天として来よ【本丸情景集】
雨さん視点の「雲にねむりて」、雲さん視点の「雨にめざめる」二本立てです。
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雲にねむりて
月のうるさい夜だった。
あの場にいた時間遡行軍はすべて倒した。しかし、風の音も、月の影も、揺らぐたび、残党ではと不安を掻き立てた。草原は身を隠しにくい。満月ではなおさらだ。休んでいるうち新手に見つかっては困る。どうにか物陰にと、ひたすら北へ走っていた。月を背に、光を厭うように。背中からずり落ちそうになる身体を、もう何度目か、揺すり上げてやる。わずかに呼吸が伝わるのが、この狂ったように眩しい夜の、唯一の救いだ。
どれだけ行った頃か、北東に丘が見えた。小高く、いくらか木が生えているようだ。あそこなら身を隠せるだろうと、足を向ける。目的地が定まったことで、疲労がすこし癒えた気がした。ふたりぶん重なった淡い影を追いかけてゆく。ときおり、影の頭が、ちらちらと光を帯びることに気づく。足を止めずに視線を落とすと、地を水が細く流れているのがわかった。目指す丘から来るらしいそのひとすじの帯は、白金色に、希望そのもののように輝く。
たどり着いた丘は、藪や低木で、下から容易には見つかりそうにない。緊張がほぐれてゆく。中腹で彼を背から下ろし、藪の陰に横たわらせた。敵の投石が当たった背中を、地に着けないようにして。それがもとで昏倒してしまったものの、出血はないし、他の怪我もそれほどひどくないようだから、目を覚ませばまた歩けるだろう。葉陰から漏れくる月がうるさかろうと、己の襟巻を外して掛けてやろうとした。手にした黒い薄布は、ところどころ端が切れ、血に汚れている。うんざりしながら、少しでもきれいなところが表になるように畳んで、瞼に被せてやった。
手近な木の幹に凭れる。彼を視界に入れようとすると、月と相対することになった。あまり深く眠ると襲撃の際に困るから、明るくて好都合だ。と、頭では思うが、疲弊ゆえ苛立った。己の意を離れて、悪い想像が膨らむ。もし、はぐれた仲間が折れていたら? もし、自分が目を覚まさなかったら? もし、彼が目を覚まさなかったら?
閉じた瞼の裏で煙のように渦巻いた不安は、けれど、誰かが火を吹き消したように、不意に途切れた。急激に眠りに落ちる。その間際、幻の声が聞こえた。本丸の、己と彼の過ごす部屋、あたたかな寝床で書物を読みふける自分に、「ほら、もう消して寝るよ」、と笑う彼の声が。
雨にめざめる
血の流れる夢を見ていた。冷たい赤に触れ、探れば、その先に、彼がいた。名を叫ぼうとしたところで、目蓋を白い光が刺した。すぐそばに、黒い布切れが落ちていた。
跳ね起きる。頭が、低い位置にあった何かにぶつかり、背中が鈍く痛んだ。歯の隙間から息が漏れる。薮に絡まった髪を、おそるおそる外した。いくつか深呼吸をして、周りを見回す。
日が昇ったばかりだった。彼は、そばの木の幹に凭れて、眼を閉じていた。慌てて近寄ったが、顔色は悪くない。衣装は血に汚れていたが、今は出血していないようだ。よかった。そして、動いてみると、自分の背中の痛みはたいしたことがなかった。
立って見回すと、木々の間から草原が覗いていた。自分を背負って上がる苦労を思って、呑気に倒れていた自分に嫌気が差す。近くで何か鳥が鳴く。こぽ、と、吐息のような音がする。こぽ、……こぽ。それは夢のなかに響いていた音だった。少し歩くと、地に盥ほど水の溜まっているところを見つけた。それは小さな、丸い泉だった。溢れた水が細いせせらぎになって、丘の下へ行くらしい。汚れた手を水に浸けると、指先がじんとするほど冷たく、心地よかった。汚れを落として、喉を潤す。こぽ、こぽ。時折、底の砂から気泡が上がる。泡が弾けて水面が揺らめき、波の輪が広がる。水たまりに雨が降るのに似ている。池の底から降る雨が、水面という地に降りるような。
「雲さん、起きたのですか」
「うわ!」
後ろに彼が立っていた。いつもながら、静かな足運びだ。
「あ、雨さんこそ、大丈夫? 俺、起こしちゃった?」
「私は休めましたので、もう動けます。太陽に起こされました」
「そっか。眩しかったよね、あそこ」
「はい」
「見ててくれて、ありがとう。俺も、もう大丈夫……。ね、水、きれいで、おいしいよ。雨さんも飲みなよ」
「そうさせてもらいましょう」
隣に屈んで手を清め、水を飲んだ彼は、ワン、と呟いた。美味しかったのだろう。微笑んで、ワン、と返す。
「雨さん、よく休めた?」
彼はほんの僅か、目の端を細めた。
「はい。月が明るくて、寝づらかったのですが」
「あ、俺にも、襟巻をかけてくれてたよね。雨さんは、どうしたの?」
「雲をりをり人をやすめる月見かな、ですね」
「……、あ、そういうこと」
「あの方」の句だ。彼は、水面を眺めながらまた、雲、と言う。それは泉だ。
「底から雨が、降ってきているようです」
「俺も、同じことを思ったよ」
「そうですか。ですから、その底が、この泉の、雲です」
「あ、なるほど……」
俺はぼんやりと頷いた。こんなにうつくしい水に、俺自身をなぞらえられたようで、腹の底がくすぐったい。彼は泉に向かって、明朗に詠う。
「水底を天として来よ春の水。……さあ、行きましょうか」
「うん」
彼に遅れて立ち上がる。泉のおもては、彼の歌を捧げられて湧き上がってくる清い水に絶えず揺らめいて、朝日を弾いている。
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