残響のヘクトパスカル




 海の深くを進む船はひどくうるさいのだということを、ゾロはローの船に乗り込むまで知らなかった。海水を鉄が切る音、海中に漂う漂流物が船にぶつかる音、船を物理的に動かす駆動音。それらは船にいる間中、絶え間なく濁流のように聞こえていた。居る場所によっては、耳の隣で叫ばないと会話もままならない。少しくらい喚いたところで、その声が離れたところにいる誰かの耳に届くことは決してなかった。
 だから、忘れた。いや、正確に言い直せば、忘れていたことを今この瞬間に思い出した。陸にある宿の部屋は、一時の間もなく鳴り続ける轟音の中にはないのだ、ということを。自分の瞬きさえ喧しく感じる。これでは、こんなことでは困るのだった。
「ゾロ屋?」
 ベッドの脇に座り、せめての抵抗に顔を背けたゾロをローが覗き込んでくる。知らず握りしめていた拳を、派手な絵が描かれた手が上から包み込む。その瞬間、自分でも自覚できるほどに顔が熱くなった。反射的にローの手から逃げ、そのまま腕で顔を隠した。子供じみた態度にローが訝るように言った。どうした、と低く問われる。ローの長い指が、そうすることを許されている所作でゾロの顎を掴む。耐えられない。ゾロは喉を開いて絶叫した。
「なんでここはこんなに静かなんだ!? ゴンゴンガンガンいっててもらわねぇと困るだろうが!」
「…あ?」
「お前んとこの船の話だよ! いつもうるせぇだろう!」
「……あぁ。うるせぇな。うるせぇと困るのか?」
「違う! 逆だ! 静かだと困るんだよ!!」
「どうして」
 どうしてって。ゾロは喚きかけた口を閉じた。ローの顔はもうすぐそこにあった。まだ触れない距離のはずなのに、触れているときよりもローの体温を感じる。ローはなぜと問うたくせに、問う前にはもう答えを知っている顔をしていた。ひたりと視線が交わる。片目の内側を覗き込むような目つきで、ローがゾロの顔を下から見つめる。飴色の瞳はすでに熱っぽい。分水嶺はもうそこにあった。
「言えよ、ゾロ屋。何が困るんだ」
 音が降ってくる。鼓膜が痛い。静寂という名の音がゾロの上へと降ってきて、己が立てる音も己が発する声も一つ残らず正確にローの耳へと届かせる。最高だなぁゾロ屋、とローが言うので、ゾロは苦虫を噛み潰した顔つきで悪趣味め、と返した。そんなゾロにローは珍しく声を出して笑ってから、ゾロを勢いよくベッドへと押し倒した。











 
(さぁ、お前の全てを聞かせてくれよ)

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