた四草と目が合った。
「そういえば、パソコンの中を検索したら、落語の筋書きとか、録画のビデオとか見ることが出来るデータベースがある、って草原兄さん、言ってましたね。」
「それそれ。落語講座のお弟子さん、……ちゅうていいのか、」
「聴講生でしょう。」
「そう、それ。便利なもんが出来るんはええような気がするけどな。ここんとこ、高座を楽しみにしてくれるお客さんも年々高齢化してるし、近所の図書館やら、ビデオのレンタルショップみたいなもんがない人にも、落語に触れる機会がちょっとでも増えるのが悪いこととは思えへんけど。」

――高座見に来んと、ほんまもんの落語を見た気持ちになってしまうのは、きっと落語家にとっていいことばかりやないで。
若狭みたいに、隣で一緒に笑って落語を聞いて、時には落語についてのうんちくを語ったりしてくれる家族がいてこそ、落語を好きになる。次の世代に、やっぱり高座が見たい、ちゅう気にさせるには、やっぱり生の落語に触れるのが一番や。
昨日の夜、草原兄さんはそないに言ってはった。

生の落語に触れてもらう、ちゅうてもなあ、何かのきっかけで、落語に興味持ってもらわんことには何も始まらん。
「今日の留守電は入ってないみたいだから、こっちのFAX流しますね。……今日は草若兄さんのとこだけみたいです。」
四草がそない言うとこに顔を上げると、ジジジジ、といういつもの機械音と共にFAXからロール紙が吐き出されて来た。
「小浜好きやで観光大使……?」と四草がいつもの柳眉を曇らせている。
人がしみじみしてるとこに、こいつは……。
「おい、四草。真面目くさった顔で、何あほなこと言うてんねん。今日はエイプリルフールとちゃうで?」とツッコミを入れる。
「僕が嘘ついてるかどうか、これ見てから言うてください。」と四草が目の前に差し出した紙を見て、オレは瞬きした。

『小浜市民課企画、小浜好きやで観光大使(仮)』について。

「何やこれ……?」
「見た通りです。」
「小浜好きやで観光大使!?」と声を上げると、相手はほれ見い、と言わんばかり。
「副賞として焼き鯖一年分らしいですよ。これで好きな焼き鯖、いつでも食べられますね。」
しれっとした顔で、四草が言った。
「自分も好物のくせに、何オレばっか食ってるようなこと言うねん。おまえとおちびと分けたら、三か月分やがな。」
そもそも、一年分て、平均的な小浜の家庭で半月に一尾食べるとして二十四尾とか、どうせそういう計算やろ、と思ったら、ぴったりその数が描いてある。三人で割ると八尾。
いや、副賞がしょぼいとか、そういう理由で仕事を受けるかどうか迷う余裕も今のオレにはないけどな。とはいえ……。
「こんなん、若狭んとこと草原兄さんとこに分けに行ったら、一週間も経たずにのうなってしまうわ。」
「受けますか?」と四草は即座に合いの手を入れる。
「当たり前や。草若ちゃんご指名なんやから、こんな仕事、他のヤツに任せられるかい!」
「色もんの仕事ですよ。やっと小さい草若から抜け出せたと思ったところに、こういう仕事を一回受けてしまったら、この先もずっと同じような仕事が入ってくるんやないですか?」
「わかっとるわい!」
オレはどうせオヤジみたいにはなられへんのやから、一生こんなもんや。
大きなため息を吐いていると、四草が笑う気配がした。
「こういう仕事も、草若兄さんには似合ってると思いますけどね。」
それ、どういう意味やねん……。
「僕も子どもも応援しますから、観光大使の名ぁの入った襷を掛けたとこで、一緒に写真撮ってやってくださいね。」と慰めのように四草は言う。
「うっさいわ!」と言いながら、あほらしい企画書をテーブルの上に置いた。
それでも、気分はさっきほどは悪くはない。
記念写真か。
きっとオレは写真の真ん中に立って、この底抜けにあほらしい肩書に似合う、気の抜けた笑顔で笑っているに違いない。
しゃあないなあ、ほんまに、と腕まくりをして、朝飯の皿を片付け始めた。

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