夕焼け


向かいの定食屋が、そろそろ飲み屋に変わろうかという時間帯だった。
烏の鳴く声を聴きながら、そろそろ帰るか、と口にして、どこへ、という気持ちになる。
あの部屋にはまだ、平兵衛がいる。
それでも空っぽになった、と玄関のドアを開けるたびに思う。
朴念仁だった兄弟子が恋愛にうつつを抜かすことを覚え、ただの妹弟子だった女に向かってお前がいない部屋でお前の繕った座布団なんか見たくないんじゃ、と声を荒げている姿を見たときは、よくまあそこまで女に入れあげられるものだと他人事のように思っていたが、自分も気が付いたら底抜けの地獄のような気持ちを味わっている。

いつも、いつか出て行くだろうという兆候は感じていた。
線路沿いにあって、電車の行き交う騒音がいつまでも途切れない西向きの安アパートの一室は、冬は寒く、夏は暑苦しい。ただそこにいるだけで心が落ち着いてくる草若邸とは、あまりにも違っていた。
むしろ、格好付けたがりのあの人がこの部屋に留まっていることが不思議だと、そんなことをずっと考えていた自分には、どう逆立ちしてもあんな風に引き留めることは出来なかった。
毎日、毎日、身が入るはずもない稽古を口実に師匠の家に通い、こちらと同じ目論見を腹に抱えているらしい様子の草原兄さんと共に崇徳院の稽古をしている。一門を再結成したばかりの頃ですら、金の工面がままならずにアルバイトを続けていたので、こんなに稽古に身を削ったのは、あの幻の一門会以来のことだ。
それなのに、噺が上手くなるどころか、逆に師匠の落語からは遠ざかっているような心地すらする。

油断したら出て来るため息を封印したいような気持ちで、衝動的に買い求めた煙草をポケットから出して火をつける。
気付かないうちに多少の値上がりがあった煙草を唇に寄せると、いたずらに金を燃やしているような気持になってきた。
「行くところなんかないくせに、」
それでも、小草若兄さんが見つかって一番に連絡が入るのはここだろう。
実家。
いや、かつて実家だった場所、か。
失踪した兄弟子の携帯電話は、解約してはいないまでもずっと電源が入っていない状態で、どこをふらふらしているのかも分からない。
もし電話が通じたら、僕はあの人に帰って来てください、と言えるだろうか。
そんな風に考えながら、日暮れの縁側で煙を吐いていると、隣に体積の大きないつもの気配を感じた。
左に身体を寄せて場所を開けると、すまんな、と言って兄弟子は隙間に座った。
「今日から止めます、やなかったんか?」
からかうようなその言葉に、舌打ちしたいような心地になりながら「……明日から止めます。」とおざなりに返事をする。
「お前も、堪えてんのやな。」という言葉に、それなりに、という返事をするのも癪で、頷いて煙草を吹かすにとどめた。
「兄さん帰らへんのですか?」
「緑と草太が久しぶりに昼から服買いに出掛けるって言ってたからな。」と兄弟子は言った。
草若師匠が亡くなって以来、天狗芸能のマネージャーを通じて、徒然亭一門の面々には、師匠の追悼番組への出演要請が度重なることになった。勿論、かつてのように全員で出演できるような番組はほとんどない。テレビ局側がターゲットにしたのは、実子である小草若兄さんだが、本人がもうテレビは懲り懲りやと言って辞退したせいで、代わりに主だった仕事を草原兄さんが引き受けることになったのだ。そのせいで草原兄さんの懐が潤い、景気が良くなったというのは、皆が感じていたことだった。
テレビ出演のために草原兄さんのいつものベストとスラックスが先に新しくなって、今ようやく、家族の順番が回って来たというところだろう。
かつての師匠と女将さんとはどうだったのだろう、とふと思った。そして、小草若兄さんは――。
「……お前も、ほんまは小草若からの連絡待ってんのやろ?」
物思いを遮るような草原兄さんの言葉に「そんなんじゃないです。」と返事を返す。
「隠さんでええて。……妹弟子の味方をするええ兄ちゃんになったな。師匠と女将さんも感無量やろ。」
感慨深げな声でそう言われ、反射的に煙草で口に蓋をする。
そんな訳ないでしょう、と反論したところで、次にどんな言葉を続けることが出来るというのか。
「おい四草、お前夕飯食べていくつもりか?」
「そうですねぇ……。四草兄さん、準備するから久しぶりに食べてってください。」
こんな日くらい、顔を見ないでいたかった。
師匠の弟子の中でも頭がひとつ抜けた落語馬鹿と、その馬鹿と所帯を持った妹弟子を見ていると、庇を貸して母屋を取られた形で家を譲った挙句に姿をくらませた底抜けにあほな兄弟子が、いつも世間のどこにも居場所がないような顔をしていたことを思い出してしまう。
目の前のとぼけた顔をしている女と男にも腹は立つが、一番許すことが出来ないのは、居場所をなくしたと思っていた男に、ここがあんたの居場所でしょうとはっきり伝えられなかった自分にだ。
「帰る。」とポケットから携帯用の灰皿を出して火を消して立ち上がった。
指先に灯した小さな火は、道しるべにさえならない。
「オレも帰るわ。」と隣で草原兄さんが言った。
「また明日来ます。」と背を向けたまま挨拶をすると、「おう、来いよ、四草。待ってるからな。」と声を掛けられる。
師匠が生きていた頃であれば、許されなかった不躾だった。
気遣う相手が違うでしょう。不用意に口を開けば、そんな腹のうちをぶちまけてしまうような気がして、ただ手を振った。
門を出ると、沈んでいくオレンジ色の光が目を刺した。
「綺麗な夕焼けやな。」と兄弟子が言うのに「そうですね。」と相槌を打つ。

――割れても末に逢わんとぞ思う、か。

崇徳院の台詞がふと頭をかすめる。
あの人は今、どこでどんな夕焼けを見ているのだろう。

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