卵粥


「あかん、オレはもうしまいやで……。」と言うので手元の温度計を取り上げたら七度五分やった。
何を大袈裟な……。
「このくらいでお終いとか言ってたら、インフルエンザに掛かって八度以上出たらどないなるんですか。体温高い子どもやと四十度超えることあるらしいですよ。」
「お前なあ、今苦しんでるのはオレやぞ。」
「そやから、こないして食べるもんと水持って来てるんやないですか。」
手元の盆に乗ってるのは、芋の煮っ転がしの小鉢と、冷蔵庫にあった最後の卵で作った卵粥だ。
枕元には番茶の入ったポットがある。
せっかく作ったおかみさん直伝の粥の、何が悪いのか。兄弟子はずっと不服そうな顔をしていた。
「……そら、オレが寝付いたらお前が看病すんのは当たり前やろ。」
ああ言えばこう言う。
「まあ今日は仮病とはちゃうみたいですし、ええですけど。」と言いながら温度計を仕舞うと、「うっさいぞ、シーソー!」と病人らしからぬ声で噛みついて来る。
昔みたいにお粥いらんて言ってたら尻叩きますよ、と言おうとしたが、しょうもないことを言うて病のこの人がその気になったら困るなと思ったので口を閉じた。まあ七度五分でその気もないか……。

草若兄さんが、風邪を引いた。
どこでウイルスを貰って来たのかは知らないが、子どもに移すわけにもいかんから、看病は大人の役割や。
どこで、というより十中八九は日暮亭に違いない。
そうでなくとも、この時期は風邪だの子どもの看病だのなんだので落語家の出番が不安定になるわけで、日暮亭の出演者には変更がある場合がございますと書いたうえで、毎回ピンチヒッターも確保しておく必要があった。
まあ、だいたいそういうのに声が回って来るのは、草々兄さん門下の人間か、この暇をしてる兄弟子である。
前座の代わりに中入り後の代わり、トリの代わりまで務めるわけや。
上方落語三国志の柳眉やら尊建やらを聞きに来たお客でも、底抜けに起こされて底抜けにうるさい落語を底抜けに楽しんで帰ることが多いらしいが、まあ僕は客席にいないので実際に見ることは敵わない。(尊建の代打を頼むときのために若狭に作って貰ったというパン屋を経営する喜六と清八の話は、百円の卵のためにスーパーで列を作るくだりを百回聞かされたので面白いのかそうでないのか分からなくなって来た。)
その若狭は今では、三百六十五日の二十四時間体制、とまでは行かないが、日暮亭の運営でそれこそウイルスに近寄ってる暇がない。
草々兄さんが倒れても関西の落語家一人の話で済むが、若狭が倒れたら関西唯一の常打ち小屋――まあここまで経営が火の車では、別の小屋を開くところも現れない――の屋台骨が、ガタガタになるという寸法や。まあ逆に自分が倒れたら日暮亭が終わるちゅうのを、もう本人も自覚しているようで、一門の弟子に茶色い煮物の入った重箱を持たせて、草々兄さんからの使いの体で寄越して来た。
それが今日の小鉢の中に入っている芋だ。後はフキやら細い筍やらが入っていたが、そちらは子どもが物珍しさで食べて行ったので、残り物である。そのことに勘づいたわけでもないやろうが、兄弟子は不機嫌な顔を崩さない。

「今は卵粥やのうて梅粥がええし。」
まあ何か食う気はあるわけか。
兄弟子のだだのこねようを見てたら、あのコーンタックとかいうふざけた名前の風邪薬も僕が飲ませる必要がありそうな気がしてきた。
「したら、夜はそうします。」
「今食いたい。」
安ベッドの上で布団を口元まで引き上げて被っている男は言った。
ええから、さっさと食え、と言いたいが、それをストレートに言うと具合が悪いのがこの兄弟弟子の仲と言うやつだ。
ポットから煮出したほうじ茶を入れて差し出す。
「食べんと薬飲めへんでしょう。……さっさとそれ食べてしもてください。」
長袖のパジャマを洗濯して枕元に置いておく必要がある。
秋の日は釣瓶落としというが、今はほとんど冬で、しかもこの家には乾燥機がないのだ。
僕かて、洗濯とかすることがありますから、と言うと、兄弟子は不服そうに口を尖らせた。
「食べてる間は、ここに一緒に居りますから。とっとと薬飲んで、とっとと寝て、とっとと治してください。そうやないと、何も出来ませんよ。」
パジャマのボタンを外す代わりに伸びた前髪を引っ張ると、こちらが何を言いたいのかやっと分かったのか、渋々と言った体でスプーンを口に運んでいる。

……ほんまにしょうもない兄弟子や。

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