まだ一度目ではない


 最後にそう言ったのは誰だったか? 水戸はささやかな人生を振りかえってみて、その無意味さを缶コーヒーで飲み干した。本人は明日には忘れ去ってしまうであろう言葉を、水戸はいつかまた思い出すような気がした。あまり大きく動かなかった口もとも、その抑揚も、いまはまだおぼえている。桜木がいなくても来るよなあ、学校。「おまえは偉いよ」と、三井はそう言ったのだった。
「ここ屋上ですけど」
 さっきチャイム聞き流したとこだろ、とつけ加えようとしてやめる。事実も嫌味も通用しないだろう。案の定、「いや、マジで」という三井の声は葉の輪郭のように清々しく、まああんたに比べたら偉いかもね、などという軽口で気をそらすのも、すこし幼稚すぎるように思われた。
「そりゃ、どうも」
 ひとの心などは育つよりも折れてしまうほうが簡単で、いったん折れたそれを元どおりにくっつける特効薬などないということは、折れてみなければ理解できない。あらかじめ教わってみても、理解してはいなかったという事実それ自体を、その瞬間になってはじめて理解することは山ほどある。無遠慮な評価を与えられて、それでもなぜか腹立たしくはない相手もいるということは、その人物に言われてみなければわからない。三井はそれほど弁が立つほうではない——というより、三井が口にするのは、彼が言うのでなければつまらない言葉ばかりだった。
「今日もバイトか?」
「いや、花道むかえに行って……メシくらい食うかな」
 以前にもこんな会話をしたような気がして、それもそうだろうと水戸は思う。自分たちにできる会話の種類などたかがしれている。あまり浮かばない表情のわけを読み取っても、それをほどいてやるほど親切である理由はない。すじ雲を見上げていた三井が、「オレも行く」と洗いざらしのような物言いで口にするまでの間になにを考えたのか、見当がつくようでいて、それはほんとうはまるで的外れなのかもしれなかった。自分には見えない天啓をみて、行き止まりの壁に穴をあけるようにして最適解に至る人間の潮流が、水戸にはときにおそろしく、ときに好ましく感じられる。朝帰りの路上ではこちらの敗北が定められた魔物のように昇る太陽は、心機一転とばかりに前夜の傷をシャワーで洗い流す朝にはきまって胸を晴らせて、新鮮な一日をつくり出すものだった。
「おまえ原付?」
 同行を断る理由も意思も見出せないまま、けさ公園裏に停めた原付を思いやりながら言った、「今日は歩きだよ」。水戸がしばしば原付で通学していることを三井が知っているのは、どうも妙な気分だった。あずかり知らぬところで三井が自分を見ていたことも、それを今日まで知らずにいたことも、そんなことはいくらでも起こりうると理解するのは簡単だ。けれどかすかに跡を残す引っかかりは、部屋のすみで育つ埃のように肥大する。そしていつか、ずっと前に燃やし尽くしてしまわなかったことを後悔するのだ。
「じゃ放課後な」
「いいけど、部活は?」
「たまには宮城にいばらせてやらねーと」
 三井の前髪がひややかな風になびく。床に置いた空き缶が転んで、水戸の手がそれを拾いあげる。

 他人と他人の日常を重ねあわせると、それは非日常になる。駅舎の券売機に並び立ったとき、筐体のすみの細い傷が光に反射するのが水戸の目についた。あらたまって夢など見なくても、長いあいだ知らずに通りすぎたものをひとつふたつと認識するうちに、世界はまるで手におえない空間であることを知る。
 改札を先に通ったのは水戸で、まもなくホームへ入ってきた電車に先に足を踏みいれたのは三井だった。線路づたいにやってきて、ホームに散らばる人びとを長く連なる車体がいっせいに運び去る。たったの二駅、ほんの三分間、どちらも空席を見渡そうともせずにそのままドアにもたれるようにして立った。ゆっくりと電車が走りだすとき、改札へ向かう人びとのあいだを青年が駆けてきて、あきらめて立ち止まると、肩で息をする。あー、と三井がちいさな声で言って、水戸はまばたきをした。おなじ光景を見ている。
「水戸ってさ、なんでそんなにバイトしてんの」
 三井の横顔が窓越しの光を受けていたが、もうまぶしいほどの照り返しではなかった。はじめて見る光のようで、それが確かであることを水戸は考える。季節はいちどきりではないのに、一年前へ戻っても一年後へ進んでもけっして二度目はない。そのことが、時間のかけがえのなさではなく、いまという瞬間がいかに瑣末なものかを教えるのだった。無益と有益の境界線など校庭に引かれた消石灰のようなもので、つま先でかき混ぜられるほどの秩序でしかない。
「そんなにってこともねえけど。まあ入り用だしね、いろいろと」
 嘘をついたわけではなかったが、このまま話を終えれば、三井にとって、自分は話をごまかしたことになるだろうと感じていた。反対側のドアが開いて、だれも降りずに、ひとりが乗る。あと一分もすればふたたび停まって、ふたりであのドアから降りる。
 ここで自分の財布事情を洗いざらい話すつもりはないにしても、欺瞞を好ましく思わない程度には気を許していて、遠慮を惜しむ程度には愛着があった。気とか愛着とかいった不透明なものを利用しようとする程度には、こんな瑣末な非日常は、水戸にとって信頼できるものだった。
「ここにいられないときがあるだろ」
 わかる? という予防線を切り捨てたのは、三井の短い逃避行を知っていたからだった。二度目はない。こんな日はやがてなんと呼ばれるだろう。
「そういうもんのためだよ」
 心情の歯車を止めたような顔つきで聞いていた三井が名前を呼んだとき、電車が揺れる。ドアが開いて、水戸が先にホームに足をおろす。「さっきなに言おうとした?」背すじをのばして軽々と階段をのぼる三井の向こうがわを、数人があわただしく追い越していった。ああ、と口をひらいた三井に二段遅れて、水戸が階段をのぼりきる。
「あとで番号教えろよ」
「……電話の?」
「電話しかねーだろ」
 なんで、と問うのは滑稽なことで、そもそも断ることに適した理由が与えられるとも思えなかった。「べつにいいけど、あんまりいないよ」という垢抜けない返事を水戸が後悔したことは永劫知りもしないような健やかさで、三井が笑う。「かけねえからいい」。

 跨線橋のくすんだ窓ガラスに射した濃い橙が跳ねかえると、もっと話せることがあったような気がした。先をゆく三井の後頭部を眼下に一段ずつを踏むのは、自分自身の心のうちを下るようだった。もう下る先のなくなった場所で言うだろう。うそだよ、けっこういる。かけてきていいよ、くだらねえことでも。



2023.05.28
三分間だけ電車に乗る洋三、非常口のこと

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