曙色

 ──目が覚めた。


 外はまだ暗く、虫の音が静かに鳴り響く。
 うっすらと目を開き、薄明かりに照らされている木造の部屋を見て、自身がカミハルムイの宿で寝泊まりをしていた事をぼんやりと思い出した。

 喉の乾きを感じたので水を飲み、再び寝床に着く。
 部屋の隅では、並べられた座布団の上で旅の同行人が静かに寝息をたてている。こちらの様子には気付いていないようだ。

 陽が昇る前に起床する……なんて事は滅多に無いのだが、その日は珍しく目が冴えていた。
 布団に包まってから暫く時間が経ったが、なかなか上手く寝付けなかったので気分転換に外の空気を吸いに行く事にした。



 宿を出て、少し冷たい風を思い切り吸い込む。
 身体の芯まで空気が行き渡り、背ビレがすうっと伸びるのを感じた。
 夜明け前にも関わらず、市場に向かって荷物を運び始める商人達……それを横目に、アテも無くふらふらと歩き出す。

 ふと、以前出会ったエルフの冒険者が「カミハルムイの夜桜はとても美しいが、明け方に見る桜の方が好き」と語っていた事を思い出した。
 良い機会なので桜が咲く方に……と思ったが、寝巻きのまま外に出た為、この格好で大通りへ行くのはあまり良くないだろうと判断する。
 今から宿に戻るのは面倒なので、人気の無い場所を探そうと身体の向きを変えたその時、城門で居眠りをするエルフの門番が目に付いた。

 こんな時間に寝巻き姿の女を城下町から出す事は、城下町やその付近の安全を守る門番にとって一大事となる。普段であれば見つかり次第、即尋問されるだろう。
 しかし、城下町の外といえど門の付近であれば魔物は滅多に近寄らない。万が一魔物に襲われたとしても、護身用の短剣は所持している為、難なく対処できる自信はあった。
 魔物の不意を打つ為に身に付けた動きを利用し、器用に立ちながら寝ている門番の横を音も無くするりと通り抜ける。


 門の外に広がっていたのは、昼間のカミハルムイ領とは全く異なる光景だった。


 桜の木々が、穏やか風に揺られながら花びらを散らす。
 先程まで薄暗かった空が明るくなると同時に、ゆっくりと色付き始める。
 やがて薄い桃色とも橙色とも言える色が、大地を囲うようにそびえる山を、薄く広がった雲を、若々しく伸びる草木を、空に舞う桜を、優しく照らしていった。


 画に描いたような幻想的な景色を目の当たりにし、呆然と立ち尽くす。
 どこか懐かしく、温かさを感じる色に包まれた世界を見て、何とも言えない気持ちになった。 

 鳴り響いていた筈の虫の音が、いつの間にか鳥のさえずりへと変わっている。その変化に気付いた瞬間、遠くから別の音が響いた。


「モカさん……!」


 落ち着きのない足音と共に、息を切らしながら自分の名前を呼ぶ声。どうやら、旅の同行人の起床時間をとっくに過ぎていたらしい。
 髪は下ろされたままの状態で、眼鏡すらかけていない。書き置きもなしに宿を出た為、慌てて自分を探していたのだろう。


「丁度良かった。宿に置いてあるカメラを持ってきて」
「どうせそういう事だろうと思って……ほら、これで満足か?」


 彼からカメラを受け取り「たまには気が利くのね」と小さく呟きながらシャッターを切る。
 暫く間を空けて、地面の方から「何度も同じ理由で走らされりゃあ、分かるようになるさ……」と弱々しい返事が返ってきた。
 きっと門番に「城下町から出た人は誰もいない」とでも言われて、城下町を一周走り回ったに違いない。馬鹿な人だ。


「……お腹が空いたわ」
「流石に食料は持ってきてないぞ」
「ついでに外套も持ってきて頂戴」
「本当に、人遣いが荒いなあ……」


 文句を言いつつ立ち上がっては走り去る後ろ姿を見送っていたら、自然と欠伸が出てきた。

 宿に戻ったらもう一度布団にくるまってみようか……そう考えながら、陽が昇り始めるカミハルムイ領の景色をカメラに収めていった。

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