一から十まで



なんでここで洗濯しようとしてるんですか……と顔に似合わぬド派手な柄のパンツ片手に入って来た男に突っ込んだら負けのような気がした。
「ちゃんと身体を先に洗てから入ってくださいよ。」
「……オレかてそのくらい分かっとるわい。」
じゃあなんで今ちょっとギクッとした顔したんですか。
流れに負けてツッコミをしようかと思ったタイミングで、カポーーーンと黄色く小さな盥が床を打つ間抜けな音が、銭湯の高い天井に響いた。



「お前ら、もおええ。」
僕と小草若兄さんの文字通りの泥試合に割って入ったのは、師匠不在の吉田邸に稽古に来て空振りになった草原兄さんだった。
今時、この雪の降る時期に着物を外に着て行くのは、やせ我慢と洒落た格好が好きな物好きと決まっているらしい。
そもそもの師匠の不在を(おそらくはおかみさん経由で知って)僕の内弟子修行に難癖を付けにアホ面を下げてやって来た三番弟子は、学生のようなダッフルコートにマフラーで、草原兄さんもまた、そこらのおっさんのような冬の格好をしていた。
雪玉が当てたのは最悪だが、一張羅でなかったのが唯一の救いだ。

ちなみに、徒然亭の稽古場は板張りで、下に絨毯が敷いてあるでもないせいで、冬場の稽古は小さなストーブひとつがあったところで寒く厳しいものになる。
それが分かっている今日の師匠は、雪マークのついた天気予報を見た途端に、鼻水が氷柱になるで、と言ってさっさと朝の稽古を切り上げて、万葉亭柳宝師匠の昼の出番に合わせて、股引の二枚重ねで僕が着せた厚手のウールの着物と道行きで全館暖房でトイレもぬくい天狗座に逃げ込んで、袖から勉強した後で新地に飲みに行ってしまった。
怠惰な師匠のおかげで稽古の予定はキャンセルになるし、僕はいつまで経っても算段の平兵衛を覚えられないままだ。
内弟子部屋もまた、窓に網戸も入ってないような環境で、夏は暑く冬は寒く、この時節柄ひとり稽古をするには不向きだった。こんな場所で一心不乱に修行に打ち込めるのは、余程の鈍感か草々兄さんくらいだ。
実際、ほとんど寝るためだけの場所で、僕が持ち込んだストーブの利きも悪かった。
師匠が出掛けた後で折よく掛かって来た電話を取ったおかみさんは、そこまで買い物行って来るから、シノブは自分の好きなとこでお稽古していなさいと言って気を利かせて席を外してくれたので、僕は急な来客に備えて夜昼とストーブが付いている比較的暖かい座敷で稽古をしていたのである。今から考えれば、気を利かせてくれたというよりは、そのうちにやって来る誰かさんに豪華な夕飯を食べさせようとしている浮ついた素振りだったようにも思える。
せっかくくしゃみも鼻水とも無縁な場所で稽古が出来る稀な機会がやってきたというのに、いきなり家主不在の家に顔を出して、「雪積もってんのやから、今日は稽古止めて雪合戦するで!」と寿限無しか持ちネタのない兄弟子の強権で座敷から引っ張り出されて、子どもっぽいお遊びに付き合わされる羽目になったわけや。
稽古が苦手でいつまで経ってもうだつの上がらない新米のくせに、ほんま、こういう時だけはフットワークが軽い辺りが師匠の血というか……付き合わされたのが運の尽きというか。
焼けのヤンパチとはよく言ったもので、寒い日も稽古一筋とやって来た草原兄さんのもこもことしたコートには、どちらが放ったのか分からない雪玉の跡が見えることになった。
久しぶりに頭をしばかれて「お前ら、汗引いたらそのまま風邪引くから、とっとと銭湯行け。」である。
一人の入浴ならたった240円ぽっちのことだが、僕が子どもの頃よりは風呂代が上がっている。実際は毎日通っているが、この人が僕の生活を逐一見ているわけでもない。内弟子修行中で懐が苦しいので毎日は入れませんと言うと、これで二人で入って来いと言って、五百円玉を渡された。
所帯を持っていて苦しいはずだが、今日の草原兄さんはなぜか妙に太っ腹である。
とはいえ、この寒い日に芋を洗うような銭湯に入りに行くのも嫌だが、この兄弟子と一緒に風呂に入るなど本当に勘弁してほしい。
少し足せばセブンスターがひと箱買えるかとは思ったが、調子のいい兄弟子に、したら兄さんに甘えて二人で行ってきますわ、と言われて引っ張って来られてしまった。
なんとなれば元はこの家の子どもである。師匠が手ぬぐい一式を置いているところからひょいひょいと銭湯用のバケツと石鹸、垢すりみたいなもんを纏めてしまい、ほら行くでお前も準備せえ、である。
勉強のために書棚から本を借りて行くからと言うもう一人の兄弟子が見ている前では逃げることも難しく、そのまま一番近い――それゆえに最近はほとんど使っていない――銭湯に連行されてしまったわけだ。



案の定、兄弟子は、さっさとパンツの洗濯を終えて湯船に来たと思ったら、腰にタオルを巻いたまま浸かろうとして最悪だった。
「ここでパンツ洗って、帰りはどうするつもりですか?」
「師匠の股引借りて来たからそれ履いて帰るわ。」
「……ハア?」
「冗談やて。まあ帰りの道くらいなら何も履いてへんでも構わんやろ。」
どうにかなるて、と笑っている。
いつまで経ってもガキ過ぎる、とは思ったが、十四からこの世界に入った男が、どこでどう大人になれるというのかという気持ちもある。
「まあそれで帰るて言うならそれでもええですけど、おかみさんが一緒に飯食べるつもりやったらどないするんですか?」
「……ええ?」
「今日は師匠、外に飲みに行きましたし。」
「師匠、また新地に行かはったんか……?」
「はい。」と言うと、ハア、とでかいため息を吐いた。
「おかんのメシ食うまで待つならどうせ身体冷えるし、今日はお前のとこに泊めてくれ。」
「……ハァ?」
不穏なことを言い捨てて、僕の隣で肩まで湯に浸かった男は、ゆっくりと一から数字を数え始めた。

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