大静/罪深き人

※ゴリゴリの死ネタ注意(自殺含む)
※幽霊?もいる

 どうやら自分は頭がおかしくなったらしい。大崎はうねるような視界の中でそう思った。
 六尺ほどの身体がいつのまにか木張りの床に崩れ落ちている。目眩だ、と認識したのは数秒先だった。
 目眩で倒れても、大崎はただ一点を見つめていた。いや見つめていたのではない。ただ、視線を逸らせなかった。
 何も居なかったはずの廊下に、台場静馬が居た。ここには居ないはずの人間だ。彼の体は半透明に透けて、向こう側が見えていた。
『君は、おかしくなんてなっていない』
 楽しそうに笑う幻覚は、幻聴も伴っていた。幻聴は記憶通りの声だ。彼と最後に会ってから、何年も経った。だというのに彼の姿も、声も、そのままだった。
 春は気が狂うとよく聞く。先日から桜の開花が話題となっており、そのせいでは無いかと大崎は思った。しかし幻聴はそれを否定する。亡くなった父の家で、台場静馬の幻覚を見ている、このありえない状況を、現実であると幻聴は言う。
 大崎は意味が分からずに溜息を吐いた。そうでもしないとやっていられなかった。そうでなくても、最近は人と話すことが少ない。久しぶりに顔を見たこの男に何を言うべきか、とんと検討も付かなかった。
 冬の終わりに、父が息を引き取った。肺炎を拗らせた末の死だ。病床の父は、自身の身体を差し置いて、ずっと心配そうな視線を大崎に注いでいた。その理由を大崎はよくよく理解している。何せ父が死んだ後の自分は、話し方を忘れる程、孤独だ。
 父の家を片付けているうちに、春が来てしまった。早く引き払ってしまわなければと思う気持ちが強く、父の家に寝泊まりして片付けをしていた。
 気が狂うことを別にしても、春は嫌いだった。静馬が姿を消してからずっと。連絡を寄越すと言ったから。あなたのせいで、春が嫌いになったのに。
 心中での恨み言に、俺のせい?と幻覚は不服そうに言った。そして同時に、やはりこれは幻覚なのだろうと納得する。心の中の声を聞くのは、自分の頭の中で作り上げたものだけだ。そういえば、彼と出会った事件でも同じような幻覚を見た。
「あなたが裏切ったから」
 人のせいにするな、と呆れたように言う男の声に被せた。被せたのは自分だと言うのに、裏切った、と口に出してしまうと、途端に他の言葉が何も出てこなくなった。慣れ親しんだ緘黙だ。大崎はただ幻覚をじっと見た。
『連絡が途絶えただけだろ』
 幻覚はテーブルの上に座り、足を組んだ。尊大な態度は自身の非を認めるつもりがない表れだ。しかし連絡が途絶えただけ、と言うにはどうにも悪辣に思えた。連絡すると言ったから自分は待った。何時間も、何日も。精神が千々に乱れながら。だというのに連絡はその後、一度も無かった。
『ああ、忘れてた』
 白々しい。だからこの男に入れ込みたくなかったのだ。初対面の印象はあまり外れない。特に探偵のものは。そしてこんな幻覚に振り回されるなんてことは無駄なことである。
 幻覚を振り払うように仕事のことを考える。明日の予定を。

 早朝、大崎は新木場探偵事務所の鍵を開けた。扉を開けて足を踏み入れる。重々しい木製の調度品が変わらずそこに佇んでいる。一日踏み入れないだけで、籠った空気が動くのを肌で感じる。当たり前だが、部屋には誰もいない。響く足音は一人分だ。
 品川はとうに独立し、その後に雇った人間も父の死と同時に解雇した。今は一人で細々と事務所を回している。それでも問題無い程度の件数しか、依頼を受けない。藤沢の事務所を移転しないのは、ただ変化を厭うてのことだった。
 今日は何の予定もなく、ただ電話番と事務仕事の日だった。大崎が別の仕事の資料を確認していると、幽霊がこちらをじっと見ていた。手元では無く、大崎自身を。

 この幻覚は昨日、大崎の前に突然姿を現した。
 昭和三十年の事件、その際に見たものと同じ、台場静馬の幻覚だ。
 大崎は静馬の裏切りという過ぎた怒りをどうにか宥めた。そして何故自分なのか、何故見えるのか、何故話すのか。それよりも先に、ただ死んだのかと大崎は思った。心の中で思っただけなのに、けろりと男は答える。
『ああ、死んだ』
 次に大崎は、何故と思った。何故死んだのか。自分は険しい顔をしているのだろう。顔面の緊張で手に取るように分かる。だと言うのに幻覚はまるで応えていないように説明する。
『君から離れた後に出会った男性が少々、いやかなり?嫉妬深くてね。しばらく君と同じようにセックスしたりデートしたりしていたんだけどさあ、突然俺が自分のものにならないならと言って襲い掛かって来たんだよ。もう大変!そのまま首絞められて死んでしまったってわけ』
 そう言ってへらりと笑う。その様子に大崎は言葉を失った。
 結局、彼が被りたかった人の罪による罰ではなく己の罪による罰で死んで。そんな軽薄な顔をして。この男は、きっといつかの自分と同じように、ただ死に場所と死ぬ理由を探していただけなのだろう。そうして勝手にいなくなり、勝手に死んだというわけだ。そう思うと、宥めたはずの怒りがまた沸騰した。
 静馬の喉元を掴もうと両手を伸ばして問い詰めようとした。しかし勿論空を掴み、静馬の笑い声が響くだけだ。
 何度頭をぶつけても消えてくれない。殴ろうにも殴れない。ただ煩いだけの幻覚だ。
 もう溜息しか出ない。大崎は幻覚を無視して、寝具の準備をするしかなかった。

 そうして夜が明けても幻覚はそのままで、職場にも着いて回ったと言うわけだった。
 思いもよらない状況に疲労の色が薄く滲む大崎が事務所で黙々と作業をしていると、じっと顔を見ていた幻覚が声をかけてきた。
『寂しいやつだな、君は』
 呆れたような顔だった。大崎は煙草に火をつけようとして、やめた。人の人生に口を出して、この人は一体何がしたいのだろうか。自分はすでに死んでいるのに。
「こんなものでしょう」
『お、俺と話してくれる気になったんだ』
「……」
『人が居ない場所なら話してくれるんだな』
 何も答えない大崎に、合点がいったとばかりに幻覚が笑う。しかしその理解は偽であった。
 昨夜、父の家にいたのは大崎だけだ。だから昨夜だって、周囲に人は居なかった。ただ昨夜は声に出すことができず、今は声に出すことができる。それだけだ。そしてこの考えすら全て筒抜けなのだろう。しかし幻覚は何も言わずに笑った。笑い方も大崎がよく知っている彼そっくりだった。

 それから幻覚の静馬はしばらく一人で話し続けた。
 君を引っ張って、あの江の島の水族館に行くのは面白かった。君の好みの喫茶店は結局見つからなかったな、連れ込み宿も。どこも一緒だと言った君が信じられないよ。どこもあんなに違うだろ!はは、面白かったなあ。
 戸棚に入れておいた宝物でも影干しするような穏やかさで、大崎との思い出を話した。そこにある喜びは、埃が被っても変わることが無いとでも言うような口ぶりだ。
 でも、あなたは自分を置いていったでしょう。
 昨日、二度も宥めたはずの怒りが、また沸々と沸き立ってきた。その言葉は静馬も聞こえているだろうに、大崎は律儀に飲み込み、また視線を資料に向ける。
『君のことが、好きだった。多分ね』
 一瞬、呼吸が止まった。都合の良い幻覚だ。あまりにも、大崎に都合が良すぎる。だからこれは嘘だろうと思う。嘘だろうと思うのに、大崎は弾かれたように資料から視線を上げて静馬を見てしまった。
 静馬は名残惜しそうに手を伸ばしていた。もちろん幻覚である彼は大崎の腕に触れることも出来ず、するりと通り過ぎてしまう。そうして何にも握れなかった手を自分の下に戻すのだ。
 大崎はどうにも許しがたく、腹立たしい気持ちになった。目の前が真っ赤に燃えるような気さえした。大崎は自身の手のひらを強く握る。この幻覚を殴ることは、どうしても出来ない。痛みに強いはずの手のひらが鈍く不快を訴える。それでも手のひらを握ることを止めることはできなかった。
 静馬は、自分のことを好きだったと言った。ならば、どうして居なくなってしまったんだ。大崎はどうしてもそう思ってしまう。静馬を視界に入れることすら苦しく、目を逸らした。
「せめて理由を、教えてくれませんか。自分に連絡をしなかった理由を」
 喘ぐように大崎は言った。脳に空気が足りなかった。この問いにまともな答えが返ってこなかったら、もうこの存在が何を言ったとしても無視しようと思った。大崎はもう冷静にこの存在と対峙出来るとはかけらも思えない。
 そんな大崎の様子に静馬は目を丸くする。まるで驚いたような表情で、視線が揺れた。何を言おうか、言うまいか、悩んでいるようだった。深い深い溜息の後、静馬はやっと口を開く。
『……君を、愛しすぎたから』
 それは苦々しさの孕んだ声だった。聞いたことのない響きだ。言っている内容はこんなにも甘いのに、信じられなかった。
 そこまで愛したのなら何故自分に言ってくれなかったのか。そう思うが、大崎には静馬の内心を想像することもまた、容易に出来た。この男の妙に意気地の無い、怖がりな側面を、馬鹿馬鹿しいと思いながらも無視出来ず、愛したのは、他でもない自分である。
 だからこそ、そんなことなら殴りに行けば良かったと強く思った。あの時間の時と同じように。握り続けた拳は、更に皮膚に沈む。しかし、赤くなっているであろう手のひらの色は、いつもと変わらない。元々の色が赤いだけだ。
『でも、殴りに来なかったのは君だ』
 静馬の声は厳しいものだった。そして、確かにその通りだった。自分は、彼が間違えたら殴りに行くと言った。それをしなかったのは結局のところ恐ろしかったからだ。この人に強く否定されたら、自分はきっと二度と、他人を信じることはないだろう。そんな予感が、自分を真実と静馬から遠ざけた。
 こんなところで滑稽な顔合わせをしている現状。それは結局のところ、お互いに弱く、会いに行けなかったというだけの話ではあった。
 大崎は、肺の奥底から息を押し出した。それが悔恨から来る溜息だとは、理解したくなかった。今更後悔しても、もう遅い。それをお互いに押し付け合っていても。

 三寒四温という言葉がある。その寒の戻りの日であった。
 大崎は人探しの依頼を受け、とある寺へと足を運んだ。その寺は、長谷の観音から少し歩いた場所にある。
 山門に至る参道に植えられた桜は散りかけだった。道にはここ数日の強風で多くの花が散っており、絨毯のように見える。大崎は散った花を踏みつけながら足を進める。そのようにしか、生きることが出来ないとでも言われているかのようで、憂鬱だった。その隣を幻覚もとい幽霊が花を踏まないまま着いてきているのを見ると、尚更。
 本堂前には見事なまでの海棠が咲き誇っており、その海棠を横目で見ながら、寺の端を通って、山道を登る。数日前の雨で足元は泥でぐずついている中、靴の汚れも気にしなかった。眼下には墓地が見え、その中央には大きな桜とも梅とも判断着かない巨木が鎮座していた。
 さらに登ると、古くからある土牢があった。切り立った崖の一部を削り取り、最低限の体積を確保して、太い木の柵があった。
 過去、名のある人物がここに幽閉されたらしい。ぼんやり見ていると、後ろにいた幽霊が覗き込んできた。
『なんだ、そんな趣味があったのか』
 けたけたと笑う。おちょくっているのだ。
 趣味があったとして、あなたを監禁すれば良かったのか。外に一歩も出さず、自分の目の届く範囲に居させる、それがあなたの望みであったのだろうか。思った後に、大崎は笑われるのではないか、と静馬を盗み見た。
『望んだことはない。……でも、まあ、そう、だったのかもなぁ』
 予想に反して、彼は寂しそうに言った。
 いつのまにか雨が降り始め、徐々に雨足は強くなっていた。この雨風で、この寺の見事な花はもっと散ってしまうだろう。大崎は道に落ちた花を蹴散らしながら歩く。そうでなければ、進むことさえままならなかった。
 美しい花こそ散りやすい。そんなことを言っていたのは誰だったろうか。そんなことをぼんやりと思っていると、静馬は口を歪めて笑った。
『はは』
 雨音がうるさかった。耳障りな笑い声は雨音に混ざり消えていった。

 何をすれば、この幻覚は消えてくれるのだろう。
 大崎は慣れたこの半透明の男を見ながら思った。外は今日も雨だ。
 静馬が見えるようになってから、春が終わり、初夏も過ぎ、梅雨に入っていた。
 事あるごとに静馬は大崎に言った。ただ、愛していた、と。
 その度に大崎は律儀に眉根を寄せた。不愉快だと伝わるように。しかし静馬は言い続けた。まるで呪いのように。
 限界だった。春が終わったというのに大崎の不調は改善しない。それどころか悪化している。
 昨夜など睡眠薬がなくなってることに気付かず、薬を飲まずに寝ようとした。しかしうまく寝つくことができず、なんとか寝付いたのは良いが、眠りが浅かったようで深夜に起きてしまった。自分の周囲に静馬は見当たらなかった。
 本当は大崎だって静馬のことが好きだった。そんなことは、とうの昔に知っている。強い感情に振り回され、それが好きに該当すらことを自覚してからは、更に好きだと思う感情が加速した。
 だとして、何になると言うのだろう。大崎は静馬の姿が見えないのを良いことに、心中で問うた。好きだと彼に伝えていたとて、付き合うなどのよく言う普通の恋愛は望めなかった。静馬にその気が無かったからだ。そして自分も、そのようなものを求めた覚えはない。だとしたら、この感情は一体どこへ……。
 しかしその答えを持つものは無い。答えを求めてじっと見つめてしまった廊下は、吸い込まれるような暗さで大崎を見つめていた。
 大崎が昨晩の廊下の暗さを思い出していると、静馬は空中でくるりと回転して、大仰に足を組んだ。
『未練があるんだよ。探偵さん』
「未練」
 当ててみなよと言う彼は今どうやら自分に興味が無いらしい。窓の外の雨をぼんやりと見ていた。自分を見てくれとも言えない。
 手を伸ばすが、静馬は掴めない。それだけが大崎にとって変わらない事実だった。

 睡眠薬を増やす。それがかかりつけの精神科医の判断だった。かかりつけの医者に、大崎は幻覚の男の話をしなかった。薬が増えるだけだと思ったからだ。しかし増えたものは増えたのだから、どうしようもないだろう。
 医者はただ眠れないと語る大崎の様子を見て、困ったようにただ薬を増やすと言った。幻覚の男は、大崎をただじっと見ていた。その視線の意味を、大崎は知らない。

 日曜の朝。大崎は事務所で月曜の朝から使う資料をまとめていた。
 雨雲の切れ目なのだろう、開いてる窓からは柔らかな光と、近くの教会から聞こえてくる聖歌が入り込む。彼と出会った年に建った教会だ。だと言うのに聖歌を聞くのは初めてだった。透き通った声が響く。
 美しいものなのだろう、そう判断出来るのに、歌声は大崎の脳を圧迫する。限界だった。強い薬になったのに眠れない日が続いていた。
「あなたのことが、好きです。今も。どうして死んでしまったんですか」
『どうしてだろうなあ』
「本当に、あなたは」
 言いかけて、言葉を飲み込んだ。静馬は薄く笑った。
『君に仕事を依頼したことを、今でも後悔しているんだ』
「……は?」
『あれが無ければ、君は俺のことなんか好きになることは無かった』
 なんて勝手なんだ。いつだって。自分がいなければ、あの島で死んでいたかもしれないのに。
『……そうすれば、俺が君に入れ込むこともなかった』
「……酷い人だ、あなたは」
『泣くなよ、もう拭ってもあげられない』
 本当に悲しそうに彼は吐き出した。馬鹿げた話だった。ずっと。恋が罪悪だと言ったのは誰だったろうか。もうそれすら分からない。
「あなたが好きです。ずっと……今も……」
 顔を上げると誰もいない。最後まで勝手な男だった。

 強い雨の降る日だった。
 大崎はいつぞやと同じように軽井沢に向かい、錆びついた親鍵を使い、見知った別荘に入った。
 事件後に、親鍵を返そうとした大崎を止めたのは静馬だ。君が持っているべきだろうと言って、受け取らなかった。
 軽井沢はすでに花の季節が終わっているのだろう。道中、花よりもずっと濃い草木の匂いが咽せるように漂っていた。それはきっと雨のせいでもあった。
 雨のせいで、ここまでの道中は酷い悪路だった。しかし花を踏まなくても良かったという点において、大崎は心底ホッとした。ただ、踏み躙るのが心苦しい、それだけのことだ。
 大崎は浴室に向かい、蛇口を捻る。最初こそか細く、酷い色の水だったが、徐々に色を失って澱みなく流れ落ちた。水が出たことに大崎はまたホッとする。手を差し出すと、よく冷えた水が体温を奪う。赤い、罪深い手は、水に冷やされ、甲側も赤く染まっていた。
 大崎は服を着たまま浴槽に浸かる。服は水を吸い、途端に重くなった。その重さを早く計ってほしいと思いながら、更に多くなった睡眠薬を飲みこんだ。多くなった薬を飲むのはそれだけで重労働で、大崎は飲み切ってやっと、大きな溜息吐いた。
 ここまでたくさんのことがあった。一つずつ丁寧に思い出そうとしたが、もうそれも難しい。やっと眠ることが出来る。その安堵が大崎の身体に染み渡った。
 大崎は徐々に薄れゆく意識の中で、水音が大きくなるのを感じた。
 水音が。聖歌をかき消して。冷たい。罪が。花、……。

 彼に夏は来なかった。


・メモ
牢屋 光則寺(花で有名)の土牢
教会 藤沢教会(昭和30年春)
水族館 江ノ島水族館(昭和29年夏)

powered by 小説執筆ツール「arei」

54 回読まれています