軍師天鬼、利土を描く



 天鬼は、ある絵巻物にいたく感銘を受けていた。
 『ドクタケ忍者隊』。稗田八方斎が城下でも指折りの絵師に描かせたもので、正義を重んじるドクタケ城とその平穏を脅かす悪の忍術学園との戦いを描いた一大絵巻である。
 勇猛果敢なドクタケ忍者隊が悪辣な忍術学園の策謀を打ち砕き、最後には八方斎が忍術学園長を相手に大立ち回りを演じる。八方斎の背丈が実物の二倍ほどになっていたり、一人で忍術学園教師十人を薙ぎ倒したりしているが、そのあたりは物語上の演出というものだろう。
「……素晴らしい」
「そうじゃろう!」
 最後まで読み終えた天鬼の前で、八方斎は得意満面に胸を張った。
「特にここじゃ。わしが忍術学園の罠を一目で見破り──」
「この内容を、もっと短い読み物にして市井に広めてはいかがでしょうか」
「今わしが話しておるんだがなー」
「忍術学園がいかに危険な組織か広く知られれば、依頼を出す勢力も減るでしょう。周辺の村から協力を得ることも難しくなる。直接兵力を割かずに敵の力を削げます」
「……ふむ」
 八方斎は話を遮られたことを忘れて考え込んだ。
 悪くない。
「では、この絵巻を大量に作るのか」
「いえ。これほど立派なものでなくて構いません。頁数を減らし、誰でも手に取りやすい形にして、まず千部ほど──」
「天鬼」
「はい」
「ドクタケ城にも予算というものがある」
「……そうですか」
「この絵師、ものすごく高かったんじゃ」
「左様かと」
 軍師である天鬼は、ドクタケ城の懐事情も把握している。
 しばし考えた末に、天鬼は言った。
「──ならば、私が描きましょう」
「お前が?」
「作戦図も描きますので、多少は絵心もあります」
「人物も描けるのか?」
「……おそらく」
 その「おそらく」がすべての始まりだった。


 ***


 十日後。天鬼作『正義のドクタケ忍者隊 悪の忍術学園を討つ』は完成した。
 表紙には、刀を構えて堂々と立つ八方斎。その後ろには精鋭ドクタケ忍者隊、足元には敗北した忍術学園教師たち。八方斎の左手の指が六本あったり、忍術学園教師の一人はあらぬ方向に腕が曲がっていたりするが、天鬼は「初めてにしては上出来だ」と思っていた。ちゃんと巷の絵師にもいろはを聞いて原稿を作り、タチキリだの見開きだのにも配慮した。城下の貸本屋や物売りへ頼んで置いてもらい、民草の反応を待つことにした。
 一日目。
 零冊。
 三日目。
 零冊。
 五日目。
 零冊。
 七日目に一冊だけなくなっており、天鬼は密かに喜んだが、翌朝城下の露店で大根を包む紙として再会した。
「…………」
 十日目の昼下がり。天鬼は城内の縁側に座り、売れ残った冊子を膝に積んでしょんぼりしていた。
 本人はいつもの仏頂面をしているつもりだったが、肩がわずかに落ちているので見る者が見れば分かる。
「天鬼様?」
 そこへ通りかかったのは、城で下働きをしている女中だった。女中の中でもベテランで、天鬼にも気さくに話しかけてくる豪胆な女中だ。
「どうなさいました?」
「何でもない」
「何でもない方は、御本を抱えてそんな顔をなさいませんよ」
「そんな顔とは何だ」
「拾われなかった犬のような」
「犬ではない。軍師だ」
「存じております」
 女中は天鬼の隣に腰を下ろした。
「その御本、天鬼様がお描きになったんですか?」
「そうだ。一冊も売れなかったが」
「……少し拝見しても?」
「構わん」
 女中は一冊を取り、ぱらぱらと頁をめくった。
「…………」
「どうだ」
「天鬼様」
「何だ」
「この方はどなたです?」
「八方斎様だ」
「では、こちらは?」
「八方斎様だ」
「こちらも?」
「後ろから見た八方斎様だ」
「顔がありますけど」
「振り向いている」
「首が真後ろまで回っています」
 天鬼は本を奪うように戻し、問題の絵を見た。
「……人体については今後研究する」
「それがよろしいかと」
「……少々絵が拙い程度で一冊も売れないものか……」
「そうですね、売れない一番の理由はそこではないと思います。天鬼様は絵師として知られていませんから」
「というと」
「どれほど中身がよくても、誰が描いたのか分からない本をいきなり買ってくださる方はそう多くありません。まずは固定の読者をつけて知名度を上げるところから始めた方がよろしいかと」
 天鬼は真面目に聞いていた。確かに言われてみればそうかもしれない。いかに民衆向けとは言え、本はあくまでも嗜好品だ。
「どうすればいい」
「二次創作です」
「……にじそうさく?」
 知らない兵法である。いや、忍術であろうか。
「すでに人気のある人物を題材にして、別のお話を描くんです。その人物のファンに読んでもらって、まず天鬼様の絵そのものを知っていただくんですよ」
「他人を勝手に描いて?」
「はい」
「よいのか?」
「そのあたりは皆、薄目で見ております」
「そういうものか……」
「そういうものです」
 女中の返答には妙な確信があった。
 天鬼は少し考える。
「しかし私は、見ての通り絵師ほど上手くはない」
「だからこそです。失礼ながら天鬼様は、まだまだ発展途上の画力でいらっしゃいます」
「ずいぶん率直だな」
「率直に言ってよいと仰ったので」
「言っていないが」
「あら」
「まあいい。それで?」
「プロ絵師並みの画力でないなら、まずは人気のカップリングを描いてみるのがよろしいかと」
「かっぷりんぐ?」
「二人組です」
「組手か」
「主に恋愛の組み合わせを指す南蛮語です」
「何故二人組をわざわざ南蛮語にする」
「そういう文化ですので」
 女中は懐から、一枚の折り畳んだ紙を取り出した。
「今ですと、このあたりが人気ですね」
「何故そんなものを常に持っている?」
「嗜みですから」
 開かれた紙には、いくつもの人名が順位付きで書かれていた。天鬼はそれを上から順に眺める。
「……これは忍術学園の生徒ではないのか」
「はい」
「これも」
「そうですね」
「これも子供だろう」
「ええ」
 天鬼は眉間に皺を寄せた。
 名前こそ資料で見かけたことがあるが、どれも顔も知らない子供だ。
 知らないはずなのに──。
「何か……ものすごく嫌な感じがする」
「どの辺りが?」
「子供を題材にするのはよくないような……」
 自分でも意味が分からないが、胸の奥のどこかが猛烈に拒否している。
「私はこれは描きたくない」
「では避けましょう。解釈違いも描き手のスタンスもあるものです」
 女中はあっさり答えた。
「二次創作は楽しく描いてなんぼですから」
「そうなのか」
「そうです」
 下へ目を滑らせるうち、天鬼の指が一つの名前で止まった。
 ──山田利吉×土井半助。
「……これは?」
「ああ、利土ですね」
「りど」
「山田利吉と土井半助です」
 知らない。
 どちらも知らないはずなのだが、こちらには先ほどのような拒絶感がない。
 むしろ──。
「……これなら問題ない気がする」
「よろしいと思います。そのカプなら二人とも成人年齢ですし、同人初心者的にも安全ですね」
「何が安全なのだ」
「色々です」
「色々で済ませるな」
「長くなりますので」
 天鬼は納得しきれないまま、もう一度名前を見る。
「この二人は恋仲なのか?」
「いいえ」
「なら何故恋愛物になる」
「そこを恋愛にするのが二次創作ですので」
「本人たちが知らないところで?」
「はい」
「恐ろしい文化だな……」
「楽しいですよ」
 天鬼は女中を見た。
「……お前、詳しいな」
「昔ちょっと」
「むしろお前も描けるのなら、お前に頼むのも手か」
 女中は目を逸らした。
「私はショタ専でして……」
「しょたせん?」
「いえ、こちらの話です」
 そう言いながら、女中の懐から紙束の端が覗いた。
 端には、達者な筆致で描かれた少年の横顔が見える。
「それは何だ」
「何でもありません」
「原稿では?」
「何でもありません。天鬼様は利土を頑張ってくださいませ」
 話を打ち切るように女中は立ち上がった。
「まずは短い話を一本。顔だけでなく身体も描いてくださいね」
「身体」
「はい。恋愛物は距離感が大事ですから」
「距離感」
「資料を見ながら描くとよろしいかと」
「なるほど」
 天鬼は真剣に頷いた。
 それが、二つ目の始まりだった。


***


「利鬼」
「はい」
 その夜。利鬼と呼ばれた忍は、乞われるままに天鬼の私室へ入った。
 利鬼──もちろん本名ではない。本当の名は山田利吉。フリーの忍者であり、忍術学園教師・山田伝蔵の一人息子である。
 そして目の前にいる天鬼こそ、記憶を失った土井半助である。利吉は土井がドクタケの軍師として登用されたと知り、彼を取り戻すため城内へ潜入していた。利鬼という名もそのために用意した偽名である。
 天鬼の警戒心は強い。正体を悟られず、その懐へ入り込み、城外へ連れ出す機会を作らねばならない。だからこうして本人から私室に呼ばれること自体は、利吉にとって歓迎すべきことだった。
「天鬼殿。何か御用でしょうか」
「うむ。お前に手伝ってほしいことがある」
 利吉は内心で身構えた。
 軍略に関わる仕事か。あるいは、天鬼が自分個人に何か任せようとしているのか。どちらにせよ、信頼を得るには好都合だ。
「何なりと」
「利土の二次創作というものを描いてみることになった」
「なんて?」
 利吉は聞き返した。
「利土だ」
「そこから分かりません」
「山田利吉と土井半助を恋仲にする」
「…………」
 忍者は、いかなる状況でも動揺を顔に出してはならない。
 父から幼い頃より叩き込まれてきた基本中の基本である。──利吉は今、その真価を試されていた。
「……もう一度、最初からお願いできますか」
「利土の二次創作を描く」
 聞き間違いじゃなかった。
「山田利吉、というのは……」
「若いフリーの忍者らしい」
「へえ」
 私です。
「土井半助、というのは」
「忍術学園の教師だそうだ」
「はあ」
 あなたです。
「二人は昔から親しいらしい」
「そうなんですか」
 知っています。
「ただし実際には恋仲ではない」
「……そうでしょうね」
 少なくとも利吉の知る限りは。
 利吉は一方的に土井のことが好きだった。幼い頃には兄のように慕っていた。それがいつから別のものに変わったのか、自分でもよく分からない。ただ、土井が自分を昔と変わらず弟のように扱うたびに少しだけ寂しく感じるようになった頃には、もう後戻りできなかった。
 当然、本人には言っていない。
 それを今──本人から。なんだって?
「この山田利吉が土井半助を好き、という設定で描けばよいらしい」
「誰が決めたんです、それ」
「市井の者たちだ」
「市井の者たちは何をしているんですか」
「二次創作だ」
「そうですか……」
 利吉は頭が痛くなってきた。
「それで、利鬼」
「はい」
「お前には助手をしてもらう」
「私が?」
「お前は山田利吉と歳格好が近い」
 近いどころか本人ですから。
「身体を描く参考にちょうどいい」
「…………」
「まず、この構図なのだが──」
 天鬼が紙を広げた。
 一人の男が、もう一人の男を壁際へ追い詰めている。……らしい。しかし追い詰めている側は片腕が異様に長く、追い詰められた側は肩から腕が二本生えている。利吉はしばらく絵を眺めた。
「怖いですね」
「恋愛物だぞ」
「怪談に見えますが」
「女中にも似たようなことを言われた」
「そうでしょう」
「……では、どうすればいい」
 天鬼が筆を差し出してくるので、利吉は仕方なく受け取る。
「壁へ手をつくなら、肩はこうでしょう。身体は少し斜めに入ります」
「何故?」
「相手に近づくからです」
「好きなのであれば正面から近づけばいいではないか」
「正面から近づいたら顔が描きにくいじゃないですか」
「なるほど」
 天鬼は素直に頷いた。
「それに、こういう場面なら相手は少し身を引くかと」
「何故?」
「近いからです」
「好きなのに?」
「好きだからでは」
 答えてから、利吉は嫌な沈黙を感じた。
 天鬼がこちらを見ている。
「詳しいな」
「一般論です」
 本当は詳しくなどない。
「では実演してくれ」
「嫌です」
「何故だ」
「何故だと思いますか」
「……分からん」
 天鬼本当に分かっていない顔をしていて、利吉は額に手を当てた。ただでさえこの男と二人きりになると調子が狂うのだ。顔も声も土井半助そのものなのに、自分を見る目だけが違う。土井は利吉を見るとき、いつもどこか昔からの親しみを滲ませていた。幼い頃に自分の後ろをついて歩いた子供を見るような柔らかな目だった。けれども天鬼は違う。彼は利鬼という一人の男として自分を見ている。その視線に利吉は時折妙に落ち着かない気持ちになる。それなのに恋愛場面の実演など──冗談ではない。
「……一度だけですよ」
 けれども結局受けてしまう。こういうところが自分でも嫌だ。
「うむ」
「天鬼殿はそこに立ってください」
 天鬼は壁際へ移動した。
「私が山田利吉役。天鬼殿が土井半助役ということで」
「分かった」
 本人が本人の役をしているなどと一体どういう話だと思いつつ、利吉は天鬼の顔の横へ手をついた。
 思っていたより近い。
「……このくらいで如何ですか」
「…………」
「天鬼殿?」
 天鬼は黙っている。
 利吉もつられて黙った。──近い。
 通った鼻梁も伏せられた睫毛も、昔から見慣れているはずなのに、こんな距離でまじまじと見てしまっては相手の息遣いまで分かる。利吉の鼓動が一つ、大きく鳴った。
 これくらい、忍務なら何でもない筈だ。敵と組み合うこともある。色忍務であれば見知らぬ者と口吸いくらいのことはする。それなのに今は、天鬼の顔が近いというだけで息の仕方まで分からなくなってしまっている。
 土井先生だから──いや。天鬼だから?
 そこまで考えて、利吉は自分で自分に腹が立った。
「……なるほど」
 天鬼が小さく呟いた。
「これは、少し落ち着かんな」
 利吉の胸が、また大きく鳴った。
「……でしょう?」
「うむ。だから土井半助は身を引くのか」
「おそらく」
「では、山田利吉はこのあとどうする」
「知りませんよ」
「本人のつもりで考えろ」
 言われなくとも本人である。
「好きなのだろう?」
「……設定上は」
「なら、何をする?」
「私に聞かないでください」
「お前ならどうする」
 真正面から問われてしまった。
 利吉は天鬼を見る。もし本当に──自分が土井を壁際へ追い詰め、ここまで近づくことを許されたなら。
 その先を一度も想像したことがないと言えば嘘になる。ただ想像の中ですら土井はいつも困ったように笑って、自分を昔と同じ弟分として扱った。けれども今、目の前にいる天鬼にはその記憶がない。
「……天鬼殿」
「何だ」
「これは作画用の資料ですよね?」
「そうだ」
「でしたら、このくらいでは」
 ほんの少しだけ、顔を寄せる。
 天鬼が退かなかったので、予想していた以上に距離が縮まった。鼻先が触れそうなほどの近さ。天鬼の瞳に自分が映っている。
 ──まずい。
 利吉はすぐに後悔した。自分から近づいておいてなんだが、これはまずい。心臓がうるさく騒いで、気づかれるのではないかと思うほどだった。
「……近すぎないか」
「恋愛物なのでしょう?」
「そうだが」
「なら、このくらいではないですか」
「お前、本当に詳しいな」
「天鬼殿よりは」
 嘘だ。ただ、この人相手なら想像できてしまっただけだ。
 天鬼はしばらく利吉の顔を見つめ、それから小さく頷いた。
「分かった。では、そのままでいろ」
「はい?」
「描く」
「誰がです?」
「私が」
「この状態でどうやって?」
 二人揃って机を見る。
 筆は遠い。
「利鬼」
「はい」
「筆を取ってくれ」
「離れますよ?」
「……駄目だ」
「何故です?」
「構図が変わる」
「では、他の者を呼んできて土井半助役をやらせればいいではないですか」
 利吉はそう提案した。
 本当は嫌だ。知らない男を相手に好き好んでこんなことをしたいわけではない。だが今の生殺しよりはましだ。
 この顔を目の前にしながら、本人から「好きなら次は何をする」などとと聞かれ続けるより、何とも思っていない相手を壁際へ追い詰める方が利吉からすればよほど気が楽である。
「私がその者に同じようにすれば、天鬼殿は離れたところから好きに描けるでしょう。その方が効率も──」
「嫌だ」
 即答された。
「……はい?」
「それは駄目だ」
「どうしてです」
 天鬼は黙った。
 本人にも分からないらしい。
 しばらく眉間に皺を寄せて考え、やがて不機嫌そうに言った。
「お前が他の者に、今と同じことをするのだろう」
「資料ですからね」
「そうだが……」
「何か問題があります?」
「…………」
 天鬼の眉間の皺がさらに深くなった。
「想像すると腹が立つ」
 利吉は固まった。
「……何故です?」
「知らん」
「知らんて」
「知らんが、嫌なものは嫌だ」
 言いながら、天鬼は利吉の袖を掴んだ。否、そもそもそれまでずっと掴んでいたことに本人は気づいていないようだった。利吉は何も言えなくなる。
 ──期待してはいけない。
 天鬼自身、理由が分からないと言っている。自分の部下が他人と妙なことをするのが面白くないだけかもしれない。分かっている──分かっているのだが。
 自分が誰かと親密な距離を取ることを、この人は嫌だと言った。それだけで頬が熱くなる自分がどうにも情けない。
「……利鬼」
「はい」
「何故顔を逸らすんだ」
「何でもありません」
「赤いぞ」
「暑いんです」
「今夜はむしろ涼しいが」
「黙っててください」
 部下として忍者としてあるまじき返答だ。天鬼が不思議そうに利吉を見る。その顔を見たらますます心臓に悪く感じて、利吉は壁の方を向いたままでいた。
「……では、どうするんだ」
「何がです?」
「資料作成。原稿」
「もう今日は諦めたら如何ですか」
「嫌だ」
「妙なところで粘りますね……」
「軍師たるもの、一度始めた策を途中で投げ出すわけにはいかん」
「二次創作でしょう?」
「二次創作でもだ」
 利吉は長く息を吐いた。
「……では、もう少しだけこうしていますから」
「うむ」
「ちゃんと覚えてください」
「善処する」
「覚える気ありませんよね?」
「ある」
 天鬼は真顔で答える。袖を掴んだ手はまだ離れておらず、利吉はそれに気づいたけれど指摘はしなかった。
 もう一度、天鬼の横へ手をつく。先ほどと同じ距離のはずなのに今度はもっと近く感じる。天鬼も妙に静かで、この調子では原稿などいつまで経っても完成しないのではないかと利吉は思った。
 それに自分は土井先生を取り戻すためにこの城へ来たはずなのに、記憶を失った彼が自分だけを見ている。それを嬉しいと思い始めている自分がいる。これは本当に──よろしくないのではないだろうか。
 結局その夜、『山田利吉×土井半助』の原稿は、一頁も進まなかった。

 なお同じ頃、城の女中部屋では──。
「……待ってこれむしろ一次創作じゃない?」
 かつて壁際に長蛇の列を作った女中が、誰にも知られぬままハッとしたように呟いていた。

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