【原利土1819IF】頸と心22


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二十二 山の日々



 氷ノ山の奥に建つ家は、山の家にしては広かった。居間と納戸のほかに板間と書庫がひとつずつ、土間には竈と水瓶。裏手に厠と薪小屋と物置。庭先に井戸。周囲を杉と竹の林が囲み、最も近い隣家まで山ひとつは歩くと言う。人里離れた、山の忍の家だった。
 黒はしばらく納戸に寝かされていた。納戸には窓がなく、居間からでしか移動ができないから安全だと言う判断だった。利吉の父親──伝蔵が煎じた薬と、利吉の看病、母親の作る薬膳のおかげで傷は順調に回復した。伝蔵は忍術学園の教師だと名乗った。春の休暇に家族を連れて野遊山に行ったのだと。休暇が明ければ学園に戻らなければならない。
「お前さん、名は」
 三日目の朝、伝蔵が訊いた。
「……言えません」
「まあ……抜け忍だからな。仕方がないか」
 伝蔵はそれ以上追及しなかった。黒の装束と傷の具合から事情を察しているのだろう。名を明かせぬ忍の訳をこの男は知っている。名を預けることが何を意味するかも。
「まあいい。動けるようになるまで、ここにいろ。儂は仕事に戻るが、家内と利吉はいる」
「ご迷惑をお掛けします」
「迷惑なら拾わんよ」
 伝蔵はそう言って笑い、翌日には学園に発った。
 残されたのは、黒と、利吉の母と、利吉だった。



 最初の数日、利吉は最低限しか黒に近づかなかった。
 粥や水を運んでくるのは母に言いつけられた務めとしてこなしたが、それ以上の関わりを持とうとしなかった。納戸の戸口に椀を置き、用件だけ告げて去る。目は合わせるが、長くは見ない。
 見知らぬ忍がいきなり家に転がり込んできたのだ。警戒していたのだろう。父は大丈夫だと判断したようだが、十二歳の少年にはまだ父の判断をそのまま飲み込めるほどの器量はない。自分の目で見て、自分で決める。その頑なさが利吉にはあった。黒はそれを好ましく思った。

 転機は、本だった。
 傷が癒え始め、納戸から移動できるようになった頃、黒は書庫の壁に沿って積まれた書物の山に目を留めた。兵法書、忍術書、地理書、仏典。思わず手が伸びた。
「勝手に触らないでください」
 背後から声がした。見れば、利吉が腕を組んで立っていた。
「すまない。いい本が揃っていたものだから」
「それは父上の蔵書です」
「君も読むのか?」
「読みました。全部」
 全部、と言い切る声に力があった。黒は手にしていた一冊を見た。孫子だった。
「これは、もう読んだか?」
「はい。三回」
「三回」
 黒は少し驚いた。
「……では、『兵は詭道なり』の一節はどう解く」
 問うたのは気まぐれだった。だが利吉の目が変わった。警戒の色が薄れ、代わりに別のものが浮かんだ。試されている、と感じたのだろう。そしてこの子は、試されることを嫌わない性分だった。背筋が伸びた。腕を組み直した。
「騙し合いの技術だと、大抵の人は読みます」
「大抵の人は」
「私は違います」
「どう違う」
「詭道とは単なる騙しではなく、相手の思考の枠組みそのものを操作することです。相手が『こう来るだろう』と予測する、その予測自体を利用する。つまり──」
「相手の知性が高いほど、詭道は効く」
 黒が先を引き取ると、利吉は一瞬目を瞠った。そして、初めて警戒以外の目で黒を見た。
「……そうです。そこまで言う人は、あまりいません」
「君の父上は」
「父上は言いました。でも父上以外では」
 初めてだ、と利吉は言わなかった。だがその沈黙は雄弁だった。
「そうだな。でも、君の解釈はまだ浅い」
 利吉の目が鋭くなった。侮られたと感じたのだろう。けれども黒は構わず続けた。
「相手の予測を利用する。それは正しい。だが、詭道の本質はそこではない」
「では、どこです」
「その前に訊きたい。君の言った解釈は、お父上の受け売りか」
 利吉の頬が僅かに引きつった。図星だったのだ。『大抵の人は』という言い回しも、『予測の枠組みを操作する』という表現も、おそらく伝蔵がこの子に語って聞かせた言葉をそのまま再現している。この子はおそらく記憶力がいい。漢籍の読み解きは膨大な漢字との戦いだ。漢字を覚えられなければろくに読み進めることすらできない。それをこの子は解説書なしに三回も読んだと言う。見たもの聞いた言葉を正確に覚え、正確に思い出せるのだろう。とは言えその記憶は理解ではない。利吉は少しばかり口の端を曲げて言った。
「受け売りではありません。父上の話を聞いて、自分で考えて──」
「では、君が自分で考えた部分はどこだ」
 利吉が口を閉じた。
 考えている。必死に、自分の言葉と父の言葉を切り分けようとしている。だが十二年間、父母の言葉だけを浴びて育った子供にとって、自分の考えと親の考えの境界は曖昧模糊としているはずだ。利吉の聡明さはそれに気づけるところにあった。この子は気づいてしまったから黙ったのだ。
「……別に恥ずかしいことじゃない」
 黒は言った。
「お父上の解釈は優れている。それを正確に覚えていること自体、君の力だ。だが、孫子を三回読んだ人間なら、もう一段深く入っていい」
 利吉は黒を見た。悔しさと、それからもう一つ──知りたいという渇きが目に浮かんでいた。
「孫子は言っている。『能なるも之に不能を示し、用なるも之に不用を示す』。できるのにできないふりをし、使うのに使わないふりをする。これは何のためだと思う」
「相手を油断させるため」
「その通り。では逆に考えろ。君が敵の将なら、相手が『できないふり』をしていると分かったらどうする」
 利吉は一拍考えた。
「……裏を読みます。できないふりをしているなら、実は何かある。だから警戒する」
「そうだ。では、君が警戒しているとき──つまり君の頭の中に『これは罠かもしれない』という疑いがあるとき。そこに、もう一枚嘘を重ねたらどうなる」
 利吉の目が動いた。思考が走っている。
「……混乱します。本当なのか嘘なのか、罠なのか罠でないのか、分からなくなる」
「そうだ。つまり詭道の本質は──」
 黒は一呼吸置いた。
「騙すことでも、裏を読ませることでもない。相手の頭の中にある判断の仕組みそのものを壊すことだ。お父上が言う『予測の枠組みを操作する』というのはこれにあたる」
 利吉が息を詰めた。
「嘘を一つ混ぜれば、相手は裏を読む。嘘を二つ重ねれば、相手はどちらが本当か迷う。三つ重ねれば、もう真偽の判別ができなくなる。相手がどれほど賢くても──いや、賢ければ賢いほど、あらゆる可能性を検討しようとして身動きが取れなくなる。敵の知性が敵自身を縛る」
「……判断が、汚れる」
 利吉が呟いた。目が遠くなっている。黒の言葉を咀嚼しているのではない。自分の頭の中で、新しい回路が繋がろうとしている。
「汚れる、というのはいい表現だな」
「正しい情報と嘘の情報が混ざったら、もう全部信じられなくなります。……味方の報告も、自分の目も」
「そうだ。孫子が最後の用間篇で五種類の間者を使えと説いているのは、詭道を完成させるためだ。螢火の術を知っているか」
 利吉は首を振った。
「偽の手紙を持って敵の城中へ入り、わざと捕まって白状する。手紙の中身は嘘だが、白状したこと自体が嘘だから、敵は手紙を本物だと信じる。味方であるはずの部将が裏切り者に仕立て上げられ、城の中は疑心暗鬼になる。やがて誰も誰を信じられなくなり──守りが崩壊する」
 利吉は口を開いた。何か言いかけて、閉じる。
「詭道が壊すのは城壁じゃない。人の心だ」
 黒は言った。
「城壁は石火矢で壊せる。だが、人と人との信頼を壊すのは一通の偽書だ。そしてひとたび壊れた信頼は、石垣より修復が難しい。孫子が『戦わずして勝つ』と言っているのは、美しい理想論ではない。敵の内部を疑心暗鬼にすれば、こちらが刃を使わずとも敵は自壊する。それが詭道の到達点だ」
 利吉は黒を見ていた。
 目の色が変わっていた。最初にあった警戒がもうない。侮りもない。代わりにあるのは、渇いた者が水を見た時の目だった。もっと聞きたい。もっと知りたい。この人間の頭の中にあるものを、全部引き出したい。
「……でも」
 利吉は言った。声が少し小さくなった。
「それは、ものすごく──寂しい話ですね」
 黒は意表を突かれた。
「信頼を壊すのが最強の武器だとしたら、忍はずっと、人の信頼を壊す側にいるってことでしょう。誰かの繋がりを断ち切るのが仕事だとしたら。……忍自身は、誰を信じればいいんですか」
 それは、まだ青く、純粋な、子供を脱しかけている十二歳らしい問いだった。信頼を壊すことを生業とする者は、自分自身の信頼をどこに置くのか。それは孫子には書かれていない。書かれていないが、忍として生きる者なら必ずぶつかる問いだ。その問いに、黒はあの洞窟でのことを思い出していた。
 あの利吉との関係は、まさにそうだった。最初は損得勘定だった。情報源として拾われ、管理され、利用価値があるから生かされた。互いに信頼していなかった。それが変質した。いつの間にか。どこから。どの瞬間に損得が別のものに変わったのか、黒自身今でも分からない。
 けれども、確かに変わったのだ。信頼を壊すことを知り尽くした者同士が、それでも互いの頸を預けた。それがどれほど異常なことか、忍でなければきっと分からない。
「……いい問いだな」
 黒は言った。
「それについては、孫子には答えが書いていない。自分で見つけるしかない」
「あなたは見つけたんですか」
「…………」
 黒は少しだけ笑った。答えなかった。答えられなかった。自分はきっと見つけたのだと思う。けれどもそれをこの子に語る言葉をまだ持っていない。
 利吉は答えない黒に不満そうに眉を寄せたが、追及はしなかった。代わりに腕組みを解いて、黒の顔をまっすぐに見た。
「もっと教えてくれますか」
「何を」
「孫子の続き。……父上が教えてくれないところを」
 その声に生意気さはなかった。純粋な渇きだけがあった。山の中でひとり書物に向き合い続けた子供が、初めて父以外の対話相手を見つけた声。
「……いいとも」
 黒は答えた。
 利吉の目が光った。それは本の中では届かなかった場所に手が届きかけている時のきらめきだ。山の中で育った子供だ。父は滅多に帰らず、母は強いが学者ではない。書物は山ほどあるがそれについて語り合える相手がいない。十二歳の頭に詰め込まれた知識と解釈は、行き場を失って発酵していた。その鮮度のいい頭脳に、ようやく風穴が開いたのだ。
 その日から、利吉は朝の稽古が終わると黒の傍に来て本を開くようになった。



 傷がほぼ塞がった頃、黒は庭で身体を動かし始めた。
 利吉はそれを見ていた。黒が型の稽古をしている間、縁側に座って何も言わずにじっと見ている。三日目に、利吉が口を開いた。
「手裏剣、できますか」
「ああ、できるよ」
「……稽古を、つけてもらえますか」
 それは利吉にとって、かなりの譲歩だったのだろう。声が微かに硬かった。頼みごとをするのが得意でない子供が、精一杯平静ぶっている。
「いいよ」
 黒が軽く答えると、利吉の目が少しほっとしたように緩んだ。

 庭の隅に的が立っている、手裏剣を並べる利吉の手裏剣は悪くなかった。十二にしては筋がいい。だが矯正すべき癖がいくつかあった。手首の返しが早すぎる。肘が開く。体幹の軸が微かにぶれる。伝蔵ほどの忍が基礎を叩き込んでいないとは思えない。おそらく最近は息子に目をかけておれずに、我流になってきているのだろう。
「手首を柔らかく。もっと遅く返していい」
「遅くしたら威力が落ちます」
「落ちない。速さは腕じゃなく体幹で出すものだ。いいからやってみろ」
 利吉が半信半疑で従うと、三投目で的の中心に近づき、五投目でほぼ中心を捉えた。利吉の目が見開かれた。
「──本当だ」
「だろう」
「父上はこういう教え方はしませんでした」
「人によって教え方は違うからな」

 手裏剣の次は剣だった。利吉が木刀を二本持ってきて、向かい合った。利吉は最初、妙に自信のある構えを取った。父親に習った型だろう。綺麗な構えだった。だが実戦の速度で打ち込むと、三合で木刀を弾き飛ばされた。
 利吉は地面に落ちた木刀を見つめ、それから黒を見上げた。
「……もう一回」
 二度目も三合だった。三度目は五合持った。四度目、利吉は打ち込みの軌道を変えてきた。一度見た動きをすぐに分析して対応を変える。頭の回転が速い。だが速さだけでは身体が追いつかない。六合目で再び木刀が飛んだ。
 利吉は肩で息をしながら、黒を睨んだ。悔しさが隠せていない目だった。
「強いですね」
「まあ……そうかな」
「父上より?」
「手合わせしたことがないから分からないけど、お父上の方が技量は上じゃないかな」
「…………」
 利吉は黙って木刀を拾い、構え直した。五度目の立ち合いは七合。少しずつ持つ合数が増えていく。この子は打たれるたびに学んでいる。身体で覚えるのではなく、頭で理解してから身体に落とし込んでいく。あの利吉もきっとそうだったのだろう。あの男もまずじっと観察する癖があった。完璧主義者の片鱗が見える。
 その日から、朝は書物、昼は稽古が日課になった。

 利吉の態度が変わったのに、明確な境目があったわけではない。気がつけば、腕組みの頻度が減っていた。椀を置くのではなく手渡すようになった。黒が話すと顔をこちらに向けるようになった。問いかけの語尾が柔らかくなり、やがて呼びかけそのものが曖昧になった。黒には名がないから、利吉は黒を呼ぶ術を持たない。
「あの」
 ある朝、利吉が言った。書物を膝に広げたまま、妙に歯切れの悪い声で。
「なんだ?」
「……あなたのこと、なんて呼んだらいいですか。名前がないと不便です」
「名はあるが……言えないだけだ」
「知ってます。でも不便なものは不便です」
「別になんでも。好きに呼べばいい」
 何でもないことのように言うと、利吉は少し黙った。そうして沈黙のあと、ぼそりと言う。
「……お兄ちゃん、とか」
 小さな声だった。育ちきっていない手が、膝の上の書物の角を意味もなくいじっている。目が合わない。わずかに耳が赤い。
 黒は一瞬、何も言えなかった。
「……いいよ」
 声が震えなかったのは奇跡だった。
「呼びたいように呼んでくれ。──利吉くん」
 利吉は黒をちらりと見た。許可を得たことへの安堵と、自分からそんなことを言ったことへの照れが半々に混じった顔だった。十二歳の、この生意気な子供の、不器用な好意が見える顔。
「じゃあ……お兄ちゃん」
 今度は少しだけ声が大きかった。ほんの少しだけ。黒は顔が緩むのを止められなかった。口元が弛み、目尻が下がり、腹の底に温かいものが広がっていく。
 ──ああ、駄目だ。
 この生意気で素っ気なくて、手裏剣の稽古で負けると睨みつけてきて、孫子を三回読んだと胸を張って、それでいてお兄ちゃんと呼ぶ時だけ耳を赤くするこのクソガキが。
 途方もなく、可愛い。
「なに、笑ってるんですか」
「いいや、なんでもない」
「気持ち悪いですよ」
「……ひどいな」
 黒は笑った。それから窓の外を見た。晩春の光が庭に降り注いでいる。庭木の梢が風に揺れ、木漏れ日が地面に白い斑を落としていた。


***


 黒はよく、庭の花を見ていた。
 春が深まるにつれて山田家の庭は色を変えた。梅が散り、沈丁花が匂い、山吹が黄の帯を垣根に沿って引いた。どれも派手な花ではない。山の庭に咲く、慎ましい花ばかりだ。黒は縁側に座って、日がな一日それを眺めた。傷がまだ完全には癒えていないという口実があったが、身体を動かせない日にも動かせる日にも、黒は花を見ていた。
 利吉がいつからか、隣に座るようになった。最初は少し離れた場所に。やがて手が触れそうな距離に。二人で並んで庭を見ている時間が、稽古や書物と同じくらい日常に組み込まれていった。利吉は黒のように花をじっと見つめるのではなく、時おりちらちらと黒の横顔を窺っていた。
「お兄ちゃんは、花が好きなんですか」
 ある日、利吉が訊いた。
「いいや。そうでもない」
「じゃあ、どうして毎日眺めてるんですか」
 当然の問いだった。好きでもないものを毎日見ているなど、理解しがたいだろう。
「……約束したからな」
 何を。
 利吉の唇はその形を作りかけて、結局何も言わずに終わった。問いが喉の奥で留まったのが分かる。それは黒の顔を見たからだ。
 自分がどんな顔をしているのか、黒には分からなかった。悲しい顔かもしれない。穏やかな顔かもしれない。あるいはその両方が混じった、名付けようのない顔をしているのかもしれない。利吉が問いを呑み込むほどの顔を、きっと自分はしているのだろう。
 利吉は黙って視線を庭に戻した。山吹の花が風に揺れている。この子は踏み込んではならない領域を嗅ぎ分ける勘を持っている。その子供なりの遠慮を感じながら、黒は庭を見ていた。
 山吹の黄は鮮やかだったが、黒の目はその色を透かして別のものを見ていた。白い花。白い曼殊沙華。利吉が──あの利吉が、その花の存在を教えてくれた野原。春になったら、うちに来い。一緒に庭の花を見ようと言った。あれは約束だった。果たされることのなかった約束。閉じられた時の中に置いてきた約束。
 だから黒は花を見ている。ここで。この庭で。利吉の分まで花を見ている。
 後悔はしていない。
 あの崖から飛んだことも、戻ってきたことも、この場所にいることも全て正しかった。正しかったと思っている。でも──。
(お前と、一緒に見てみたかったな)
 それだけが、喉の奥で燻っていた。この山吹を。あの梅を。あの沈丁花を──この庭で、お前の隣で、お前が子供の頃に見ていたはずの花を、二人で見てみたかった。

 睦言ひとつ、交わしたことはなかった。
 思えば奇妙な話だった。身体は重ねた。息を分け合った。名を預け、頸を差し出した。それなのに言葉だけは最後まで口にしなかった。利吉も何も言わなかったし黒も言わなかった。二人とも同じ言葉を喉の奥に飼い殺しにしていた。
 黒は左手で、首元の布に触れた。利吉が寄越した首巻きだった。黒の首が冷えるからと、無造作に渡して寄越した布。それだけの意味しかないはずのものを黒はまだ巻いている。洗って匂いはとうに消えた。利吉の体温も残っていない。そのただの布を、黒は外せずにいた。
 最後に見た顔を思い出す。焙烙火矢の爆風の中で、黒を庇った利吉の顔。血に塗れ、意識を失いかけ、それでも口元だけが笑っていた。笑って利吉は言った。この頸は重いのだと。
 いとおしげだった。
 あの一瞬の利吉の目には、黒がこれまで見たことのない光があった。冷徹さも合理性も剥がれ落ちた後のまっさらな光。黒を見て、黒の頸の重さを確かめて、安堵したような光だった。
 あの表情の中に、きっと利吉が言わなかった言葉の全てがあった。黒も同じだった。逃げろと言われて走り出す時、立ち上がろうとした一瞬だけ目が合った。あの一瞬に黒もまた全てを託した。声にしなかったのは臆病だったからではない。心が、あまりに重すぎたからだった。
 頸よりなお重いものが胸の底に沈んでいた。それを声に乗せてしまったらきっと壊れてしまうと知っていた。声にした瞬間に、走れなくなる。利吉の傍から離れられなくなる。だから呑み込んだ。ずっと呑み込み続けていた。
 代わりに名を預けることで語った。息を重ねることで語った。身体を差し出すことで語った。言葉以外の全てに託して、言葉だけを伝えないままに遺して消えた。
 それで良かったのだと思う。
 それしかなかったのだと思う。
 もし言葉を口にしていたら、黒は崖から飛べなかっただろう。利吉も黒を行かせなかっただろう。だから、あれでよかった。あれでよかったのだ。
「お兄ちゃん」
 利吉の声が、黒を引き戻した。
「うん?」
「また泣いてるんですか」
「泣いてない」
「……嘘つき」
 利吉は黒を睨んだ。呆れと、心配と、それから怒りに似た何かが混じった目だった。
 山吹が散り始めていた。黄色い花弁が風に乗って庭を渡り、黒の膝の上に一枚落ちた。黒はそれを摘まみ上げ、しばらく見つめてから、そっと離した。
 利吉は不思議そうにそれを見ていたが、何も訊かなかった。






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