不器用


「エーコの居場所は、どこにでもあるやろ。私の居場所を奪わんといて!」

夜の寝床のおちゃらけた空気に、亀裂が入る。
出会った夜、借金取りとのごたごたの果てに離れの内弟子部屋での下宿を決めた奇特な子が、ずっと心の中に抱えていたものはこれか。
突然、腑に落ちた。




――ほんまに不器用なんです。

あんた、口ではそう言うたかて、不器用さでうちの志保に敵うもんは、なかなかおらんで。
あの子の言葉を聞いた時、神妙な顔を作れていたかどうかは分からんが、オレは心の中ではそんな風に思ってた。
それでも、世間というのは広いもんや。
あの夜の一言が言葉通りの意味だと分かるまでに、時間は掛からなかった。
味噌汁を作らせれば、ガス台に吹きこぼさせる。
卵を焼けば、堅焼き煎餅みたいなもんが出来る。
内弟子修行を始めたばかりの頃の草原、小草若、あるいは四草でさえ、ここまで不器用ではなかった。
それでも、ぶきっちょな三味線を弾く音が、離れから柔らかく風に乗って聞こえて来る夜に、布団を被って、眠気が来るのを待つと、幸せな夢を見た。
夢の中の志保は若く、元気な頃の姿をしていた。
三味線を抱え、姿勢を正し、無心にちりとてちんと弾く、出会った頃の志保。
稽古を積んだ者だけが至ることが出来る境地で撥を操り――それでも人並みの速さではあったが――どう、師匠、と挑むように顔を上げる志保。
「やれば出来るやないか、これならオレの高座を任せられる。」
自信を付けさせたろ、と思ってオレが笑うと「師匠、ほんまにそう思う?」と志保も嬉しそうに、オレに笑いを返す。
中身はそれだけの、短い夢だ。
目が覚めると、現実は変わらない。
オレは、飲んだくれの落ちぶれたクズのおっさんのままだ。
それなのに、オレをもう一度志保に会わせてくれた下宿人は「師匠さん」とオレを呼ぶ。
「……師匠さん。ご飯が出来ましたよ、か。」
毎日生きてさえいれば、飲んだくれのおっさんの前にも、蜘蛛の糸が垂れて来ることがあるらしい。二日酔いの頭を抱えながら、そんなことを思った。



「お嬢ちゃん、このうちに住んだら、ひとつだけええことがある――。」
落ち目の落語家が、そんな言葉で、下心のない方便ならともかく、ただ日々の酒手が欲しいがために可愛い女の子をだまくらかしてしまった。
「師匠さん、ご飯ですよ。」と張り上げる若い声を聴けるのが、誰かが毎日毎日作るメシを食べられるのが、かつての暮らしを思い起こさせる毎日が、単純に嬉しかった。
それでも、夜になると後悔がやって来た。
いくら喜六のようなところがあるからって、年頃のお嬢ちゃんを妙なところに住まわせてしまった、と空になった一升瓶を抱いて。
世間は相身互と言うやないか。一度預かった責任ちゅうもんもある。あの子にかて、故郷を飛び出て来る理由があったんやろ。
胸の中に浮かぶのはそんな言い訳ばかりで、そろそろ出て行ったらどうや、と言えないセコさに嫌気が差すたびに、手放すのはまだ早い、あの子はまだ子どもや、と自分に言い聞かせた。

――こういうぶきっちょなところを笑い飛ばせるような、落語家みたいな人種やないと、この子には嫁の貰い手がないかもしれんなァ。

――いや、嫁の貰い手て、あの子はただの下宿人やぞ。

時折、ちらちら、と頭の隅に、白い草原と黒い草原が出て来て、そんな風にオレに囁いた。あの子が、隣に暮らす草々のことを気に掛けているのはすぐに分かったからだ。
そんなみょうちくりんなことを考える余裕が出て来た代わりに、志保を失ってから長く囚われていた、白けた考えに取りつかれることは、もうほとんどなくなっていた。
何しろ相手は、毎日毎日、志保とオレ、弟子四人が一緒に暮らしたうちの台所で、茶の間で、庭で、泣いたり、笑ったり、愚痴ったり。
志保を失った後で、オレの手から離れて行った全てが、あの子の中にあった。
この三年で失くしたものの大きさに胸をふさがれるような気持になりながら、あの盛大にぶきっちょなところに、助けられてもいたのだ。



今夜はもう離れに戻ってしまったのかと思っていたら、洗面所から人の気配がした。
仁志も、ちびったい頃には、逆立ちやら逆上がりが出来んで、ようあそこで泣いてたな。
顔を洗えるから、涙を洗い流しやすいんや。いつかの日に志保が言っていた、そんなたわいのない言葉を思い出しながら、薬缶に水を入れ、火に掛けた。
お湯が沸く時間には、涙も止まるやろ。


「喜六、そこ座り。」
「師匠さん……。」
洗面所で泣いていた顔を濯いだのだろう。顔の周りの髪が濡れている。
茶葉を入れた急須に、コップに入れて粗熱を取った湯を注ぐ。
この子から入る下宿代がすっかりのうなる前に、新しい茶葉を買っておいてよかった。
そんなことを思いながら、安い茶葉で、安い茶を入れた。
緑茶なんてもん、茶葉の値段で決まる。
この茶は、オレが三代目草若として売り出したばかりで稼いでた頃の、志保が入れたあの茶より旨くなることはきっとない。
そんでも、今、この子にはこの茶が必要なんや。
オレが、高座で失敗したァ、と思った日の夜に、志保がこんな風にして茶を入れてくれたように。
志保、お前がおらん分も、オレがなんとか、この子を育ててみようと思う。



「菊江はん、久しぶりやな。」
「草若さんやないの。うちに顔を出すの、ほんまに久しぶりやね。座って待ってて、すぐにお茶でも入れるわ!」そう言って、オレとも志保とも長い付き合いだった人はカラッとした顔で笑った。
水屋からは、お湯がポットに入れてあったのか、あっという間に温い茶が出てきた。
玉露ではないけど、どこの新茶か、これは千円くらいの茶葉やろな、と思う。
「……仁志は、そっちに顔ちゃんと見せてる?」
「いや。ほとんど顔見るのは、うちやのうて、表にある小料理屋やな。この辺には寄り付いてないか?」
「そらもう、冬から春先にかけてうちの蜜柑減るの早いこと、」とそこまで言いかけて、彼女は慌てて口を噤んだ。ぷっ、と吹き出してしまう。
「仁志、まだここに顔出してんのか?」
うちにはよう足も踏み入れんヤツが、と思ったのが顔に出ていたのか、相手に(しもた! いらんことまで言うてしもた)という顔をさせてしまった。
外の陽気のせいか、気まずい沈黙に、また笑いたいような気持ちになる。
「あんなあ、仁志、時々志保さんのために線香とか買いに来るんよ。うちのお得意様。」
「そうか。」
ほんとにあいつは……いくつになっても親を心配させるヤツやと思ってたけど、オレの方が逆に、心配されてたのかもしれん。
「今日は相談があって来たんや。」と言って、単刀直入に、袂から扇子と手ぬぐいを出した。
手ぬぐいは、志保の持っていた形見で、随分と色褪せている。
「これ、もう一揃い欲しいんやけどな、志保、どこぞに頼んでたかな、と思ってな。覚えてるか?」
そう言うと、彼女は目を丸くして「もしかして、仁志が失くしたって言って来たん?」と小声になった。
そら、そやろな。
桜色は、昔っからおなごの選ぶ色ではあるけれど、昔っから、顔色に合うからとピンクのポロシャツやらを着ていたオレの影響か、仁志もこうした春の色が好きだった。
こないになったオレが、また新しい弟子を取ったと言っても、あの子はまだ高座に上がるのは早い。
それに、練習用なら、いくらでも別のがうちにある。
それは分かっているが、オレが、オレたちが伝える落語というもんが、あの子の新しい「居場所」であると本人に示すには、こういうのが一番いい。そのことは、弟子を四人育てて分かっていた。
「あの子の分や。」
「あの子、て喜代美ちゃん?」
「志保ならそうするやろ、と思ってな。」
ぽつりと漏らすと、菊江はんは「よっしゃ、久しぶりの草若さんの頼みなら、この仏壇屋の菊江が一丁やったるで!」と背もたれのない椅子から勢いよく立ち上がった。
「こういうのを特注で誂える店ならうちにも伝手があるわ。この洗い替えとスペアを暫く預からせて貰えるなら、声掛けてみる。」いつもながら、頼もしいこっちゃ。
「あんじょう頼むわ。あと、金は出すから超特急で頼んます。」
オレも立ち上がって礼をすると、彼女は、いつかまた、志保さんのとこに参りに寄らせてもらうな、と言って笑った。


明るい日の差す、散歩日和だ。
あれ以来、仁志とここで顔を合わせるのがちょっと気まずくなって、つい命日とは違う日に来てしまう。しゃがんで、花入れに、庭から摘んで来たたんぽぽを入れて、あいつが嫌う安い線香を付けて、手を合わせる。

なあ志保、ごめんな。
お前のお囃子でなければ落語はせん、と言った約束、破ってしもた。
言い訳かもしれへん。
そんでもな、海辺の小さい町で、お前と一緒に演じたオレの落語が、ずっとあの子の傍にあった。あいつの傍にも。
おくるみを着て、お前の腕の中で泣いてた小さい仁志は、小さい草若のまま、大きくなれんようになってしまったかもしれん。
後で後悔してたけど、親としては至らないオレの前で、あいつは寿限無をやってくれて。
それがオレには、本当に嬉しかったんや。

「志保。オレと、あいつらと、ぶきっちょなあの子を見守ってくれ。」
それから、オレが出来ん分、仁志のこともあんじょう頼む。
心の中で、そう言って手を合わせると、暖かい日の光が背中に当たる。

お前は、そこにおるんかな。

合わせた手を解いて立ち上がると、ただ誰もいない墓地があるきりだった。
草々と喜六のいる、あの家に帰る。
それは、オレやお前が思ってた未来の暮らしとは違ってしまったけど。
見ててくれ。
そう、思った。

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