師匠からのお題『花を摘みに行く2人』
花を摘みに行きたいと言うので、ミスラは仕方なしに彼を連れて行った。北の国にも花は咲くが、時期が限られる。温暖な気候の南の国へ、ミスラは甲斐甲斐しくとも魔法の扉を開いてやった。
「わぁ……!」
二人の足が踏み入ったのは、見渡す限りの花畑だった。以前に任務で知った場所。来訪するのは二度目なのに、まるでまた初めて見たかのように晶は感嘆する。
風がそよぐだけでみずみずしい花の香りが二人を包み、花弁が揺れて優しく脛へ触れた。抜けるような青空のたもと、眩しい春の陽光に輝いた色彩が波をえがく。晶は両手を広げて、思い切り深呼吸する。頭頂部の髪がふわふわと揺れる様をミスラはぼんやりと眺めた。あくびが出そうになるほど平和な景色だ。北の魔法使いにとって非日常なほど。晶は振り返って、それこそ満開の笑顔を見せた。
「ありがとうございます、ミスラ! これで大きな花束が用意出来ます」
高等魔法にもうすっかり慣れて、〝ミスラのアルシム〟なんて揶揄するのに、彼は律儀に魔法使いへ礼を言う。そういうところがミスラの胸を羽根で撫でるがごとくくすぐる。いつもの魔法使いならば高い鼻梁を持ち上げて得意げになるところだったが、口端は下がったまま。晶はその表情にほんの少しだけ眉尻を下げ、しかしそれでも自分のせいだからと受け入れる。無理にお願いを押し通したのは晶だった。ミスラは己の師の墓標へ足を運ぶのはなんとはなしに気乗りしないようだったから。
供える花を選ぶべく、早速晶はしゃがみ込む。顔も知らない魔女の為、その息子たちやミスラから聞き齧った話を頭に思い浮かべた。奔放なほど自由で、花のように咲う人。清廉とした白の花弁に指を伸ばしかけ、隣の優しい桃色へ触れる。目の前に乱れる青い小花も美しい。足元にはスミレと思わしき紫の花もあり、晶の指は虚空を行ったり来たり。摘み取ろうとしても茎をいたずらに撫でるだけに終わり、しばらく時が過ぎた。
ミスラのいかにも退屈そうな気配が漂ってきて、晶の背に受ける陽射しが突然熱くなる。牧歌的な光は辺りを輝かせ、まばゆく晶の瞳を刺す。迷った指は、晶の後悔を徐々に浮かび上がらせていた。好む花の色さえも知らないのに、静かに眠る彼女へ挨拶なんておこがましかったのではないか。わざわざ連れてきてもらったのに、途端に魔法舎へ帰りたくなってきた。光の中で花はただ無言で晶を見返す。天頂からため息が降ってきて、晶は長身を見上げた。屈んで仰ぐ男の顔は影になって判別できない。晶は目を細めた。
「何、迷ってるんです」
呆れたような声色。気まぐれな彼がまだこの場に立っている。ただそれだけで晶の意思を尊重してくれているのは分かる。しかし、責められている気がした。彼は時々鏡みたいに、晶の心の色をそのまま跳ね返す。
「……会ったこともない、好きな花も知らない俺が挨拶していいのかなぁって思っちゃって」
「はあ。あなたが花を持って行きたいと言うから扉を開けてやったんですよ」
「そうですよね、すみません。そもそもミスラは挨拶なんて要らないって始めから言ってたのに」
手のひらに何も持たずに晶は立ち上がった。脚が痺れてジンとする。ミスラに申し訳ないがやはりまた頭を下げて、魔法舎へとんぼ返りさせてもらおうかと晶は思った。ただ振り回されただけの彼は更に呆れるだろう。
「桃色かな」
ぽつりとこぼれた言葉へ晶は振り仰いだ。彼は目線を下げて足元に広がる花々を眺めていた。
「桃色?」
「確か、珍しくチレッタが髪に花を飾ってることがあって。色は桃色だったような……」
前髪の影の中、エメラルドが過去を泳いで揺れる。ミスラは小首を傾げ、長い腕を持て余すみたいに組んだ。
「なんだったかな。男に貰ったとか自慢された気がします。ああ、そうだ。それから男の話が増えたんですよ。聞けってとにかくうるさくて、鬱陶しかったな」
「それって……ルチルとミチルのお父さん……ですか?」
「さあ」
興味なさげにミスラは花々を見下ろした。これ以上尋ねても仔細は本当に覚えていないのだろう。山からの爽やかな風が吹き抜けて、花畑へ風波が滑る。晶の頬を涼しさが包んだ。ミスラはいつもの眠たげな目を晶へ戻す。陽光で長いまつ毛の影が下りていた。
「……早く摘んだらどうですか?」
「あ……そうですね」
やはりここまで来たら当初の予定通り行動するのがいいのだろうか。晶は再び屈み、桃色を選んで一本摘んだ。柔らかな茎はそっと晶へ身を委ねる。桃色といっても数多あり、目端に映ったそれぞれに手を伸ばしいつの間にか晶の左手はいっぱいになる。花の絨毯はどこまでも続くようで、いくら摘み取っても色を失うことはなかった。
腕がずっしりと重くなり、そろそろと晶が立ち上がる。ふと花束がひとりでに手を離れた。詠唱もなくミスラの翠の視線だけで浮き上がり、どこからともなく現れた白いリボンがくるりと一周する。準備の良さに晶の両目がぱちくりと瞬く。晶の視線から逃れるように魔法使いは広い背を向けた。その長い腕の中には可愛らしくまとまった花束が抱かれている。
「あの、」
「ほら、次は挨拶しに行くんでしょう。北の魔法使い相手へ気軽に扉を開けさせるんだから、ちゃんとしっかりついて来てくださいよ」
今にも呪文を唱えそうな男の白衣がふわりと風をはらむ。浮かんだ裾を晶は慌てて掴んだ。
「ミスラ、俺、チレッタさんに挨拶していいでしょうか?」
思わず尋ねた言葉はずっと喉の奥でつかえていたことだと、晶は吐き出して気づいた。
(あ……)
息を詰めて見つめた赤毛の襟足、その下がほのかに赤らんでいるようにも見える。ずっと、照れていたんだろうか。気乗りしない素ぶりをして隠していた。
「ミスラ、もしかして」
「今度は俺が、チレッタにうんざりさせるほど聞かせるのもいいかなって思ったんですよ」
見慣れた荘厳な扉が現れる。音を立てて開いた扉の向こう側、緑に覆われた丘が見えた。振り返った男と目が合って、晶の両頬が持ち上がる。晶の小さな憂いを風が攫う。
二人の姿はいつの間にか消え、花畑は再び静かな風へ撫でられるだけになった。
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