手放す
「土地家屋か……。」と草原兄さんが口火を切ると、縁側に並んだままで、皆、また押し黙ってしまった。
あれだけ話合ったというのに、常打ち小屋の話は、また振り出しに戻ってしまった。
「せっかく紋付袴まで着たのに、無駄になってしまいましたね。」
悩んだ末に、かつての師匠のように紋付袴で鞍馬会長に挨拶に行くことを決めた小草若兄さんの着付けの手伝いをしたのは四草兄さんで、確かに文句のひとつも言いたい気持ちは分からないでもない。
「うっさいわい、四草。」と言って、小草若兄さんは四草兄さんの頭を叩いた。
「やっぱり、全員羽織袴で行くべきやったんか?」と草々兄さんが言うと、「それは仰々しいし、今日は小草若が草若を継ぐって話を会長に見せる機会なんや、て全員で決めたやないか。」と草原兄さんが言った。
鞍馬会長への挨拶から戻って来て早々、草若邸の広間に上がることもせず、兄さんらぁは、ぼんやりと庭を見つめていた。
いくら常打ち小屋が上方落語界の悲願やて言うたかて、ここは小草若兄さんの持ち物であって、草若師匠の襲名と同じように考えることが出来ない話やということは皆分かっている。
「今から、ご飯の準備しますけど、兄さんらぁ、どうされます。」
「俺は、緑がメシ作って家で待ってるから。」と草原兄さんはぐるりと肩を回した。
鞍馬会長の前に立つと、肩、凝りますよねえ……。
私も、今朝から全然お腹が空かなくて……。
「スーツ汚したないから、一旦平兵衛に餌やりに戻る。草若兄さんは、どないします?」
小草若兄さんは、四草兄さんにそない呼ばれて頭を掻いた。
「あーー。」と疲れた時のいつもの掠れ声になっている。
そうやった、もう師匠の草若って名前は、小草若兄さんのものなんや。
ちょっと寂しいけど、私も今から名前呼ぶのに慣れておかないと。
「あの、草若兄さん。どっちにしろ、二階で着替えてからですよね。草若兄さんの分だけならご飯も足りてますけど、どないします?」
「オレは、……紋付着替えてからちょっとオヤジと話すわ。」
「えっ……!? まさか草若兄さん、そんな丹波哲郎みたいなことが出来るんですか? 私にも師匠の声、聞かせてください! 小草々くんのことも師匠にお願いしたいですし!」と身を乗り出すと、帰り支度をしていた隣の草原兄さんが、ぶは、と吹き出した。
「ちゃうて、若狭……オレにそんな能力ホンマにあったら、まだテレビに出てるわ。」
草若兄さんがくたびれた顔に笑顔を浮かべて返事をしている隣で、四草兄さんも俯いて拳で震える顔を隠してる。
顔を上げ、真面目な顔をしているのは、草々兄さんだけだ。
ええ~~~。
「……今のって、もしかして笑うとこですか?」と言うと、草々兄さんが隣で(ちゃうんか?)という顔をして、草若兄さんは「笑うとこっていうか、……なあ。」と言葉を濁している。そこに草原兄さんが止めの一撃。
「皆若狭がおもろいから笑ってんのと違うか?」と言う言葉に、がっくりと肩が落ちる。
――喜代美ぃ、お前はほんまにおもろい子ぉや……。
おじいちゃん……何もこんな時に出て来んでも……。
小草々くんが今台所に行っててほんま良かった。
「おかみさん、すいません……。」
「ひいっ!」
私の背後には、もうスーツを脱いでエプロン姿になったいつもの小草々くんの姿があった。
「小草々くん!」
まさか……。
「僕も聞いてませんでした。」と草々兄さんの一番弟子は、お茶の入ったお盆を片手に、残念無念、と言った体でもう片方の手を挙げている。
「あ、聞いてたってことね。」
「皆、ここで一服しよか。」
草原兄さんの合いの手が入り、小草々くんの淹れたお茶で休憩を入れている様子を見ていると、草若兄さんが思い出したように顔を上げた。
「若狭、夕飯なあ、今朝炊いてんのあるなら、悪いけど米だけ四草に持たせたってくれるか? 塩むすびでもタッパーに詰めるのでもどっちでもええから。」
「あ、四草兄さんとこでふたりで食べるんですね。分かりました。朝ご飯に作ったおかず、緊張して食べ切れんかったのもあるでぇ、良ければ一緒に持って行ってください。」と言うと、草若兄さんはどこか変な顔をした。
「若狭、夕飯何にするつもりや? 冷蔵庫の材料で足りるんか?」と草々兄さんが言った。
「そうですねぇ。お豆腐と練り物ならありますし、お鍋にしようかな。かつお出汁とお野菜で間に合いそうですし。どうですか?」
「若狭も疲れてるやろ。無理せんと、もう寝床でええんちゃうか?」と草若兄さんが言った。
「そんなお鍋作るくらいで、無理なことなんか。」
「寝床ならオレもちょっと引っ掛けて帰ろかな。」と草原兄さんが徳利片手におちょこを傾ける仕草をする。
「えっ 草原兄さん、緑姉さんのご飯はええんですか?」
「緑には、今日はいつまで掛かるか分からへんて元々言うてあるし、今から連絡したら、うん、オレの分は冷蔵庫に仕舞って、草太とふたりで先に食べててくれる。」と時計を見ている。
「それに、いつもの稽古着の浴衣ならともかく、今日は普通に着付けてあんのやろ。帯解いて着替えてからメシ作ることほど面倒な気持ちになることはないて、緑も言ってたで。」
「僕も寝床でええと思います。」と四草兄さんと片手を挙げた。
無表情やのに、なんかさっきより乗り気な顔してる気ぃするんですけど。
皆尻馬に乗るのが上手いというか……寝床、好きなんですね。
そら、内弟子修行を入れると十数年の私の料理より、熊五郎さんの料理の方がずっと美味しいですさけ、しゃあないわな。
「ちなみに、四草兄さん、今日お金あるんですか?」と言って微妙に視線逸らしてんのが気になるけど。
「借りたタッパー、洗ってここに返しに来るのも面倒やからな。……まあ今日みたいな日に、自棄酒食らって自暴自棄になるようなこともないんとちゃうか。」四草兄さんはそう言って、ちらりと草若兄さんの方を見た。
「おい、シーソー、お前誰のこと言うてるねん!」
草若兄さん……今日の紋付袴の威厳が台無しです。
「分かってるならいいです。」と四草兄さん。
「偉っそうに……。」と険悪な顔で舌打ちしている草若兄さん。
一触即発の気配を感じたのか、はたまたいつものことと受け流しているのか「そんなら若狭、オレと小草若は先に二階で着替えて来るわ。お前は後で来い。おい、行くぞ、小草若。」と草々兄さんがふたりの間に入って、タイミングよく声を掛けた。
四草兄さんは「草原兄さんと先に寝床で待ってますんで、地獄との交信はさっさと切り上げて、早よ戻ってきてくださいね。」と草若兄さんに声を掛けて腰を上げた。
いつもと同じ、澄ました顔だった。
私と小草若兄さんが小浜で五木ひろしの歌を聞いている間に、この四草兄さんがこの縁側で小草若兄さんのことをかばって泣いていたという話は、ほんまにホントのことやったんやろうか。
全然想像が付かない。
「そしたら、今夜は寝床でちょっと酒飲んで、慰労会したら解散ちゅうことで。オレも四草と先行っとるわ。」と草原兄さんも立ち上がる。
「おかみさん、さっきはすぐにおかみさんの分のお茶、すぐに入れられなくてすいません。遅れましたけど、今、新しいのを入れますから、台所で休んで、師匠と草若師匠の着替えが終わるの、ここで待っててください。」
「え?」
「どないしました?」
あ、おかみさん、て私のことか。
「うん、ありがとう、小草々くん。」と礼を言うと、どういたしまして、と答えが返って来る。
兄さんらぁが三々五々といなくなって視界が広がると、いつもの庭の光景が視界に入って来る。
あの頃の師匠が、タンポポを摘んでいた辺りを眺めた。
師匠が落語家として復帰してから、もう十数年も経っているのに、今も、あのどてらの背中が見えるようだ。
まだ十代だった、何にも分かってなかった私を受け入れてくれた、この家がなくなってしまう。
そんなことって、あっていいのやろうか。
私と草々兄さんの、ほとんどふるさとみたいな、この家とこの庭は、草若一門のお弟子さんらぁが何人も巣立っていった場所でもあるのに。
師匠と、兄さんらぁと過ごした庭。
洗濯物を落としたこともあった。テレビカメラの前で、しょうもない失敗したこともあった。草々兄さんの前で泣きそうになったことも。
小草若兄さんがここを手放すことを決めてしまったら、誰かも知らん、人手に渡ってしまう。
「………そんなんいやや。」
襲名前のすったもんだの時期の四草兄さんが『草若の名前は、師匠とは違う。』と言っていた、その意味が、今は少し分かる。
わたしにとっての草若師匠も、ただの名前じゃない。
落語そのもので、落語を愛した師匠の魂で、それから、十九の年からずっと暮らして来たこの庭を含めたこの草若邸も、師匠を構成する大事な要素だった。
胸が苦しい。けど、小草若兄さんは、きっと、もっと辛くて、もっと苦しいに違いない。上方落語のためとはいえ、小草若兄さんは、この大事な家を、自分にとってのふるさとを手放すことが出来るんやろうか。
庭に降りて、師匠のいた場所に屈みこんで、一本だけたんぽぽを摘んだ。
光の色をした黄色いたんぽぽは、おかみさんの好きだった花だ。
ふたりがいなくなっても、たんぽぽはここに咲き続けている。
「この庭と一緒に、ずっと残しておけたらええのに……。」
「おかみさん、お茶、入りましたよ。」
「はーい!」
小草々くんにいつものように返事をして立ち上がると、向かいから、風に乗って、寝床のおかずの匂いが漂って来る。
これ、イカの煮っ転がしかな。
昔は、うちでもお母ちゃんがよく作ってた小芋の煮っ転がしは、ほんとうに美味しそうな匂いがする。
二階から、草々兄さんと小草若兄さんが降りて来る足音が聞こえて来た。
「若狭、着替えて来ていいで。オレのスーツ、明日クリーニングに出してくるように木曽山に言っといてくれるか?」と草々兄さんが言った。
「はいぃ。」
「遅なって悪いな。あんな、オレの紋付と袴は吊るしといたから、後で前のと同じとこに仕舞っといてくれるか?」と草若兄さん。
「はい!」
少しだけど、やっとお腹が空いてきた気がする。
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