台風一過


寝られない夜を過ごしたせいでくたくたになって一也と診療所に戻って来ると、有難いことに、台所の方からはもうカレーの匂いがしていた。
まだ夕方だというのに、既に夕食の支度が整っているなんて珍しい。
「帰ったか。今日はカツカレーだ。」とイシさんが言った。
「ありがとうございます!」
日頃からイシさんに毎日カレーがいいです、とリクエストしていた甲斐があったというものだ。
大鍋に一杯のカレーと、大きめの炊飯器に五合炊きされた白米。揚げたての小さなヒレカツは、カレーの上に載せて食べない村井さんのために一人一皿、付け合わせの千切りキャベツと一緒に乗っている。
朝起きて、目が覚めて、掃除をして、往診に行く。寝る前にノートを書く。最近は、珍しい症例や手術がなくとも、村の人の名前を覚えるために往診に行った場所や応対した人たちのこともノートに書き記すことにしていた。
そして、たとえ何も起こらず単調に思える日が続いても、毎日の食事だけは、夢に見たような食卓だ。
「今日は食べたいもんから先に食べりゃいい。」
K先生から早く寝かせてやってほしい、と言われてるからな、とイシさんが言った。
麻上さんは、私はいつもの時間に取らせてもらうから、二人とも先に食べてていいわよ、と言ってくれた。
手を洗って早速食べようという気持ちはあったけれど、乾いた家に入ると、ズボンやパンツがまだ湿っぽいのが気になった。一也と顔を見合わせて、先に着替えて来ます、と返事をした。乾いた着替えを纏い、洗濯物はいつものところへ置いて、とやっていると、洗面所で、顔や手を洗って来たらしい一也と行き会った。
「……なんだよ。」
「いや、前に帰った時はバタバタついてたから気付かなかったけど、なんだか奇妙な気分だよ。」
「あれをバタついてたの一言で片付けるのか?」はは、と笑ってしまった。
島村さんが入院して、ふたりでK先生の腹部大動脈瘤手術に立ち会った。あの日はあの日で、今回の嵐に匹敵するほどの大一番だった。肝の座り具合と言えばいいのか、それとも、どんな大手術も、これまでの村での経験と変わらないと言うことか。
まあ、一也が今、何を僕に伝えようとしていたかなんて、分かっている。診療所が、今の僕の居場所であるとしても、元々は、こいつの家でもあったのだ。
高校生だった頃には、僕が客だった。ショートケーキを手土産に買い、訪問しに来たこともあるが、今は、僕が帰省して来た一也にコーヒーを出す立場だ。
あの人の下で暮らし、こいつへの対抗心を外に出さないように【いい子ちゃん】の仮面を被ってここにやってきたあの日が、もう十年も前の話のように思える。
「そういえば、譲介はベッドをあのまま使ってるのか?」
「さすがに寝具とマットレスは変えた。勝手に使わせてもらってる。」
「あのベッドで大丈夫なんて、譲介は寝相がいいんだな。」
「別に、」寝相の問題じゃないと答えようとして、一也の方を見た。妙に気落ちしている、と言えばいいのか。
「悪いな。」
嫌みでもなく、そう思った。一也は、僕が部屋を占領しているから、別の部屋に通されて客扱いされることに違和感があるのだろう。自分の部屋が自分の部屋でなくなる。そうした変化にまつわる寂しさは、一也より、僕の方が良く知っているつもりだ。
「いや、別にいいよ。譲介が部屋を綺麗に使ってくれてる、って昨日は麻上さんも褒めてたぞ。」と言って一也は笑った。
「……別に、昔からの習慣ってだけだ。それに、部屋が汚くて勉強が身に入らないなんて、くだらない言い訳はしたくない。」
僕らはK先生に付いて学べるんだ、と言うと、「そうだね。」と頷いて、一也はまだぼんやりと廊下に突っ立っている。ひとりでいるときには感じないが、こいつがいると廊下が狭く感じる。大学に行ってまた育ったんじゃないだろうか。一瞬、一也が先代Kの遺伝子を持つ存在であることを忘れて、お前は一体いつも何を食ってるんだ、と口に出しそうになった。
クローンか。
実際のところ、誰かの遺伝子で身体が出来ていたとしたって、それは親と子と同じくらいのものだろう、環境が変われば、人間は変わる。
そうでも思わなければ、やっていられない。遺伝子が人を決めるというのなら、子どもを置いて蒸発するような父母を持つ僕が、この村の中で前に進もうとする決意だって、ただの悪あがきになってしまうからだ。
今更、この間は言い過ぎた、なんてことは絶対に口にしたくはないけど。
「おい、一也、続きはご飯を食べながらでいいだろ、せっかく揚げたてのイシさんのカツが冷める。」
「そうだね。」と一也は言った。
Kを継ぐ人間としての覚悟が出来てないとはいえ、こいつは僕よりずっと大人だ。
まあ、料理の技量は、同じ刃物を操る仕事にしても手際が悪すぎたけど。
豚汁の中に入れるサトイモが、まるで使い古した消しゴムほどの小ささになっていたのには、呆れてしまった。

食べるぞ、と歓び勇んでカレー皿に炊けたばかりのご飯を盛り付けていると、カトラリーを並べている一也と目が合った。
「譲介、それちょっとご飯多くないか?」
「いや、普通だけど?」と返したが、今日は一也もいるし、おかわりは難しいだろうと思ってちょっと多めに盛っているのは確かに事実だ。
「そうかなあ……。」と首をかしげている一也に「そういえばさっきの話、お前が気になるなら、いる間だけ部屋を替わってもいいけど。どうする?」と言った。
「いや、別にいいよ。勉強道具を持って移動するのも面倒だろ。」と見て来たように言う。
実際に見たのかもしれなかった。貴重品はK先生に預けてしまったので、時々麻上さんがコーヒーや夜食を差し入れに来てくれることを見越して、普段のあの部屋には特に鍵を掛けていないし、一也が昔の調子で扉を開けたとしても無理はない。
そういえば、本は床に直置きしているのもあった。応急処置の本はあの床に置いた積み本の中に入っているはずだ。今日のうちに見返しておく必要がある。それに。
「お前が来るなら掃除機かけないとだな。」と言うと、やっぱり遠慮しておくよ、と一也は笑った。
ご飯の上にカツを乗せてからルーを掛ける。冷静になってカレーの量はいつもより少なめにした。ルーは、たっぷり明日の昼までの分がある。
大きめのスプーンを使って口いっぱいに頬張ると、この味だ、という気持ちになる。
いつもはこの後の勉強のことを考えて気が急いてしまうのだけれど、疲れた体をいたわるため、かき込みたい気持ちを抑えて、ゆっくりと噛んで食べる。
「やっぱり労働の後にはカレーだな。」と言うと、一也は、「豚汁も美味しいと思うけど。」と言いながら遠慮がちにスプーンでルーを掬い、「……うん?」と言った。
インドカレーやネパールカレーの日もあるけれど、今日の『いつもの』カレーが僕は一番好きだ。市販のルーには違いないけど、スパイシーで、目がぱっと開くような味付けだ。
「イシさんのカレー、凄いだろ。」
「確かに。」
「これが、明日になったらもっと旨い。」
お前も帰る前に食べていけよと言うと、一也は目をぱちぱちとさせた。
「明日の月曜、一限は休校になって、二限からの授業なんだけど。……譲介がそう言うなら、ここでご飯を食べて少し遅れて行こうかな、って気持ちになってきた。」
そうか、授業か。
帰省はするけど、大学が長期の休みに入った訳ではないと、麻上さんが言っていた気がする。
「馬鹿、授業があるなら早く戻れ。親が出してるんだから、授業料を無駄にするな。」と言うと、「分かった。」と頷き、一也はおもむろに食卓の上から手を伸ばした。
ソース?
呆れたことに、こいつはカレーの上からカツにソースを掛けている。
邪道だな、と思ったけど、人のカレーの食べ方にケチをつけるのは主義に反するので口をつぐむことにした。
「卒業したら、ここに戻ってくるんだろ。いくらでも食べられる。」
「その頃には、僕も、いや……うん。カツ美味しいな。」
ここで、ドクターKにふさわしくなってる予定だ、と正面切って僕に言えるようなら、少しは見直してやったのに。
「僕のはやらないぞ。」と言ってカツを咀嚼する。
この村に来たばかりの僕がこれまでに受けた洗礼はひとつではないけれど、その中でも、診療所の『一也ちゃん』の戦歴を黙って聞く、というのは、かなり大きなウエイトを占めていた。ドクターTETSUに聞いた腹膜播種の施術の際の話を合わせて聞くと、中学の、僕と出会う前のこいつの方が、高校生になった実物より骨があったのではないか、とさえ思えて来て、かつてはそれが、本当に腹立たしかったのだ。
「そういえば、豚汁食べてる間に、皆、譲介の手際が良かった、って褒めてたよ。救急のテキスト、麻上さんに借りて読んでたんだって?」
「そうだ。」
あの譲介がねえ、といわんばかりの戎顔をしているので、憎らしいから脛を蹴ってやった。
「うわ、なんだよ、褒めたのに。」
「顔がうるさいんだよ。どうせ、昔の僕が救急を軽視してたことでも思い出してたんだろ。」
「……当たり。」
はは、と笑って頭を掻いている。
「おい、一也。後で今日の復習をするから付き合わないか。骨盤骨折の患者への包帯の処置はひとりじゃ難しい。」と言うと「いいよ。」と一也は朗らかに笑った。
「次に機会があったらシャドーもしないか。」と付け加えるのには笑ってしまった。
機会があったら、じゃないんだよ。
僕たちはやるしかないし、お前が僕と一緒にやりたいというなら、やるぞ、の一言でいい。
救命処置だろうが歯科医だろうが、何でもこなすのがドクターKだぞ、と小姑のように言うのも面倒になってきた。
「機会があったらな。」と言うと、一也は「約束だ。」と言って立ち上がる。
食べ終えたカレー皿をさっさと洗っている背中を見て、あの頃の自分に、一也の半分でも素直さを持ち合わせていたら、あの人にも捨てられずに済んだだろうか、と思う。
ふ、とため息を吐いていると、「いつもみたいにおかわりしたいなら、今日は遠慮しなくていいぞ。」とイシさんが言った。
違うんですけど、と言おうとして口をつぐむ。
「イシさんには、敵いません。」と笑って、残ったご飯にルーを足す。
人参とじゃがいもと豚こま肉の入ったご馳走を前にした僕は、この幸せな気持ちだけで腹いっぱいになれたらいいのに、と思い、いつものようにカレーを口いっぱいに頬張った。


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