男子高校生の日常 その4


梅雨は瞬く間にやって来た。
曇天から降り続く雨の景色を眺めていた譲介は、ため息を吐いた。
外で食事が出来ないということは、学食で弁当を広げるか教室で食べるしかないということだ。時代が一周回ったような弁当箱を人前で広げるのは気が重い、と考えていると、担任が黒板とチョークで叩く音がした。これは誰かを叱責するか設問への問いを誰に当てるか悩んでいるときの前触れだ。
「おい、和久井、最近ちゃんと起きてるのはいいが、黒板も見ろよ。」という数学教師の指摘に、譲介はパッと前を向き、「あ、はい!」と返事をした。しんと静まり返っていた周囲から、突然クスクス笑いが起きる。
数年前まで県有数の進学校である中央高に居て、結婚を機に地元に戻って来たという数Aの教師に比べると、今授業をしている数Ⅰの教師は授業に面白みに欠けるところがあるが、板書の字はそれなりに読みやすい。思ったよりも、範囲の先を進んでいるので、譲介は慌ててノートを捲る。
「次の問いの四、答えろ。」と教師が言った。
譲介席から立ち上がり、徹郎の文字で書かれた答えを読み上げる。
「合ってるな。……和久井、お前なぁ、最近クソ真面目に予習してるのはいいが、授業で寝てると内申下がるぞ。」
俺は心配だよ、と大袈裟にため息を吐いている担任には、すいません、と作り笑顔で答え、席に腰を下ろした。
譲介が数学の成績がまだまだだとしても、今日の問題の中でも一番の応用に正答が出て来るのも当然だ。手元にあるのが、学年でも数学は十番内に入っている男のノートを見ているのだから。

譲介は結局、あれから毎日のように徹郎の家に寄り道をして勉強を見て貰っている。

――譲介ぇ、お前分かってねぇみたいだから先に言っとくけど、就職するにしてもそこそこの内申は必要で、成績が高ければ高いほど学年主任に下駄を履かせて貰えるってこと覚えとけよ。

PTA役員に名を連ねる父親と、中学時代、家の庭で親の煙草を吸っているところを近所の人間に目撃されて停学を食らいそうになったにも関わらず、直前にもみ消しをされた経験を持つらしい徹郎は、片付いた兄の部屋の学習机に譲介を座らせて問題を解かせながら、自分はベッドに寝転がったまま、ストップウォッチ片手にしたり顔をしていた。
明らかに徹郎の部屋より一回り広いと分かる部屋でタイムアタックで問題を解き、帰宅前に互いのノートを交換し、授業中の内職で徹郎が採点と解き方を解説したノートを見てまた勉強する。毎日通うことが出来れば、金曜日に徹郎の母親が準備したカレーを食べて帰る、というルーティンを繰り返している。とりあえずは苦手な数学AとⅠの二種、時間があれば古文現文と英語。時間の縛りはなく、門限や用事があれば十五分でも構わないと心の広い『真田先生』が仰るので、譲介は、週末のカレーという人参に釣られて、本来なら顔を合わせたくもないはずの同級生の家に毎日行く羽目になっている。
その間に譲介は、徹郎が「おふくろ」と言う、あのご面相と引き比べれば到底実母とは思えない細面の美女と顔合わせを済ませ「譲介君みたいな親友が出来るって知っていたら、徹郎さんが高校合格したときにもっと褒めて上げたら良かった。これからも徹郎さんをよろしく。」という妙に湿っぽく重い言葉を、毎週末のカレーの代価として背中に背負う羽目になった。
譲介君のような、というのは、昔から良く言われてきた言葉だった。こちらの育ちを知らない人間は、最初は皆、譲介の顔だけを見て、子どもの友人の見栄えが良いことを歓迎するのだ。
親友とは程遠い話で、徹郎と自分の中にあるのは、ただこうした利害関係でしかない。
徹郎は今のところ譲介の隣で鼻歌を歌いながらカレーを食べていて、「おふくろ」の前で譲介の親友の仮面を被ることに百パーセント成功している。
こうして「親友」の役割を振り家族を安心させるための茶番を演じさせた男に、明日にでも選択授業に使う書道の墨汁を頭から注いでやりたいと思いつつも、他人の家の家族ごっこに付き合わされるとしても、このカレーが食べられるなら悪くない、と考えてもいた。
自分でも呆れてしまうことに、どうも、昨今の和久井譲介は、プライドよりも胃袋を満たすことを優先しているらしいのだ。


譲介は、顔を上げずに、徹郎の左手首の時計に目を走らせる。
徹郎は、教師が板書をしているタイミングを見計らって、授業では使っていないチャート式の問題集を開き、真剣な顔で譲介のノートにペンを走らせている。授業中に教師を気取って赤ペンで○×を付けていれば明らかに内職がバレるので、正答であれば黄色のマーカーライン、誤ればピンクのマーカーラインだ。誤答には青ペンで解説が入る。
昼の休憩時間まで、後五分だ。徹郎の手の動かし方を見れば、今日は、ミスが多かったに違いない。
譲介は、自分の手元にある徹郎のノートに書かれた、ペン習字でも習ったのかと思うような字を眺めた。医者になってしまえば、カルテの字が他人に読めない殴り書きだろうが、誰に何も言われないだろうに、この几帳面な字は何だ、と見る度に譲介は思う。
そんな見やすいノートの端には、時折妙に筋肉が発達した男が走っているパラパラ漫画が描かれていることがあって、うっかり授業中に笑ってしまって外に追い出されたこともあるが、最近ではすっかり鉄面皮でいることに慣れてしまった。

教師がさて、今日は終わりだ、と言った途端にチャイムが鳴った。
徹郎は、さてどこで食事をしようかと思っていた譲介に見えるように、ノートの白ページをこちらの机に寄せた。
たまには学食で食おうぜ、という文言がある。
譲介は無言で目を丸くした。
「行くか?」と徹郎が声を潜めている。
「……カレーなら。」と譲介が頭を掻くと、「交渉成立。」と徹郎は言った。
そうは言っても、今回は徹郎に金を出させるつもりはなかった。あさひ学園に通っていて金の融通が利かない譲介でも、筆箱か弁当箱、何かの忘れ物があった時、あるいは緊急連絡のために、と通学時に千円は持たされている。千円札の一枚もあれば、ペンや消しゴム、パンが買えるというわけだ。



雨の日の学食は、妙に込み合っている。
購買で牛乳を買っている間にも券売機には数人どころではない人数が列に付いていて、刻一刻と席が埋まっていくのが見えた。
「先に席取っとくか?」
弁当箱を持って行ってやると徹郎に言われ、譲介は首を振る。
教室の外でいるときは、とにかく複数人でいることが肝心だ。高校はそれなりに匿名性が高いと言っても、譲介がどこから通っているのかは、同じ中学から通っている生徒とその周囲には知られている。
譲介の首の上に付いているこの顔だけで判断して、こいつは捕食者だ、と勘違いする馬鹿が湧いて出てくるのだ。隙があると思わせたら最後、頭から食われる。
券売機に行き着く前に、今日の定食のメニュー表の横に立つ。
A定食はナポリタンスパゲティとフライ。B定食は生姜焼きとサラダ。徹郎は譲介に、オレもカレーにするわ、と言った。
こういう時の徹郎は、妙に顔が読みやすい。
B定の生姜焼きが食べたいような顔をしていたくせに、とは思うが、譲介は口には出さずに、腹減ったな、とだけ言ってトレイとカトラリーが整然と並ぶ中から互いのトレイを取り、スプーン、箸を取る。
並んでいると、ガラス越しに食堂の中が見える。薄っすらと化粧をしている様子の三年生、つるんで話している二年生、まだぎこちない様子の一年生。
当たり前だが、様々な家から集ってきた様々な人間がいて、雨が降る中、この狭い箱の中に詰め込まれている。
周囲に馴染んだ黒いカラスの中、弁当箱だけを抱えている譲介は、表向きは黒いカラスの輪の中に入っているように見えるだけの、白いカラスの一人だ。爪弾きになるかどうかが、その場その場の立ち回りで決まって来る。
食堂の窓際には、目の端に殴られた跡のある男がたむろしている一角があり、その周囲だけが妙に空いていた。
徹郎のお節介がなければ、早晩、自分もあの輪の中に入っていただろう。
「――カレーの39番。いないの?」
「おい、譲介。おばちゃん呼んでるぞ。」と肘を付かれて顔を上げる。列はゆっくりと進んでいた。
それお前の番号だろ、と言われて食券を見ると、確かに譲介の番が来ていた。ありがとうございます、とトレイの上にカレーを乗せる。徹郎はなぜかおかかのおにぎりも追加で盆にのせていた。
「まだ食うのか?」
「今日、妙に腹が減るんだよな。」と言って、徹郎は譲介の顔を見ている。
「……食うか?」と弁当箱を差し出す。
「何言ってんだよ。聞いてねえって。」と言って徹郎は譲介の背を叩く。
その妙な力加減。こちらから何か言葉を聞き出そうとしているわけではなく、徹郎が何かを話したがっているのか、と譲介はふと気づいた。


カレーを半分平らげてから、徹郎はやっと口を開いた。
「……昨日、親と三年ぶりにまともに会話してさあ。」
「三年ぶり?」
譲介は徹郎の母と毎日、でもないが週に2回は顔を合わせている。やはり実母ではないのか、という疑惑が湧いてきたとき、「父親の方。」と徹郎は言った。口元を引き結んだ表情は驚くほど静かで硬く、屋上や教室で見せる顔ではなかった。
「仲悪いのか?」
「オレに関心がねぇだけの話。……お前がうちに来るようになるまでは、おふくろも似たようなもんだったぜ。可愛い惣領息子が医大に合格して外に出ちまったせいで、気抜けちまった顔を隠そうともしねえ。昔はああじゃなかったんだけどな、兄貴が進学で家にいなくなってからは妙に……あ、今日のカレー美味いな。」今日の徹郎は、どうやら話のそらし方まで下手になっているらしい。
「そうか。」と相槌を打ちながら、譲介もカレーを咀嚼する。
「なんかなあ、最近妙に料理にハマってて、あのおふくろが。」
「あの?」
あの料理の美味い?
あの金曜のカレーが絶品の?
あの和服の似合う?
徹郎の母親は、譲介にしてみれば、非の打ち所がない完璧な母親像だった。
「兄貴がうちにいるときは、自分が作るっつっても、夜はビストロで出て来る胸やけ料理ばっか作ってたのに。朝から味噌汁と焼き魚。」
そのうち、お前にカレー以外の料理も食って行って欲しいんだと、と言われて目を瞠った。
「僕。」
「そ。和久井くんまた来るといいわね、ですってよ。エプロンまで新調して。……嬉しいか?」と妙に拗ねたような口調になっている徹郎がおかしかった。
「いや、それは僕を口実にしてお前に食わせてやりたいんだろ?」
「ん……うーん、それを言われても。」
そうなのか、と徹郎は首をかしげている。
そうに決まっている。他人の家の子どもより、自分の家の子どもを可愛がるものなのだ。
普通の家ならば。
「ともあれ、オレが話したいのはあいつのこと。小テストが調子いいって見せてたら、毎日雪でも降ってるような顔してたおふくろが目に見えて明るくなってきたもんだから、いつもは無視してるのに、探りを入れてきたわけ、オレに。母さんは最近明るくなったと思わないか、って、なんだよそれ。結局、病院のことしか頭にないくせに。自分が辛気臭い顔してる間は他人の辛気臭い顔もそんなもんだろと思ってるけど、逆は気になるんだろうな。」
譲介の父親への評価は、妙に辛辣だった。譲介にも父親不在の家の記憶はあるけれど、いない方が家が回るということは決してない。
何と声を掛けるべきか分からずにカレーの福神漬けを齧っていると、「まあ、おふくろに若いツバメが出来たつっといたけど。」と徹郎が言った。
もしカレーを食べていたらきっと吹き出していただろう。
「おい、僕を出汁に使うな。」と譲介は声を荒げることも出来ずに小声で徹郎に釘を差した。
「で、本題。うちのオヤジがお前に会いたいってさ。」
「僕は会いたくない。」
「オレも会いたくねえ。」おふくろだけでも持て余してんのに、と徹郎は頭を掻いた。
徹郎の家から帰る何かの拍子に、車に乗って帰宅途中の徹郎の父親を見たことがあるが、医者の威厳というよりは、どこかしら不景気そうな顔をしていた。
徹郎から話を聞けば、辛うじて虐待はないが、子どもと話をしない放置型の親の典型だった。そのこともあって、顔を合わせたこともないのに、会う前から妙に苦手意識がある。
「あいつのあの面、見てるだけでメシが不味くなる。でも、まあ、おふくろに頼まれたんだよ。だから譲介、諦めろ。」と言って、徹郎は譲介の肩を気安い様子で叩いた。
「金曜にカレー食うときに同席させてもらうっつってたから、覚悟決めてくれ。」
「最悪だ。」と譲介は手を組んで額に当てた。
冗談ではなく、そう思った。
あの人の顔は、似すぎていた。数年前、冬の寒い日に譲介が見た、あさひ学園の前に幼子をおんぶしてうろうろしていた女の顔に。これから家族を捨てようと思っている人間が醸し出す、暗い影。あの数日後に、玄関先で泣いていた子どもが発見された。
「譲介ェ、腹減って来たから、やっぱお前の弁当も食わせて。オレ、あの甘い卵焼き好きなんだよな。」
「お前は気楽でいいよな。」
ため息を吐きながら、譲介は徹郎に弁当を差し出した。
おにぎりがふたつ、ウインナーと卵焼きと時々は冷凍のコロッケの間にプチトマトが入る弁当は、高校に入学して以来、毎日ほとんど同じメニューだ。徹郎が海苔のおにぎりを取るので、譲介は薄切りの白い昆布で巻かれたおにぎりを手に取って口にする。
「あのさあ、まあ……これで親と顔合わせも済むことだし、高校卒業を待って三年後に結婚するか?」
徹郎は気まずい沈黙と家庭での立ち回りの下手さと不手際の全てを誤魔化すように言った。
譲介は、目の前の男にそんなからかい方をされて、腹が立つでもない自分に驚いていた。
カレーで腹が満ち足りているせいか、親がいるというのも不便なものだな、という妙な憐憫が先に立ったからかもしれない。
「お前が言うと洒落にならない。」と譲介が席を立つと、徹郎も横に付いて来た。
「……悪いな。」という徹郎の顔を見ずに、「カレーパン百個。」と口にする。
「おい、譲介、お前……オレにどんだけ貢がせる気だよ。」
「お前が嫌ならいい。交渉なんだろ?」
百個でも千個でも、あるいは十個でも良かった。
ただもう少しだけ、この馬鹿と一緒にいてやってもいいと思ったのだ。
「まあ、うーん。」
夏にバイトでもすっかな、と徹郎が言った。
譲介は、うちの学校はバイト禁止だろ、と口にする。
廊下に出ると、外はすっかり雨が上がり、夏の前の緑の木々には、少しだけ日が差していた。


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