辞書をとじる


 等間隔の街灯がひとつ切れた通りを風が吹き抜けて、水戸は肩をすくめた。落ち葉が歩道のはしで踊り、触れあって音を立てる。歩きながらコッペパンをかじる桜木を挟んだむこうで三井は、あすは雨だと言った。だから今夜は冷える。ろくな返事はなく、本人もそれを気にする様子はなかった。望ましい話題の欠如のためではなく、なにげなく天気の話をするようになったら、もう知人と呼ぶには相応しくないだろう。まだない名をつけるべき間柄が、世の中にはいくつもあるはずだった。自分と桜木の体感温度が異なることならとっくに知っているが、三井のそれについて水戸は知らない。しかし三井は、訊ねてもいないのに、オレ体温高いんだよなと言い、いつのまにか、水戸が寒がりであると思いこんだように話す。ひとを蹴ったり蹴られたり、殴ったり殴られたりするくらいしか身体を動かさない不良と、終日スポーツに明け暮れる体育会系とで身体が異なるのは当たり前であって、寒がりとか暑がりとかいった話では不適当だろうということを、水戸は口に出さなかった。
 オレも腹減ったな、という三井の声が、やはりひとりごとのように響く。からっぽになった袋をぎゅっと丸めてサンチェーンのゴミ箱に投げいれる桜木を見守るとき、まばゆい店内を指さして視線だけで問うた水戸に、三井は首を横にふる。それから、二、三秒前の過去をまるで昨日や一昨日のことにするような笑顔で、ナイッシュー、と水戸は桜木の肩をたたいた。
 学生の姿がまばらになった午後八時半の駅前で、改札へ向かう三井と別れるためにポケットから出た水戸の手が、方向を変えて、薄い通学鞄の底をさらう。
「ミッチー、これあげる」
 あ? 漢字をそっくり真似たように口をひらいた三井の前で、水戸の手が無言で待った。反射的に差し出された手のひらに笑いをこぼす。なに笑ってんだ、と言い終わらないうちに、その意識は、手のひらに落とされた包みへと移っていた。「なんでキャラメル?」「クラスの女子にもらった」「おまえが? なんで?」質問が多いよ、と水戸が笑うので、三井はいちど押し黙って、それから水の流れに逆行するようにふたたび口をひらいて、多くねえよ、と言った。洋平、オレも、という桜木の明るい声に遮られた三井が、納得のいかない顔で、手つきだけは素直に、パラフィン紙の包みをひらく。

 赤信号に立ち止まり、黒くこびりついたガムを見下ろした。いつのまにか数が増えている気がするのに、いつ黒ずんだのかがわからない。真新しいガムを踏んだこともなかった。友人の不在が、掃いて捨てるほどの景色を水戸の目に届けようとする。その一つひとつを見てやる必要はないのに、つまらない相槌をうつように応答して、その場で捨て去る。不毛な作業だった。とっくに馴染んだはずの校舎を見上げて、飛び交うあいさつの間を縫う。ときどき、ここにいることを不思議に思った。それがたいてい友人のいない日であることを、知っていて、知っていることそれ自体を下駄箱のなかへ捨て置いていく。
 太陽が真上に昇っても、もうそれほど暑くはなかった。地面はよく乾いている。明日はきっと無駄なことを考えないだろう。「お、水戸」。太陽の熱が幅をきかせているうちに、水戸の脳は三井の声を覚えた。だから、背後から聞こえた声に振り返るときにはもう、それが三井であることを知っている。
「どうも」「おまえひとりか」「そうだね」
 通い慣れた喫茶店へ滑りこむかのように、迷いなく隣へ座りこんだ三井のつむじを見下ろした。長い髪を切って、短くなって、すこし伸びる。また切るだろうか? きっとそうだろう。シャツの白がやけに明るく目についた。紙パックのコーヒー牛乳にストローをさしながら、おまえ今日バイトは、と聞いている。他人、知人、友人、と水戸は頭のなかで辞書をめくる。「ないすよ。花道んとこ行くから」「あー、今日か。明日は来るんだろ?」たぶん、という言葉に三井が浮かべた笑みを見たとき、首すじに暖かな陽がさすのを感じた。 
「降らないね、雨」
 降るって言ってたでしょ、三井さん。話の読めない顔にそう付け足すと、三井はようやく合点がいき、勝利の理屈しか持ち合わせない口ぶりで、間違えたのは天気予報士だと言った。「まあその予報、夜には変わってましたけど」。三井は眉をしかめて、きたねえぞ、と非難する。水戸は声をあげて笑う。今日一日ではじめてのことだった。たばこの火を消し、缶コーヒーを飲みきると、ふいに三井の手が伸びてくる。「やるよ」。突き出されたパラフィン紙の四角い包みを見て、水戸は目を丸くした。
「え、いらねえ」「は? なんで」
 三井の口は、いつもなめらかに疑問を吐く。食べねえもん、という返事に三井は納得のいかない顔をした。
「もらっとけよそこは」「食べないんだって」「じゃあなんで昨日はもらってんだ」
 もらわねえほうがめんどくせーだろ、と答えて、水戸はすぐに誤りを察した。三井は糸口をつかんだセールスマンのように強気になって、じゃあ受け取れよこれも、と水戸の手をとる。こどもの駄賃のように握らされたキャラメルが手のひらのなかで温まっていくのを感じながら、友人の顔を思い浮かべた。これはあいつにやればいい、検査おつかれさん。そういうことにしよう。これ以上間違える必要はない。だから、これ買ったの、残りはどうするの、もらったから返すみたいな幼稚な発想なの、水戸はいくつかの疑問を呑みこんだ。そしてひとつは、聞かずとも解消した。「水戸って卒業したらどうすんの」と言いながら、三井は小箱から取り出したキャラメルの包みを開けている。
「いや、まだ一年なんだけど」
 やっぱ働く? 返事を聞かずに喋る人間はいくらでもいるが、彼は返事を聞いてその返事を忘れたまま喋る人間の類なのだと水戸は理解した。「まあ、そうなんじゃない」「おめーのことだろ」「一年前のあんたに同じこと聞いてやりてえよ」続ける言葉も返事もなく、三井はぐっと黙る。聞いているのだ、水戸の言ったことのすべて。

 それから三井と顔をあわせたのは、体育館の内と外の境界だけで、あすの天気もいやがらせじみた贈りものも、ましてや将来の話など、起こりうるはずもなかった。それがふつうであったし、つまり、そんなことが意識に浮かんできたのは今日がはじめてだということを、水戸はその日ようやく思い知ったのだ。
 いちど撒かれた種は、水戸の意思とは無関係に芽を出す。通りすがりに難癖をつけられるようなことは多くなくとも、知りもしない顔たちが自分の名前を呼んで道を塞ぐなどという奇怪で滑稽なできごとは、案外あるものだった。人数が増えれば無傷とはいかないし、だいたい、ひとを殴りつける動作自体がそれなりには体力を要するのだということを、水戸はときどき思い出す。おろしたての制服のボタンをはずしてくつろげ、紫煙を吐きだしながら、路地裏に転がった男の胴体をつま先でこづく。ようするに疲れていた。名前とはなんなのかと、水戸はぼんやり思う。喧嘩がきらいでなくても、あずかり知らぬところでひとの恨みを買うことが、喜ばしい勲章であるはずがない。大人しく地面に転がってしまえばそれですべて解決するわけでもないのだからとこうして打ち負かせば、そこに転がっているのはなぜか自分自身であるように感じられるのだった。みじめさを恨んでも、自分に傷をつけることはできないのだから、いっそう悲惨だ。名前を捨てて、服を着替えて、髪型を変えれば、別人になるのだろうか? だとすれば、それは誰で、ここにいる自分は何者なのか? 昨日は? 明日は?
 ふいに覆った影に、明るい通りへ目を向けると、三井が立っていた。世間と同じように衣替えを済ませた姿を認めたそのとき、水戸は季節がほんとうに変わったことを理解した。変化はつねに終わりをもたらすものであって、あたらしい季節など求めていなくても、ひとつの季節は終わるのだ。誰かがにこやかに青春と呼ぶそれを粉々に踏み砕いてしまえたら、どれほどよかったのだろう。
「どうも」
 あいさつも跳ねのけてずんずんと歩み寄った三井が、右腕をとって、晴れた通りへ連れ出していく。「おまえな、ぼーっとしてねえでさっさと離れろよ」「はは、いやちょっと、考えごととか」「よそでやれ、そんなもん」「ごもっとも」三井は笑わなかった。腕を引くかわりに道理を表明して進むような背中に、じゃあおれはここで、と告げる間を逃して、やがて公園で立ち止まる。ベンチに腰かけた三井が、おまえいつもあんな感じなの、と聞くので、「どんな感じですかね」と素朴に問えば、ついでに買ったはずの弁当と返しに行ったはずのレンタルビデオを手に帰ってきたようなまなざしにぶつかる。「三井さん、すげえ顔してるよ」「おまえのせいだろ」
 水栓柱にかがんで手と傷口をゆすぐと、ズボンの裾に水がはねる。考えごとってなに、という声が妙に年上ぶっていて、なにもかも奇妙で、いっそなにもかも許せるような気がした。「よくわかんねえや」「考えてたんだろ」「なんつーか、支離滅裂で」
 三井は意外にも、どういうことかとは問わずに、推薦もらえることになった、と話した。「へえ、よかったね。さすが」「試験はあるけどな。それで、おまえが言ってたこと思い出して」「なにを」「一年先とかマジでわかんねえなって」要領を得ない話だったが、そもそも要領などない話なのだろうと水戸は理解した。ああ、そう、うん、まあね。必要な相づちといえばその程度だ。言葉のかわりにたばこを口に挟んで、煙の行き先を目で追った。「一日ごとに梯子が一本なくなっていくみたいな、でも起きたらちゃっかり次の日で意味がわかんねーで、ずっと夜ならいいと思ってた」三井は、わかるかとも、わかんねえだろうけどとも言わなかった。「……まあでも、もう大丈夫でしょ」。こんなのはひとりごとの応酬にすぎない。やがて三井は、だからおまえでよかったと思って、と言った。文通でさえこんなふうにはならないだろう。故人の日記とコミュニケーションをとろうとするかのように勝手だった。
「三井さん、もう帰る? コーヒー奢るけど」
 指さした自販機の方向に、三井は短く二度、まばたきをする。「いる」。年齢の定まらないひとだった。缶の温度が心地よく感じられる。冷えていく夕暮れに、季節は変わったのだと水戸はふたたび思った。手渡した微糖缶のプルタブを、長い指が引き起こす。あらたまって眺めれば、三井の手はとても健康的だった。頑丈さには欠けるが、ものを掴むことを躊躇しない手。「水戸、学ラン着てるとちょっとおっかねえな」「なにそれ」「刷り込み?」「はは!」でも違うよ、これは次の季節だ。同じ服を着ても時間が戻ることはない。心のうちだけで唱えた。
「おまえ怖いものなさそう。弱味とかねえだろ?」「まあ、特には」ほらな、と三井が言う。それほど嫌な気はしなかった。
「弱味ってのはさ、失いたくないもののことだろ。失えるのは持ってるもんだけだよ」
 返事はなかった。たばこを靴底にこすりつけ、ごみ箱へ放る。ふいになにかが触れた左手を見下ろすと、さっき眺めたばかりの健やかな手が、その肌触りを教えていた。あたたかかった。缶コーヒーを持っていたからだ。なのに、それを三井自身の熱のように感じていた。ものを渡しあうだけだった手が、なにも介さずに、触れること自体が目的かのようにそこにあった。反射的に退くことに失敗してしまったら、自分はもうなにもできない人間なのだと、水戸は思い知る。風が吹き抜けて、街灯に火がともる。




2023.03.07
季節の変わり目の洋三

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