腹の話(できてない利土)

 

 夜半を過ぎても、土井は眠れずにいた。
 現一年生を受け持って以来、胃痛など最早珍しいことでもなくなっていたが、今日の痛みは殊のほか堪える質のものだった。胃の腑を内側から握り潰されるような差し込みがいったん遠のいたかと思えば、息をつく間もなくまた襲ってくるのだ。伊作に出してもらった薬湯もとうに飲み干してしまっていて、こうなると膝を腹へ引き寄せて横向きになり身の内を通り過ぎていく痛みに耐えるほかない。明日は朝から授業がある。眠らなければと思うほどに目は冴え、その眠れないことへの焦りまでが胃を締めつけているようだった。
 伝蔵は今夜、見回りの当番で戻りが遅い。苦しむ姿を見られずに済むのはありがたかったが、ひとりきりの部屋で痛みを待つ時間は思いのほか心細い。浅く息を吐きながら痛みを耐える最中に戸を叩く音がしたのは、土井が次の波に備えて固く目を閉じていたときだった。
「──今晩は。まだ起きておられますか」
 聞き慣れた声に、土井はゆっくりと身を起こした。
「……利吉くん?」
「はい。学園長からの依頼を済ませた帰りなのですが、明かりが見えたものですから」
 戸を開けると、忍務帰りらしい利吉が立っていた。夜気をまとった髪がわずかに乱れ、肩には旅塵が残っている。けれども利吉は土井の顔を見るなり、挨拶よりも先に眉を寄せた。薄闇の中ですらも顔色が悪いなどというものではなく、唇からは血の気が引き、戸口に立っていることさえ辛そうなのに本人はいつものように笑って取り繕おうとしている。
「父上はこちらに?」
「今夜は見回りだよ。まだ戻っておられない」
「そうでしたか」
 短く答えながらも、利吉の目は土井から離れずにいた。隅々までを観察し、異常がないかを確かめる目だ。
「……顔色がよくありませんね」
「少し胃が痛むだけだよ」
「少し、という顔ではありませんが」
「そん──」
 反論しようとした土井の身体が、突然、折れるように傾いた。利吉は考えるよりも早く腕を伸ばしてその背を支える。掌越しに伝わる身体は冷えているのに襟元から触れた肌は妙に熱を持っていて、利吉は眉間に皺を寄せた。
「先生」
「大丈夫……すぐに治まる」
 大丈夫であるはずがない。昔からこの人はこうなのだ。自分の傷や痛みにはひどく鈍感な顔をして、他人が眉を曇らせれば何より先に手を差し伸べる。利吉は何も言わずに、土井に肩を貸して布団まで連れていった。水を汲み手拭いを冷やして戻れば、土井は腹を庇うようにして身体を丸めている。その姿があまりに無防備で、利吉は胸の奥が落ち着かなくなるのを感じた。
 いつもなら笑って頭を撫でる側の人だ。それが今夜は自分の前で、こんなに弱って見せている。──そう思うことに喜びを覚えかけた自分を、利吉はすぐに戒めた。苦しんでいる人を前に、自分は何を考えている。
「夜は何か召し上がりましたか」
「夕餉は少し……」
「薬は」
「飲んだよ。でもあまり効かなくて」
「では、医務室へ」
「この時間に新野先生を起こすほどのことじゃない」
 立ち上がろうとする気配を察したのか、土井は利吉の袖をつかんだ。ただ引き止めるための力の弱い仕草。それなのに利吉はそこへ視線を落としたまま、しばらく動けなかった。
「大丈夫だから、座っててくれ。もう少ししたら治まるから」
「……わかりました」
 利吉は仕方なく傍らへ座り、忍務先で見たものを取り留めもなく話し始めた。街道で荷車の軸が折れていて修補を手伝ったことや、城下で見かけた商人を装ったどこぞの忍の変装があまりに稚拙だったこと。帰り道でにわか雨に降られたこと。土井が返す相槌は短く、ときどき途切れたが、利吉は話すのをやめなかった。自分の声で少しでも彼の意識が痛みから逸れてくれればいいと思ったのだ。
 訥々と話を続け、そろそろ伝蔵も戻ってくるだろうかという頃合い。ふと土井が、不思議そうに腹に手を当てた。
「どうかなさいましたか」
「いや……」
 首を傾げたまま、土井は利吉の顔を見つめる。
「利吉くんが来てから、痛みが軽くなった気がする」
「私が来てからですか?」
「たぶん」
 そんなことがあるのだろうかと思いながら、利吉の胸は愚かにも満たされた。自分がここにいることが、この人の痛みを和らげる。そうであればよいと──ずっと願っていたから。
 昔、傷だらけで山田家へ運び込まれたこの人に、自分は何もできなかった。おのれの判断で薬を煎じることも追手を退けることもできず、夜ごと同じ布団へ潜り込み、その身体が朝まで消えずにあることを確かめるしかなかった。あのころから自分は彼にとって安心して眠れる場所になりたいと願っていたのかもしれない。利吉は平静を装って笑った。
「それなら、薬よりも役に立てたということでしょうか」
「そうかもしれない」
 土井は眠気を含んだ目を細めた。もうその答えだけでしばらくここを動けそうになかった。土井が眠るまではここにいよう、と決めた利吉が腰を上げたのは部屋の隅に座り直すつもりだったからだが、土井は利吉が帰ると思ったらしい。腹の奥がわずかに引き攣ったのか、顔を曇らせながら彼は利吉の袖をつかんだ。
「先生?」
「あ、いや……」
 離そうとする指には力が入っておらず、それでも縋るように布を握っている。利吉はその手を取ってしまいたい衝動を飲み込んだ。
「──利吉くん」
「はい」
「今日は一緒に、寝てくれないか」
 一瞬、利吉は聞き間違えたのではないかと思った。自分にとって都合のいい幻聴を聴いたのではないだろうかと。けれども土井は熱に浮かされたような目でこちらを見上げている。
「……ここで、ですか」
「昔はよく一緒に寝ただろう?」
「あのころ、私は十二でしたが」
 自分でも、ひどく間の抜けた返事だと思った。昔とは違う。もう十二の子供ではない。今の自分がどのような思いで彼を見ているか、この人は何も知らないのに。
「今は寝相もよくなっただろうし、問題ないよ」
「問題はそこではありません」
 利吉は額へ手を当てた。断るべきだ。この人は痛みと睡眠不足で判断が鈍っている。明日の朝になれば自分が何を頼んだのか思い返し、きっと気まずそうに笑うに違いない。そう分かっているのに──それでも土井が腹を押さえて再び苦しそうに浅い息を吐いた瞬間、拒むための言葉はすべて消え失せてしまった。
「……わかりました」
 これ以上苦しませるくらいなら、自分が耐えればよい。それだけのことだと言い聞かせ、利吉は帯を緩めて上着を畳んだ。

 布団は大人二人が並ぶには狭く、利吉が横になるとわずかに動くだけでも膝が触れた。分かっていたことだったが、改めて近すぎる。土井の呼吸も衣擦れも、布団の中へ籠もった体温もすべてが鮮明で、利吉は平静を取り繕うためにありとあらゆる呼吸法を総動員する羽目になった。幼いころはこの胸へ顔を寄せて何のためらいもなく眠っていたのに、今は袖越しに腕が触れているだけでも神経がそこへ集まってしまう。
「寒くありませんか」
「大丈夫……」
 そう言って土井は目を閉じたが、しばらくすると苦しそうに息を吐いた。唇の隙間から漏れる細い呼吸が静かな部屋ではひどく近く聞こえる。利吉は声を潜めて訊いた。
「まだ痛みますか」
「少しだけ」
「どの辺りです」
「胃の右側の……」
 この辺、と腹を指し示す土井の様子に、利吉はためらった。触れてよいものだろうか。土井の手は力なく腹へ添えられているだけで、痛みを和らげている様子はない。
「失礼します」
 断ってから、利吉は着物の上へ掌を置いた。腹へ触れると土井の身体はかすかに強張り、利吉も息を止めた。土井は浅く息を吐いて痛みを逃がそうとしている。
「押すと痛みますか?」
「いや……」
 利吉はゆっくりと、円を描くように掌を動かした。治療のためだ。これは痛みを和らげるために触れているだけで、ほかの意味は何ひとつない。そう自分に言い聞かせながらも、薄い着物を隔てた身体の温度が掌へ馴染むほどに胸の内には抑え難い熱が滲んでいった。土井が息を吸うたび、利吉の手の下で腹がかすかに上下する。そのたびに利吉は、自分がこの人の呼吸に直接触れているかのような錯覚に陥った。
「……利吉くん」
 掠れた声で名前を呼ばれ、指先が止まりかける。
「はい」
「もう少し……してほしい」
 そんな声で頼まれて、拒めるはずがなかった。
「ここですか」
 わずかに位置を変える。
「うん……そこ」
 そっとさすると、土井の眉間から力が抜けていく。少しでも楽になっているのなら嬉しい。嬉しいはずなのに──唇から漏れる息や力の抜けた声の響きが利吉の理性を少しずつ削っていく。そのくせ土井は細く息を吐きながら利吉の方へと寄ってくるのだ。額が肩口に触れ、予想していなかった温もりに利吉の喉は鳴った。
「先生、近いです」
「うん、布団が狭いから……」
 どこか寝惚けたような声でそう言って、土井は楽な位置を探すように利吉に頬を擦り寄せた。髪が首筋をくすぐり、吐息が襟元に触れる。利吉は天井を見つめ、呼吸を乱さないことだけに意識を集中させた。
 ──この人に気付かれてはならない。ずっと弟のように接してくれた人にもし気付かれたら、これからどのような顔を向ければよいというのか。けれども逡巡する利吉の様子に気が付いたのだろう。土井は途端に申し訳なさそうな表情になった。
「ごめん……嫌なら離れるよ」
 土井が身を引こうとするのを、利吉の手は反射的に引き留め腰を支えた。
「嫌ではないです」
 自分の声が掠れていることには気付いていた。けれども言い直す余裕はない。離れてほしくない。口にしてはならない一言は、どこにも行けないままに闇に消える。
 土井は再び利吉の肩に額を預け、今度は身体の重みまでを委ねてきた。頼られている。それだけでいいと思うのに、胸の内ではもっとこちらへ寄せてしまいたいという邪な思いが膨らんでいく。利吉はその衝動を腹を撫でる掌のうちに押し込めた。痛みを刺激しないよう、一定の速さでただ優しくじっくりと触れる。
「ん……、気持ちいい……」
 耳元で零れた言葉に、一瞬だけ手が止まる。もちろん彼に他意などないのだろう。痛みが和らいだことをそのまま口にしただけだ。わかっている──わかっているからこそ余計に困る。利吉は思わず手を引こうとした。
「……先生……」
「やめないで」
 土井の手が、利吉の胸元をつかんだ。
「もっとして……」
 利吉は目を閉じ、ひとつ息を飲み込んだ。忍務中、どれほど危険な状況に置かれてもここまで平静を失いそうになったことはない。
「……わかりました」
 どうにかそれだけを答えて、掌を再び動かす。胃の辺りを確かめるようにゆっくりと撫で、わずかに指の腹で圧を加える。土井の身体は触れるたびに微かに弛緩していき、その反応のひとつひとつを意識してしまって利吉は自分の指先が必要以上に熱を持っているように感じた。繊細に手のひらを動かし、抑えた声で低く問う。痛みに触れないように緊張しているのだと、土井が都合よく解釈してくれることを願いながら。
「ここは……?」
「そこは……少し痛い」
「では、もっと優しくします」
「うん……」
 土井の唇が、呼吸のたびに首筋に触れる。ほんの少し顔を動かせば、肌に触れてしまう距離だった。利吉は動かなかった。動けなかったのだ。土井が自分から寄ってきていることと自分が引き寄せることではまるで意味が違う。弱って判断の鈍ったこの人に、今まで胸に隠してきたものを押しつけるような真似だけはしたくなかった。
「……利吉くん」
「はい」
「もっと近くに来てくれないか」
「これ以上ですか」
「くっついてた方が楽そうだから……」
「分かりました」
 利吉は深くは追及せず、土井の身体を抱き寄せた。腕の中へ収まった身体は昔より大きい筈なのに、それでも成長した自分にとっては記憶よりもずっと心許なく感じられた。胸が重なり、腹に添えた手が二人の間に挟まれる。土井は何の警戒もなく利吉の肩口へ顔を埋めて深く息をついた。
「うん……楽だ……」
「それなら、よかったです」
 短く返す。それ以上の言葉を口にすれば、何かが零れてしまいそうだった。
「もう少し強くてもいいよ」
「このくらいですか?」
「ん……そこ。気持ちいい……」
 利吉はしばらく無言になった。声だけを聞けば、誰がどう考えても誤解するに違いない。当の本人が何もわかっていないことがひどく恨めしく、同時にひどく愛おしかった。
「その……。先生は、少し言葉を選んだほうがよろしいかと」
「どうして」
「……いえ。もうお休みください」
「眠るまで、やめないでくれ」
 胸元を握ったまま、土井がむずかるように小さく身じろぎをする。その身体を抱いている腕に力を入れすぎないよう、利吉は意識して指を緩めた。
「大丈夫です。やめません」
 低く答えると、土井の呼吸がゆっくりと整い始める。一定の速さで腹を撫でているうち、胸元をつかんでいた指からも次第に力が抜けていく。
 眠りへ落ちかけながら、土井は利吉の肩へもう一度頬を擦り寄せた。甘えるような無意識の仕草。利吉は目を伏せ、その髪へ唇が触れないぎりぎりのところで顔を止めた。
 ──この人は、明日になれば何も知らずに笑うのだろう。
 昨夜は助かったと言って、自分がどれほどの思いで朝を待ったかなど考えもしないに違いない。けれど、それでいい、と利吉は思った。今はただ苦しまずに眠ってくれればそれでよかった。
 利吉は眠り込んだ土井の腹を撫で続けながら、腕の中の温もりを逃さないよう、夜が明けるまでほとんど身じろぎもしなかった。



 その夜、見回りを終えた伝蔵が部屋へ戻ってきたのは随分と遅い時分だった。例によっては組の連中が部屋を抜け出し、なにやら裏山へ向かおうとするのを上級生を指し向かせて様子を見守っていたのだ。理由は拾ってきた狸の子を巣穴へ返すということだったが、夜更けに大目玉まで食らわせて少々気疲れした。さて漸く休むかと戸へ手をかけたところで──中から微かな声が聞こえてきて伝蔵は動きを止めた。
「……そこ、」
 耳に届いたのは、土井の声だった。低く抑えた少しばかりの苦痛と、それから甘えの混じった声。
「この辺りですか」
 続いて聞こえたのは、間違いなく息子の声である。
「うん……気持ちいい……」
「少し強くしますよ」
「だめ……優しくしてくれ」
「では、こちらは」
「ん……、もっと……」
 最後の方の声は掠れていた。伝蔵は音を立てず、戸から手を離した。一度廊下の先を見て、それから閉じた戸を振り返る。中へ入ってよいものではない。少なくとも父親が入るべき場面ではない。伝蔵は深く息を吐き、その夜は教室で眠ることにした。


***


 翌朝、土井が目を覚ますと、痛みはほとんど消えていた。
 傍らでは、利吉が横たわって目を閉じている。微睡ながらも土井を抱いていた腕だけは、眠ってからも緩ませなかったらしい。何やら昨日は色々と──彼に無茶を言ったような気がするが。
「利吉くん」
 声をかけると、利吉はすぐに目を開いた。
「先生……おはようございます。具合はいかがですか」
「ずいぶん楽になったよ。ありがとう」
「それは何よりです」
 利吉はいつもと変わらない顔で答えたが、ほとんど眠っていない様子なのは明らかだった。土井は申し訳ない気持ちになった。
「ずっとさすってくれてたのか」
「眠るまで、と頼まれましたので」
「ごめんね。昨日は眠気が限界で……。何か変なことを言わなかった?」
 利吉は一瞬だけ黙った。
「いいえ、特には」
「そうか」
 土井は安心したように笑い、利吉はその顔を見ながら、これから先もこの人が知らないままでいられるよう努めなければならないのだろうと思った。隠し通せる自信は──昨夜までより少しだけ減っていたけれど。



 廊下で土井が伝蔵と顔を合わせたのは、それから間もなくのことだった。久しぶりによく眠れたので昨夜とは打って変わって顔色がよく、足取りも軽い。伝蔵はしばらく黙ってそんな土井の顔を見つめたあと、できるだけ穏やかに声をかけた。
「土井先生」
「はい」
「学園内で仲良くするのも、程々にしなさいよ」
 土井は目を瞬いた。
 何のことだろうと考えてみたが、思い当たるのは昨夜、利吉に甘えて同じ布団へ入ってもらったことくらいだった。伝蔵の部屋でもある場所に勝手に泊まらせたという意味なら、確かに少し配慮を欠いていたかもしれない。
「すみません」
 土井は申し訳なさそうに頭を下げた。
「利吉くんが来たので、つい……」
 伝蔵の顔が何とも言えないものになった。親に対して土井は言い訳しないどころか、むしろ利吉が来れば仕方がないとでも言いたげな口ぶりだ。伝蔵は深く息を吐いた。
「最近の若い者は……」
 呟きながら歩き出し、ふと妻の顔を思い浮かべる。近ごろあれは利吉にそろそろ嫁を迎えてはどうかと折に触れて勧めていたはずだが、しばらく控えさせたほうがよいのかもしれない、などということを考え始める。少なくとも本人たちの間では──もう腹は決まっているということなのだろうし。





END

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