【原利土1819IF】頸と心14
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十四 雪
朝が来て、火を起こし、食事を摂り、散策に出て、夜が来て、眠る。
その繰り返しの中で、黒の中には違和感だけが澱のように溜まっていった。
すべてのものがずれていた。すべてのものが見慣れなかった。そうして不思議なことにその澱は、かえって野良の存在を際立たせていった。
時を跳んだ。数年先の世界に落ちてきた。帰る場所はない。帰る方法も分からない。自分を知る者は誰もいない。その孤独の中で、野良の存在だけが確かだった。野良の声。野良の足音。野良が火を起こす手つき。野良が肉を切り分ける音。野良が囲炉裏の火を確かめる横顔。それだけが黒にとっての間違いのない現実で、生きる上での足場だった。
そう思うことは危険なことだ。黒にもそんなことは分かっていた。忍は思い煩ってはならない。それは依存と執着を生む。何かに縋ればそこが弱点になる。弱点を持てばそこを突かれ、突かれれば死ぬ。そういう世界で生きてきた。そういう生き方を叩き込まれてきた。
それなのに黒は、気付けば野良の気配を探している自分を自覚せざるを得なかった。野良が狩りに出ている間、ふとした瞬間に耳を澄ませている。戸口の向こうに足音がしないかと。帰ってきたのではないかと。気配を感じた瞬間、胸の奥が僅かに緩むのを感じる。そうして緩むたびに自分を叱咤する。何をしている──何に安堵している。そう思うのに、叱咤しても次の瞬間にはまた耳を澄ませている。
こんなものは依存だ。執着だ。溺れかけた者が、流木に縋りつくようなものだ。野良がいなければ、自分はこの世界で立っていられないなどと──そんなことがあっていい筈がないのに。
***
その日の朝は、空気が湿って重かった。
黒が目を覚ました時、野良は既に起きていた。囲炉裏の傍で何か支度をしている。いつもより荷が多い。弓を持ち、矢筒を背負い、腰には鉈と縄を下げている。
「遠出か?」
黒が声をかけると、野良は振り返らずに答えた。
「鹿の群れを見つけた。三日ほど前から追っている」
「鹿の群れ」
「若い雄が二頭いる。大物だ。仕留められれば、冬の間の肉に困らない」
黒は起き上がり、窓の外を見た。空は灰色だった。低い雲が山の稜線を隠している。風はないが、空気が湿っている。嫌な予感がした。
「……天気が崩れそうだぞ」
「分かっている」
野良の声は平坦だった。分かっていて、それでも行くという声だった。
「だから今から行くんだ。昼過ぎまでに仕留めて、日暮れまでには戻る」
準備を続ける野良に、黒は立ち上がった。
「私も行く」
野良の手が止まった。振り返りはしない。けれども背中に僅かな緊張が走ったのが分かった。
「お前はここにいろ」
「どうしてだ。大物を追うなら、二人の方が効率がいいだろう」
それは野良も分かっている筈だ。鹿の群れを追うには勢子が必要だ。一人が追い立て、一人が待ち伏せる。二人いれば仕留められる確率は格段に上がる。黒の言葉に理はあった。それでも野良は首を横に振った。
「鹿の群れだ。追っている最中は注意がそちらへ向く」
野良がようやく振り返り、黒を見た。その目は冷たい。冷たいのに、どこか必死さが滲んでいる。
「誰に見られるかも分からない。大人しくしていろ」
黒は言葉を詰まらせた。
そうだ。自分は追われている身だ。否──追われていたのは数年前の話かもしれない。だが確証はない。まだ追っ手がいるかもしれない。顔を覚えている者がいるかもしれない。野良と一緒にいるところを見られれば、野良にも危険が及ぶ可能性はある。
分かっている。分かっているのに、黒は口を開きかけた。それでも──と言いかけた。野良は既に背を向けている。荷を確かめ、弓の弦を張り直し、戸口へ向かうその背中が黒の言葉を拒んでいて、黒は何も言えなくなってしまう。
「火は絶やすな。湯を沸かしておけ」
それだけ言い残して、野良は出て行った。
戸が閉まる音がした。気配が遠ざかっていく。黒は囲炉裏の傍に立ち尽くしたまま、その足音が消えるまで聞いていた。
***
山は静かだった。
利吉は獣道を辿りながら、鹿の足跡を追っていた。三日前に見つけた群れだ。若い雄が二頭、雌が三頭。谷筋を移動しながら餌を探している。昨日は尾根の向こうまで追ったが、日暮れが近づいて引き返した。今日こそ仕留める。
足跡は山を越えていた。
利吉は僅かに眉を寄せた。予想より遠い。このまま追えば、山ひとつ向こうまで出ることになる。戻るのに時間がかかる。だが引き返せば、また一からやり直しだ。群れは移動する。同じ場所にはいない。
利吉は空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込めている。雪の匂いがする。おそらく今日中に降り始めるだろう。問題は、どれほど降るかだ。
軽い雪なら問題ない。だが初冬の雪は読みにくい。重く湿った雪が降ることもある。そうなれば帰路が難しくなる。
利吉は一瞬だけ迷い、足を進めた。昼過ぎまでに仕留めて、日暮れまでに戻る。それだけだ。
鹿は山を越えた先の谷にいた。
利吉は息を殺し、岩陰から群れを観察した。若い雄が二頭、離れた場所で草を食んでいる。雌たちは少し奥にいる。風は群れの方から吹いている。利吉の匂いは届かない。射程に入れば、一頭は確実に仕留められる。
利吉は弓を構え、ゆっくりと近づいた。枯れ葉を踏まないように。枝を折らないように。息を止め、気配を消し、一歩ずつ距離を詰めていく。
矢をつがえ、狙いを定めた。
その瞬間──空から白いものが落ちてきた。雪だ。
最初はちらちらと舞うように。だがすぐに密度が増していった。大粒の重い雪だ。水分を含んだ初冬の雪。
利吉は内心舌打ちした。
鹿たちが顔を上げる。雪の匂いを嗅ぎ、警戒している。このままでは逃げられる。利吉は判断を迫られた。今すぐ射るか。射れば一頭は仕留められる。だが仕留めた後、この雪の中を獲物を担いで帰れるか。
雪は勢いを増していた。視界が白く霞み始めている。地面が白く染まり始めている。
利吉は弓を下ろした。
鹿たちが駆け出した。白い靄の中へ消えていく。利吉はそれを見送り、空を仰いだ。雪が顔に当たる。冷たくて重い。これは思ったより積もる。まずい、と思った。
もう山ひとつ向こうまで来ている。この雪の中を戻るのは容易ではない。軽装だ。雨具はあるが、雪用の装備はない。濡れれば体温を奪われる。最悪凍える。
利吉は帰路を思い返した。雪宿りできる場所を探す。岩陰か、木の洞か、何でもいい。一晩やり過ごして、明日の朝に戻る。それが合理的な判断だ。間違いなくそれが正しい。だが利吉の頭に、別のものが浮かんだ。
黒の顔だ。
火を絶やすな。湯を沸かしておけ。そう言って出てきた。日暮れまでには戻ると言った。戻らなければ心配して探しに出るかもしれない。或いはこれ幸いといなくなるかもしれない。どちらの可能性もある。あの、ふっとこの世のどこからもいなくなってしまいそうな顔がまたよぎる。
『私も行く。二人の方が効率がいいだろう』
そう言った声を断った。断らなければならなかった。狩りで注意が獲物に向かう中、黒を外に出すわけにはいかない。誰に見られるか分からない。危険だ。だから断った。それは本当だ。けれどもその裏には不安があった。どうしようもない不安があった。
利吉は苦々しく笑って、拳を握った。帰らなければならない。
雪は降り続けている。だが大した寒さではない。氷ノ山の吹雪に比べれば、こんなものは雪のうちに入らない。あの山で育った。あの山の冬を知っている。これくらいの雪で死にはしない。
利吉は踵を返し、来た道を戻り始めた。
***
雪は、止まなかった。
黒は窓から外を見ていた。灰色だった空が白く変わり、やがて何も見えなくなった。雪が降っている。それもただの雪ではない。重く湿った、初冬の雪だ。
地面が白く染まっていく。最初は薄かったそれが、やがて厚くなり、足首を埋めるほどになった。それでも雪は降り続けている。
黒は囲炉裏の火を見つめた。言われた通り火は絶やしていない。湯も沸かしてある。だが野良は戻らない。
日が傾き始めていた。
黒は立ち上がり、戸口へ向かった。戸を開けると、冷たい空気と雪が吹き込んできた。視界は白一色だ。木々の輪郭すら霞んでいる。この中を歩くのは危険だ。方向を見失う。体温を奪われる。
黒は戸を閉め、囲炉裏の傍に戻った。
待つしかない。待つしかないと分かっている。野良は山育ちだ。雪の中で生き延びる術を知っているはずだ。どこかで雪宿りしているのだろう。明日の朝には戻ってくる。そう考えるのが合理的だ。
けれども黒の胸は、合理では収まらなかった。
野良が帰ってこない。
その事実だけが、胸の奥を締め付けていた。
***
雪は容赦なく降り続けていた。
利吉は膝まで埋まる雪を掻き分けながら、来た道を戻っていた。足が重い。一歩進むごとに雪が纏わりつき、体温を奪っていく。濡れた着物が肌に張り付き、芯から冷えていくのが分かる。
息が白い。吐くたびに熱が逃げていく。
視界は白一色だった。木々の輪郭すら霞んでいる。方向は分かる。迷うような歩き方はしてきていない。けれども見てきた景色も既に雪に埋もれかけている。このまま降り続ければ、やがて普段の山の姿は完全に消える。
利吉は足を止めた。
岩陰があった。雪を凌げる程度の窪みだ。ここで一晩やり過ごせば、明日の朝には雪も止むかもしれない。ただ止まない場合は閉じ込められる。去年の年末も三日外に出られない雪が続いた。利吉は少し悩んでその岩陰を通り過ぎた。
まだ進める。まだ歩ける。足は動く。指先の感覚はまだある。倒れるほどの無茶はしない。そう自分に言い聞かせながら、足を進めた。
欺瞞だと分かっていた。既に無茶をしている。この雪の中を軽装で歩き続けるのは正気の沙汰ではない。氷ノ山の吹雪に比べれば、などと言い訳をしたが、あの山のことは熟知していたし装備もあった。今の自分には何もない。
いや──違う。
黒が待っている。
その思考が、利吉の足を動かしていた。
風が出てきた。
横殴りの雪が顔を打つ。目を開けていられない。利吉は腕で顔を庇いながら一歩一歩進んだ。草木や景色はもう見えない。だが方角は分かる。山の稜線を頼りに来た道を逆に辿る。
指先の感覚が薄れてきた。
まずい、と思った。凍傷の兆候だ。このまま進めば、指を失うかもしれない。それでも利吉は足を止めなかった。止められなかった。
頭の中に、黒の顔が浮かぶ。
私も行く。そう言った時の顔。断られた時の、何かを飲み込むような顔。あの男は何を考えていたのだろう。ついてきたかったのか。それとも止めたかったのか。まだ逃げる気はあるだろうか。黒はどこかへ行きたいだろうか。
もしも自分が帰らなかったら。
その想像が、利吉の胸を締め付けた。
日暮れまでには戻ると言った。戻らなければ、黒は待ちきれなくなって探しに出るかもしれない。もしくは自由を得たと去って行くかもしれない。雪の中は移動しにくいが追いにくいのも確かだ。利吉には黒の気持ちが分からない。情が移ったと言っていた。利吉にはそれしか縋る言葉がない。
情が移ったのなら、いてくれるだろうか。探しに出てくれるだろうか。もしも黒が外に出て、そのまま帰らなかったら。
その想像だけで、利吉は芯まで凍えた。雪の冷たさとは別の、もっと深い場所が凍りついていく。
過保護だと分かっている。あの男も手練れの忍だ。自分より年上で、自分より経験がある。抜け忍として追われながらここまで生き延びてきたくらいだ。自分よりもよほどうまく生き残るに違いない。分かっている。分かっているのに──利吉には自信がなかった。
黒が自分のもとに留まってくれる自信がない。きっとあの男はいつか姿を消す。そう思っている。最初からそう思っていた。春になれば消える。春を待たずに消えるかもしれない。ある朝目を覚ましたら隣に誰もいないかもしれない。火が消えた囲炉裏と、冷たい敷物だけが残されているかもしれない。
それが今日かもしれない。
この雪を言い訳に、黒が消えるかもしれない。野良が帰ってこないから探しに出たのだと、そう言い残して消えるかもしれない。そしてそのまま、二度と戻ってこないかもしれない。
利吉は足を速めた。
無茶だと分かっている。倒れるほどの無茶はしないと言い聞かせたばかりだ。だが足は止まらなかった。止められなかった。
自分はもう駄目になってしまっているのだ、と利吉は思った。
もうとっくに。
あの白い曼珠沙華の野原で黒を隠した日から。いや──もっと前からかもしれない。崖下で倒れていた男を見つけた瞬間から。敵国の忍装束を着た、瀕死の男を見つけた瞬間から。
情報源だと言い訳をした。損得勘定だと言い訳をした。だが本当は違う。本当は最初から、あの男の何かに惹かれていた。あの男の目の奥にある、暗くて深い何かに。自分と同じ匂いのする何かに。知っていて、それを認めたくなかっただけだ。
分かっている。執着していた。それを認めてしまえば忍として終わる。認めてしまえば、完璧でいられなくなる。完璧でなければ自分には価値がない。父を傷つけた罪を贖えない。子供であることは罪だ。甘えは隙を生む。隙は大切なものを壊す。だから認めなかった。
認めないまま、首巻きを渡した。篭手を作った。敷物を、上掛けを作った。言葉にできないものを物にして差し出した。差し出しながらこれは合理だと言い聞かせた。冬は寒いだろう。怪我人は冷えるだろう。生存のためだ。全部欺瞞だ。
本当は、あの男に温もりを与えたかった。あの男の傍にいたかった。物を与えるたびに黒の目が揺れるのに期待した。世話を焼くと満更でもなさそうな様子に期待した。恩を着せかけて、過ごしやすくしてやって、あの男が自分のもとに留まってくれることを願っていた。
利吉は雪の中を歩きながら、自分の情けなさを噛み締めていた。
完璧な忍などではない。冷徹な合理主義者などではない。結局自分はあの頃のままの、臆病で執着深い子供だ。子供のまま大人のような顔をして生きてきただけだ。
風が唸る。雪が舞う。視界が白く塗りつぶされていく。それでも利吉は歩き続けた。黒がいる場所に向かって歩いた。黒が待っていてくれることを、まだあの場所にいてくれることを祈った。
どれほど歩いただろう。
利吉の足取りは、既に覚束なくなっていた。雪を掻き分ける力が残っていない。膝が震えている。指先の冷たさすらも感じなくなり、視界が霞み、身体の感覚がもうなかった。寒さのせいか、疲労のせいか、分からない。
集落まで戻れば、どうにかなる。
その一念だけで足を動かしていた。集落まで戻れば、軒先がある。最悪そこで火を起こせる。温まれる。そうすれば家まで戻れる。黒のもとへ戻れる。
だが集落は遠かった。
この雪の中を、山ひとつ越えなければならない。利吉は木の幹に手をついた。息が荒い。白い息が風に千切れて消えていく。足が動かない。もう一歩も進めない気がした。ここで座り込んだら二度と立ち上がれない。瞼の裏に黒の顔が浮かぶ。囲炉裏の傍で火を見つめている横顔。飄々としているようで時々ひどく脆い顔だ。あの顔をもう一度見たい。あの声を、もう一度聞きたい。野良──と呼ぶ、あの声を。
利吉は歯を食いしばった。
まだだ。まだ立っている。まだ歩ける。倒れていない。倒れるまでは歩ける。利吉は木の幹から手を離し、更に一歩を踏み出した。
雪が膝を埋める。冷たさはもう感じない。感じないのは良いことではないと分かっている。ここで雪を掘ってでも雪宿りをすべきだと分かっている。分かっているのに、足を止められない。死んでも帰らなければ駄目だと殆ど直感で感じて、利吉は雪の中を歩き続けた。
***
眠るつもりはなかったのに。
黒は囲炉裏の傍に座ったまま、火を見つめていた。薪をくべ、湯を沸かし、野良に言われたとおりにここを守っていた。待つしかないと分かっていた。だから待っていた。
けれどもいつの間にか、瞼が重くなっていた。
極度の緊張が、逆に思考の空白を呼んだのかもしれない。張り詰めすぎた糸がふと緩む瞬間があるように。黒の意識は気づかぬうちに夢の縁へ滑り落ちていった。
──赤い。
視界が赤かった。
赤い曼殊沙華が咲いている。あぜ道の両側に、血のように赤い花が群れ咲いている。その向こうで、家が燃えていた。
父が死んだ。
最初に目の前で斬られたのは父だった。敵を迎え撃とうとして斬られた。膝から崩れ落ちる父の背中を黒は見ていた。見ているしかなかった。
乳母が死んだ。
奥の間から悲鳴が聞こえた。駆けつけた時には、もう動かなかった。着物が赤く染まっていた。曼殊沙華と同じ色に。
母が死んだ。
自分を庇おうとして、背中から刺された。倒れる母の目がこちらを見ていた。逃げなさい、と唇が動いた。声は出なかった。
家臣が死んだ。
一人、また一人。斬られ、刺され、焼かれ、死んでいった。黒は走った。燃える家の中を走った。煙を吸い、火の粉を浴び、それでも走った。
死ぬわけにはいかなかった。みんな死んだ。みんな死んでしまった。自分だけが生き残った。生き残ってしまった。だから死ぬわけにはいかない。死んだら、みんなが本当に消えてしまう。誰も覚えている者がいなくなる。だけど──本当は思っていた。この命に価値などあるのだろうか。この頸に価値などないのではないか。家は落ちた。もう名は自分を守らない。消えた家の名だ。もう自分は消えた存在だ。それでも生きるしかなかった。生き延びるしかなかった。
走った。夜の闇の中を走った。赤い曼殊沙華を踏みつけながらあぜ道を走った。振り返れば家が燃えていた。赤い炎が夜空を焦がしていた。
走り続けた先に──白い曼殊沙華があった。
夜の先に、白い花が咲いていた。赤ではない。白い花だ。月明かりに照らされて、ぼんやりと光っているようだった。
その中に、野良がいた。
野良が立っていた。白い花の中でこちらを見ていた。黒は安堵した。ひどく安堵した。野良がいる。野良がここにいる。赤い世界から逃げてきて、白い世界に野良がいる。
助かった、と思った。野良の傍にいけば、もう大丈夫だ。
でも──。
野良は、動かなかった。
黒が近づいても、動かなかった。立っているのではなかった。横たわっていた。白い曼殊沙華の中に仰向けに横たわっていた。目が開いている。空を見ている。何も映していない目が、灰色の空を見ている。
息をしていない。
胸が動いていない。唇が青い。肌が白い。曼殊沙華と同じくらい白い。──死んでいる。
野良が死んでいる。
白い花の中で、野良が息絶えている。
黒は叫ぼうとした。叫ぼうとして、声が出なかった。喉が詰まっている。息ができない。膝が崩れる。白い花の中に倒れ込む。野良の身体に手を伸ばす。冷たい。氷のように冷たかった。
──嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
また失うのか。また奪われるのか。父も母も乳母も家臣もみんな死んだ。みんな死んでしまった。その上、野良まで。お前までいなくなってしまうのか。
白い花が揺れている。風もないのに揺れている。野良の顔に花弁が落ちる。白い花弁が動かない頬に触れる。黒は野良の身体を抱き起こそうとした。重い。重くて冷え切って、生きている人間の重さではなかった。死んだ人間の冷たさだった。この重さを知っている。父を抱き起こそうとした時。母を抱き起こそうとした時。同じ重さだった。
──野良。
──野良。野良。
声にならない声で、黒は名を呼んだ。呼んでも呼んでも野良は目を開けなかった。野良は動かなかった。野良は死んでいた。冷たくなって、死んでいた。
黒は目を覚ました。
息が荒い。心臓が暴れている。汗が背中を濡らしている。囲炉裏の火が赤く燃えている。その赤さに一瞬、夢の続きを見たような気がした。
──夢だ。
夢だった。
黒は自分の手を見た。震えている。止まらない。握りしめても震えが止まらない。野良がいない。相変わらず戻ってきていない。囲炉裏の向こうに野良の姿がない。狩りに出ている。まだ戻っていないだけだ。死んでいるわけではない。そう分かっているのに、黒は夢の恐怖から抜け出せずにいた。
白い曼殊沙華の中で息絶えている野良の姿が、瞼の裏に焼きついて離れない。冷たい身体の感触がまだ手のひらに残っている気がして、黒は思わず外を見た。
雪が降り続けている。白い──白い雪が、全てを覆い尽くそうとしている。
象牙色の、光を帯びた白い曼殊沙華とは違う。あの赤い夜に見た月のような、ひどく冷たい白だった。
後
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