休日



日曜の朝。
本来なら受験勉強に勤しむべき時間に、なぜ小学生に戻ったような気分で保護者と一緒にN県ローカルの番組を眺めているのか、と和久井譲介は思う。
画面の中では、もこもこと着ぶくれたアナウンサーが寒空の下、マイクを持って知らない町中を歩いている。もうちょっとテレビ見てようぜ、とこうしてリビングに引き留められてしまったが、手元に勉強道具のひとつもないのであまりにも手持ち無沙汰だ。
「やたらと長ぇな……。」
保護者は食後のコーヒーを啜りながら言った。
譲介がいつものコーヒー屋に勧められて買って来たタンザニアはごく浅煎りで、普段から味より様式美を優先している四十路の保護者は、気分屋でわがまま。
妙に飲みやすいが眠気は覚めない、というのがテツの感想だ。
そもそも、色が十分に濃くないとコーヒーを飲んでいるという気分が出ないらしい。
「今日、九十分の特別番組編成になってますけど。」と譲介が手を伸ばしてテツの手元の新聞をひっくり返すと、迂闊な保護者は、途端にしまったという顔をした。
同居する前のテツには今の百倍くらいのクールさがあったと思うんだけど、今は冬眠中の熊みたいに気迫が足りない。
「マジかよ。」
「マジです、ドクター。」と譲介は真顔で言う。「受験生は冗談言わないから。」
でも時々嘘は吐く。


常日頃は家を空けていることが多いテツが、この辺にある店のチェックでもしておくか、と言って始まったばかりのこの番組を見始めたのは、このマンションに居を構えてすぐのことだった。
アナウンサーは、当初と変わらず同じ女性だ。
彼女はずっとこの番組のメインキャスターの担当を続けている。
いつものように、タイトなジーンズで足元はブーツ。首元のマフラーは淡い黄色。
街の多彩な店を紹介すると言いつつも、出番のあるほとんどの店が飲食店なので、当初の細面から多少ふっくらした顔つきになってきたような気がするが、それが逆に味があっていいとネットでは評判になっているらしい。端正な美女と言い切るには少し冴えない感じはあるが、譲介もこうして眺めている間にすっかり見慣れてしまった。
あれは整形だ、あれは化粧だ、テレビに映らないところで化粧を落とした爺共の顔ほど見苦しいもんはねえぞ、と時代錯誤に他人の顔に論評を加える保護者も、彼女には好意的だ。(譲介が、付き合い切れないというオーラを発するようになってきたこともあるのかもしれないが。)
このままいつまでもこの番組のアナウンサーを続けていって欲しいと思っている。
「午後から仕事の予定でもあるの?」と譲介はコマーシャルの合間に尋ねる。
砕けた口調に戻すのは、テツに探りを入れたいことがあるからだ。
「ねえけど、一時間半も見てたらあっという間に昼飯になんだろ。」
「……流石に、今日はカレーの店の紹介はやらないんじゃないかと思うけど。」
「そうか?」
冬になると、まともな新店の紹介は徐々に減っていき、鍋ものとか、飲み屋とか、そうした忘年会、歓送迎会といったシーンに使える店の紹介が多くなる。カレーの店の紹介はせいぜい秋口までだ。今週はまあ、絶対に違うだろうけど。
「最近ずっと、番組見てから移動しても、店の駐車場が一杯だったりしてすぐに食べられた試しがないんだから。そろそろ諦めて『いつもの店』を作れば?」
番組が始まってすぐの頃はそれでも、なんとかなったのだ。二、三年目になって番組として定着するにつれ、視聴者も増えて来たのか、その頃から、さっきまで見ていた店にさあ行くぞ、と行っても並ぶ、並ぶ。
オレの手術の腕は特Aランクだ、と自称するだけあって、テツはどんな難しい手術でも一般の医者のほとんど半分の時間で済ませてしまう。そんな気短の医者が、一時間も外でカレーを食べるためだけに並べるはずがないのだ。カレーの店に行ったはずが、三軒隣のチェーンのトンカツ屋に入って、カツカレーを食べて帰って来たこともある。
テツがこちらをちらちらと伺っている気配がするので、「僕はテツと一緒ならどこでもいいから。」といった。
「………おめぇなあ、そういうのは、」と言いかけて、テツはため息を吐いた。
「オレが行きたい店に行ってもしょうがねえだろうがよ。」
保護者らしさが板に付いて来た男は、ぼんやりとテレビ画面に見入っているような様子を取り繕ってそう言った。
「せっかくの休みなんだから、テツの都合に合わせた方がいいに決まってる。それに、テツがいいと思った店の方が面白いことになるし。」と正直に言うと、譲介の保護者は眉を上げた。
実際、この間などは、隣に座ってお釣りを出していた男の財布から転げ落ちた五百円玉が譲介の水の入ったコップにちゃぽんと入ってしまったせいで、食事がただになってしまった。
カウンター席で、逆の隣に座っていた強面のテツが「おう、どうした。」と口を開いただけで、ビビった相手の男がこれでオレとこの子の分の支払いも、と五千円札を出して逃げていったので、テツは釣りをちょろまかそうかどうしようかと悩むような顔を一瞬だけして、店の人と相談してふたり分の払いを持ってもらうことになった。残りはとっておけ、とテツが言うと、あ、お客さんかあ、だったらおつりは前と同じように募金箱に入れておきますね、と若い店員が言ったので、テツは譲介の横でバツが悪いような顔をしていた。
そういえば、たまたま行ったカレーの店が年に一度のきしめんデーという日もあった。
「カレー食いに行くか、って言ったくせに、マトンのビリヤニランチ頼んだ僕の横で結局きしめん食べてたこともあったよね。かぼすの輪切りを僕のカレーの上に乗せるとき、オレの血管がこんくらい太けりゃなあ、って言ってたの、覚えてます?」
長い仕事の後に気絶寸前の状態で帰宅して限界まで疲れている時には、何も食べずに寝入っていることもあるテツは、中学に入ってしばらくしてから、医学部を目指す譲介に、予防接種や点滴の練習をさせるようになった。お前の手際は悪すぎる、という言葉をオブラートでくるんでごくんと飲み込んだようなテツの顔つきに、あの日の譲介は久しぶりのビリヤニとタンドリーチキンだったというのに、食べながらちょっと落ち込んでしまった。
「……あれか。」
「そう、あれ。」
緑色の鮮やかな小さなかぼす。譲介がいくらカレー好きでも、夏の日のあのきしめんは、美味しそうに見えた。
「今年は、夏バテで胃が弱ってるなら素直に言ってください、ドクター。かぼすのトッピングは無理でも、そうめんを茹でるくらいならするので。」と襟を正して譲介が言うと「昔のことは忘れろ。」と言って、テツはため息を吐いた。
昔って。


番組が始まってから四十五分が過ぎた。
もうあと半分か、と思いながら譲介はテツのことを眺める。コマーシャルの間に宿題を取って来たけど、ローテーブルに続きのページを広げただけになってしまっている。
朝食の皿は食洗器に入れてすっかり洗い終わってしまったけど、この後一時間もあれば、片手間にテレビを見ながら夕飯のカレーに添えるサラダの下準備くらいは出来る、と譲介は思う。
ずっとテレビが流れているリビングで勉強するのは学生には厳しいものがある。それでも、テツはテツで何か思うところがあるらしく、今日のように、自分がいるときはなるべくリビングにいろということが多い。いい年をした保護者がしょうもないバラエティー番組を食い入るように見ているのはなんとなく嫌だという気持ちはあるにせよ、その決定に譲介は否やはないし、そもそもテツと一緒にいられるのは嬉しい。
ただ、いつもよりそわそわしてしまうのは、今日のこのテレビの絵面のせいだ。
二月に入ると、世間はバレンタイン一色に染まってしまう。
こんなローカル番組ですら、アナウンサーが散歩の顔を装って「こちらは、ショコラバナーヌが美味しいと評判のタルトのお店ですが、二月はなんと……!」と言いながら、ぱっと見は美容院か菓子店か分からないような外装の店に入っていく。
「この茶番、去年も見たな。」というテツに「そうだね。」と譲介も相槌を打つ。
案に相違せず、アナウンサーが入っていった店にはずらりとチョコレートが並んでいた。
片手で食べられる小さなチョコレートケーキに、チョコレート味のクッキー。生チョコレート。
タブレットと言う名の板チョコが世を席捲したタイミングで、テツが異様にその値段に驚いていたことを思い出す。(譲介にとっては、年がら年中収支会計にはザル過ぎるテツが、千円単位の値段に驚いてること自体が驚きだったけど。)
この時期になると、どこからかチョコレート菓子やせんべいなんかを貰って来ていつもの白コートのポケットを一杯にしている保護者が、テレビ画面の中で棚に並ぶチョコレートの塊を食い入るように見ているように見える、その横顔を眺めながら、まあ今がタイミングかな、というところで「テツ、今年食べたいのある?」と聞いてみた。
「去年のクリーム入ったやつ食わせろ。」
即答だ。
何を指しての話かは聞くまでもないというところだろう。
振り返ったテツは妙に真剣な顔をしているので譲介はドキッとする。
「美味しかった?」
「まあな。」
気のない返事に思えるけど、きっと旨かったという以外の褒め言葉を考えるのが面倒なんだろう。一昨年より去年のがいい、と言われて譲介はそうする、と頷く。
譲介が料理を覚えようと思ったきっかけになったのは、バレンタインに初めて作った生チョコレートで、テツには受けがいい。
本当は、バレンタインという行事が、ずっと嫌で仕方なかった。
テツと暮らすようになって、まともな服を着るようになってから他人の反応が変わったと思っていたけど、それが顕著に表れたのがバレンタインだった。
服より服の中身だ、と言いたいけれど、確かにテツと暮らすようになって、譲介自身が変わった。
だから分かる。
いつの頃からか、譲介はバレンタインのチョコレートを貰っている級友をうらやむ方の子供から、チョコレートを供物のように差し出される方の側になった。供物は供物なので、バレンタインデー当日が土曜でも日曜でも、相手は構わずやってくる。バレンタインデー当日だけは、譲介がテツに買ってもらったいつものブーツを止めてダサいゴム長靴を履いて登校していてもそれは変わらない。
新しい保護者が苗字違いで、譲介の本当の親じゃないことを、周りは皆、噂話で聞き知っているはずで、そのことを知って遠巻きに何かを言っていた子どもも、譲介のテストの点数がみるみる上がって、先生に褒められるようになったのを見て、見方が変わったらしい。その上、教員の中には、親が医者だと違うな、という口の軽いのも中にはいる。元が親なし子だろうが、いやでも株は上がるというわけだ。
僕だって昔の僕より今の僕の方が好きだ、と譲介は思う。
秋にはくるぶしまで覆うブーツを履き、冬には新しいコートを着て、テツの巻いてくれた襟巻をぐるぐるに巻いた譲介には、暖かさという心の余裕が出来、ずっと過ごしやすくなった季節に、誘いを断る余裕も出来た。暖かい家に帰れば、テツのカレーが待っている日もある。
この誘いを断らなければ、その夜はともだちの家で夕飯を食べられるだろうかと考えを巡らせる必要もないのだ。
そんな譲介が、今は門前市をなすようなチョコレートを片っ端から断っていることをテツは知らない。
「今年はまあ一個くらい貰えるんじゃねえか?」と言われて、譲介は「だといいな。」と返事をする。
ガキの手作りチョコレートほど怖いものはねえ、と言いながら、どこで貰って来たのか爪の跡がついたチョコレートを差し出され、おめえもひとついるか、と憐れむような顔で問われるに至っては、そんなチョコレートでも構わないっていうなら、僕だってテツに食べさせてやる、と奮起してしまうのも道理だと思う。
考えてみれば、手作りチョコレートを貰うのが嫌なら、ただ突き返すのでは角が立つ。相手より巧く手作りチョコを作って、これより美味いのを作ってくれたら受け取らないでもない、と態度を取ればまあどうにかなるかもしれない。一石二鳥だ。いいのを選り分けてテツの分にして残りを学校に持って行こう。そういう浅い考えで作ったチョコレートを、翌朝、さぁそれらしい箱に詰めようという段になって、真夜中に帰宅したテツが譲介が食卓に並べて冷ましていた試作品をすっかり食べてしまったことに譲介は気付いた。
『食った。うまかった。』
銀色のステンレスタッパーの中身のチョコレートがあった場所には、代わりにいつもの字で書置きが置いてあり、譲介の保護者は部屋で寝ている。
その年も、その次の年も。
次の朝になると、準備した場所から作ったチョコレートが消えている。
毎年少しずつ量を増やしているのに。
譲介はその間にテンパリングを覚えた。
生クリームの種類も年ごとに替えている。
結局、これまでに譲介が作った手作りチョコレートは、テツしか食べていない。
まあいいけど、と譲介は思う。
一応タオルをバンダナの代わりに巻いて手に手袋をして作ってはいるものの、自分で作ったチョコレートだって、他人に食べさせるのはやはり多少の抵抗があった。テツが買って来たオートクレーブの機械にまとめて入れて、作る過程で入ったはずの雑菌を全て取り除いてしまえるというのなら手作りもどうにか食べられる気がするけど、そんなはずはない。
譲介の学年が上がって、押し付けて逃げていくという手を使う人間が出て来ると、全部断ってしまうより、とりあえずは受け取ってその日のうちに「処分」する方が楽になってきた。既製品に限って一旦は懐に入れたような顔で、両隣の席になった人間に半分ずつ配って嵩が減ったところで、小学校から知っている顔見知りの所属する文芸部や天文部に残りを持って行けば、きれいさっぱり、証拠は隠滅される。テツは今も、譲介のことを並みの女子より顔がいいばかりに逆にモテなくなってしまった可哀想な子どもだと思っているんだろう。
僕への態度が昔からずっと変わらないのは、世界でテツただひとりだ。
譲介は、つまみ食いが得意な保護者を見つめ、「たまには新しいの作ってもいいけど。」と言った。去年は、今年は少しくらい残っているかもしれないと思いながら作ったチョコレートも、やっぱりきれいになくなっていた。
「手順覚えてるやつのが失敗がなくていいだろ。」と返事が返って来る。
この人はきっと、僕の作ったものが誰にも受け取って貰えないことがあるんじゃないかと、そのことを今もずっと案じている。
そんな風に守ってもらわなくてもいい。
そう思いながら、譲介は、同じくらい強い気持ちで、このままずっと彼の翼の下にいさせて欲しいとも思う。
「中身を適当に替えてみりゃいい。」と言われて、そうだね、と譲介は答える。
テツが食べたいようにリクエストして欲しかったけど、難しいだろうとも思っていた。
「譲介。」
「うん?」
「コーヒーくれ。」とテツが言って、明るい色のカップを差し出す。
いつものストライプのカップは、テツが何年か前にチョコレートの代わりに揃いで買って来た色違いのカップだった。
進学記念だ、と言われたような気がする。テツの方が良く使っているので気づかなかったけど、考えてみればホワイトデーのお返しのようなタイミングだったな、とふと思った。
譲介は、僕も飲む、と言って立ち上がる。
(出掛けて戻って来たら煮詰まってるだろうから、今のうちにボトルに移して、車で移動するときにテツの運転席の横に置いておこう。)
コマーシャルが終わって、次の菓子屋を紹介するテレビの声が聞こえて来る。
少し早いけど、飲んだら出かけるか、とテツは言った。
はい、と返事をしながら、譲介は暖かなコーヒーをふたりぶんのカップに注いだ。







Fuki Kirisawa 2024.02.10 out

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