愛の面影
九龍城砦の朝は薄暗い。
四方八方へと増築を続けた砦は、新参者から見れば迷路だが、長年暮らしてる龍捲風からすればただの散歩道である。
目的地までの道すがら、床や壁、天井を点検しながら歩く。ヒビ割れや水漏れなどは、早めに修復するに限る。相談事が増えて理髪店を開くどころではなくなるので。
目的地の天后古廟に着く頃には天井から明るい光が溢れ、絶えず燃え続ける盤香の煙が広がっている。
持ち歩いてる煙草に火を点けて吸い、盤香の煙に混じるように吐き出す。
朝の習慣だ。何年も続けている、習慣。
吐き出した煙は、龍捲風に纏わりつきながら漂う。
湿気が多い砦では、煙が上へ昇らないことが多々あるが今日は特にそうだ。雨が降るかもしれないなと考えながらまた煙を吐き出せば、より白く煙る視界の端で見知った顔が見えた。
綺麗に整えてやった髭にオールバックの髪、ファーがついた黒い上着が揺れる。
暗色の瞳がこちらを捉えると途端に明るく煌めいて。
「龍兄貴、おはよう。早いな」
「…おはよう、洛軍」
よく似た黒色の瞳と合う。煙る向こう側から顔を覗かせたのは、箒を手に持った洛軍だった。
陽も上がってきたのか、砦へ差し込んだ光が廟全体を照らしており、もう暗い場所が見当たらない。
あの夜を溶かしたような黒い男の影もいつの間にか霧散していた。
暗さに当てられでもしたかな、と終わりが見えてきた煙草をくゆらせながら洛軍へ向き直る。
「天后古廟の掃除の仕事もしてたのか?知らない間に色々掛け持ちしているな」
「いや、ここの掃除をしていた劉の爺さんが腰を痛めたのでその代わりだ」
這ってでも掃除しに行くと聞かないから、と奥さんに頼まれたそうだ。
お駄賃に饅頭を三つも貰って、と嬉しそうに話す。
あの金物屋の主人と強かな奥方か、と住人の顔を思い出していると洛軍に龍兄貴は?と聞かれる。
「年寄りは目が覚めるのが早いからな、散歩だ」
「散歩以外にもここに用があったんだろ?」
勘が鋭い。弔いの為だなんて言えず、苦笑しながら洛軍を見やれば、違っただろうかと少し眉を下げてこちらを見ている。
その表情が親友と呼んでいた男の表情と重なる。
ふと、視線を洛軍の瞳から顔の所々へ向けて気が付いた。
顔立ちは彫が深く、肌はよく焼けている。眉などの目元は瞳と同じく強さを表すように弧を描いてる。
お互いの命を削る夜を過ごした親友でもあった男の、自分を殺したかっただろうに息子の為に母を取った強い女の顔が被る。
洛軍は、彼らの息子は両親に本当によく似ていた。
懐かしく、愛しい面影に会えて嬉しい。
洛軍に会えば二人に会える。ここでなくても会えるのだ。
不思議そうにこちらを見つめる洛軍と目線を合わせる。
笑えているだろうか。
本人達に、特に母親にはまた頬を強く打たれるだろうが、言うなれば。
「過去の親友、友人に会いに来たんだ」
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