新生

「僕は北原白秋」
 その文豪は、桐の花の紫がかった銀の髪を揺らし、凛と涼やかな声で、そう名乗った。
「詩とか、童謡とかで結構有名なのだよ。もちろん知っているだろう?」
 初めて自らの力で文豪を転生させることに成功した特務司書── |都竹和仁《つづきなぎと》は、しばし呆然としていた。
「……都竹くん。大丈夫か?」
 傍らで見守っていた館長がそっと声をかけると、和仁は思い出したかのように顔を上げ、小さく頷く。初めての転生であったが、特に不調は見られない。
「きたはら、はくしゅう」
「ああ。僕を知らない日本人は、そういないと自負しているがね」
「もちろん、知っているとも」
 なんといっても、『日本一の詩人』である。万に一つも機嫌を損ねるのはまずいと、間に入った館長が苦笑する。
「『邪宗門』『思ひ出』といった詩集に始まり、『桐の花』『雲母集』など優れた歌集も残している。また、『からたちの花』をはじめとする童謡や歌謡の作詞も多数行い、さまざまな分野で活躍した素晴らしい詩人だ」
「ふうん。よく学んでいるようだ、感心だね。……こうして喚ばれた事情は理解している。再び生を得たからには、協力させてもらおう」
 白秋の言葉に、館長はひとまず胸を撫で下ろした。司書は、まだ少し呆けながら、寝言のようにぽつりと呟く。
「ねんねや、ねんねや、おねんねや……」
 その呟きを拾い上げ、北原は「おや」と言うように眉を動かした。
「いかにもそれは、僕が書いたものだ」
「あの、僕、その本持ってます……!」
 北原白秋の手による訳詩集『まざあ・ぐうす』。
 古びたその本は、父との思い出の品のひとつだと、和仁は母から聞いていた。そうしていつも、母は眠る前に読み聞かせてくれたのだ。
 父は米軍の駐在兵だったという。母が身ごもった時、何か子供にプレゼントを、と言いながら──まだ手のひらほどの大きさしかない我が子のために──街中を駆けずりまわり、飛び込んだ古書店でやっと見つけたのが『まざあ・ぐうす』だったのだそうだ。父自身が幼い頃から親しんだ童謡を、我が子にも贈りたいと、そう語っていたという。
 父の話は、どれも母から聞かされた思い出でしかない。和仁自身の記憶の中にあるのは、母が読み聞かせをしてくれた事だけである。それでも彼にとっては、わずかながらも父との繋がりを感じられる事実なのだった。
「もしかして、『ねんねこ ねんねこ ねんねこよ』も……」
「『揺籃のうた』かい。それも僕の手によるものだが……その言葉自体は、開国前から使われていたものだよ」
「あの、あの、僕──その、」
「落ち着いて。慌てる必要はない」
 白秋は、興奮というより狼狽した様子の司書の肩に手を置き、優しく諭すように語りかける。和仁はひとつふたつ深呼吸をして、ほう、と小さく吐息した。
「僕、『揺籃のうた』で、月は『黄色い』んだって、知ったんです」
 歌うカナリヤ、黄色い月、母の大きな蛇の目傘、白い時計台、金の卵を生むがちょう、あったかいパン──そのどれもが、北原白秋の手で綴られた言葉たちだ。
「こんなにもたくさん、先生の言葉に囲まれていたなんて……なんだか不思議な気分です」
「こどもたちの為に紡いだ僕の言葉たちが、時代を経て歌い継がれていることを、嬉しく思うよ」
「都竹くんは君の著書を読みたがっていたんだが……なかなか手配が進まず、申し訳ないことをしている」
 司書は生来目が見えにくく、図書館の蔵書を読む時は手持ちのルーペを用いているが、字が細かったり細かかったり、また小さかったりする場合は、うまく読むことができない。そのため、館長が点字図書の手配を急いでいるという。
「……そうか。君、目が」
 白秋は何か思うところがある様子でしばし黙考し、「うん」と笑んだ。
「なに、急ぐことはない。この僕が此処にいるのだからね」
 司書の手を取る。まだ幼さの残る、頼りない少年の手だった。この手が、その身に、再びの生を与えたのだ。
「言葉とどのように触れ合うべきか。世界がどれほど美しく煌めきに満ちているか──僕が教えてあげよう」
 それはある意味で、侵蝕者との対峙・文学書の浄化よりも、重んじるべきものであるのかもしれない。誰よりも言葉を巧みに紡ぎ、人々のための詩を、人々のための歌を残した『国民詩人』であればこそ。
 和仁は驚いた顔で握られた手に目をやり、瑞々しい淡緑の瞳を瞬かせた。
「……は、い。よろしくお願いします」
「よろしい。今日から君は、僕の教え子だ」
 そういえば、と、司書の名前も聞いていないことに気付いて、白秋は苦笑した。司書も同じだったようで、自身の非礼を恥じるかのように、ばつが悪い顔をしていた。
「……ではまず、君のことを教えてくれるかな」
「! ……はい!」
 心からの安堵を浮かべて、司書の頬が緩む。白秋もまた、目の前の少年が笑顔になったこと、取った手を握り返されたことに安堵した。子供の笑顔と手の温みはいつの時代も尊いものだと、彼は考えていた。
 白秋のことをよく知る者がもしこの場にいたのなら、彼らしからぬことをするものだ、と目を丸くしたかもしれない。昔馴染みの顔をいくつか思い浮かべ、さて彼らはどのような反応をするだろうか、と少々意地の悪い想像をしながら、いずれ来るであろうその日へと思いを馳せる。

 詩聖と少年── 七十余年を経た、奇跡のような邂逅。
 この瞬間が、新生の時である。

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