安寧の温度
「ぎゅってして」
そんなことを宣う口はすぐに固く閉ざされてしまい、口よりも雄弁なその冬の夜空みたいな目はただただ我儘な色を乗せていた。ばたん、と蓮の後ろで閉ざされた扉は自動でロックが掛かり、僕とこいつは二人きり、玄関でただじっと向き合うばかりだ。
僕は片手にマグカップを持ち、キッチンにコーヒーのおかわりをしに行く所だった。もうほとんど今日の分の仕事は片付いてしまったし、あとはコーヒー片手に簡単な調べものをするだけだ。今日の夕飯はパスタの予定だし、この仕事が終わってからパスタを茹で始めても何の問題も無い。僕たちだってレトルトのソースでパスタを食べる日もある。蓮はできるだけ自分で作りたそうだったが、如何せん僕たちは社会人だ。忙しくなるとそんな暇さえありやしない。
デザート、蓮が買って帰ってくる気がするな。なんとなくそんな予感がして、少しだけ楽しみにしながら仕事用の部屋から出たところに丁度蓮が帰ってきたのだ。そうして冒頭に至る。
いつもならただいま明智、と嬉しそうに笑う蓮が、むっつりとした表情で突っ立っている。開口一番に言われた言葉は、酷く幼い一言だった。
一体何があったのやら。仕事が酷く大変だったとか――例えばクレーマーの相手をした、とか。帰りの電車が満員のぎゅうぎゅう詰めで、なおかつ酔っ払いが騒いでいた、とか。もしくはもっと僕の知りえないところでちょっとした小さな嫌な事が続いたとか、そんなところだろうか。本当にこいつが心底気分を害した時は、逆に何もなかったかのように振舞うので、今日はそこまでではないということだけは確かだった。
むっつりとむくれている姿に、僕はひとつ大きな溜息を零してしまった。こうなった蓮は、正直面倒くさい。全く困った男だ。図体と態度はデカいくせに、つまらないことで子供みたいに機嫌を損ねてしまう。面倒な男。けれど、そんな男がそんな姿を見せるのは僕にだけだ、という事実にじわりとした優越感を覚えてしまう。……全く、僕も絆されてしまったものだ。
仕方ないな、と僕は近くの棚の上にマグカップを置く。突っ立っている蓮に近付いて、その身体に両腕を回した。蓮の着ている上着は、まだ春の始まりのひんやりとした外気を纏ったままだ。どこか甘い匂いを纏っているのは、きっと職場で最後に焼き菓子でも作ってきたのだろう。その身体を軽く引き寄せると、蓮が息を詰めていたことがわかった。今更何を緊張しているんだか。そのまますり、と頬を摺り寄せる仕草をしてやると、ようやく安心したのかはあ、と小さく息を吐いた。ついでに僕の体にも蓮の腕が回って、ぎゅうと強く抱き締められる。ちょっとだけ痛いくらいには力が入っていて少しだけ困った。全く、ここは玄関だぞ。
「……高いよ」
「いくら?」
「時価」
「じゃあ明日の朝ごはんは明智の食べたいものを作らなきゃ……」
まるで猫のようにすりすりと頬を摺り寄せられて、そのたびに擦れるふわふわの黒髪がひどく擽ったい。
「それで僕の時価を賄えると思ってるの?」
「明智は俺の料理が好きだから大丈夫」
「その自信、何……?」
ぽつぽつとくだらないことを話しながら、僕は蓮の背中を軽く叩く。幼い子供を落ち着かせるように、ぽん、ぽん、とゆっくりと。全く、僕は保育士になった覚えはないんだけど。
蓮がこうした触れ合いを好むのはだいぶ前に知った。そして僕がそれをさらりと受け入れられるようになるまでかなりかかった。今でも僕は仕方がないな、という言い訳をしてこうして蓮に触れている。こればかりは僕の性質なのでどうにもならない。それを知ってなお、蓮はこうして甘えてくるのだ。本当に、仕方のない男。
「何が食べたい?」
「当ててみなよ」
「えー……?」
玄関先で何をやっているんだか。そう思う自分も確かにいるのだが、こういった時間を悪くはないと思っている自分も確かにいる。そんな存在を認められるようになったのも、こいつと同居しだしてからかなり経った頃だと記憶している。
明智の気分はなんだろうな、と呟く蓮に見えないように、僕は小さく笑った。確かにこいつの作る料理は僕の舌に合う。最近はこいつの料理でなければ物足りないような気持ちになりつつあった。胃袋を掴まれているな、という自覚はあるのだが、こんな僕の胃袋を掴もうとする物好きなやつなんてこいつしかいないのだからまぁいいか、とも思っている。
何もかもすべて、どうしようもないくらい、そう、呆れるくらいには絆されている。この現状を伝えられたとしたら、数年前の自分なら鼻で笑って一蹴していただろう。それくらい、穏やかな日常を送ることができている。
「……蓮、そろそろ」
「あと十秒…」
「……」
仕方ない。そう、仕方がないのだ。そうして許してやっている、というていでこんな触れ合いを続けている。蓮もそれをわかっていて我儘を言うのだ。幼い子供のような自分の意地っ張りさを宥めるすべが見つからないまま、それでもいいと許されている。こいつはとんでもない人誑しだ。あの頃からもそうだったけれど。
「もう十秒経ったよ」
「まだ俺の中では三秒だ」
「君の体内時計、狂いすぎでしょ」
触れ合ったままの部分から、お互いの体温が均されていく。まったく馬鹿な男だ、僕も蓮も。
「いい加減お腹空いたんだけど。僕を餓えさせる気?」
「それは駄目だな」
そんなことを言いながら、ようやく渋々と僕から離れた蓮の表情はもういつも通りだ。へにゃりと締まりのない顔で嬉しそうに頬を染めている。
僕はそんな蓮の頬をぎゅっと抓った。いたぁい、と言いながらも笑う蓮は、やっぱり幸せそうだった。
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