正月三日


「はあ?」と四草が素っ頓狂な声を上げた時、オレはあいつの烏に水をやっていた。
立ち食いそば屋でうどんを奢らせた後、ひとりのマンションに帰るのが億劫で、その辺でお参りしてくか、と梅田の街をうろうろとしていたが、寒いし歩いてるうちにまた腹は減って来るしで、仕方がないからオレより近い四草のマンションに行って暖を取ることにした。
僕の部屋にも食いもんないですけど、と四草は言うが、どうせ探したらなんぞ出てくるやろ。
そう思ってあちこち探したら、一応、買い置きしてあったらしい餅と、味のりとツナ缶があった。
砂糖と醤油もあるし、朝から餅か。
まあ、正月らしくてええか。ハジメには内緒やで、と内弟子修行中におかんから教わった、あっちのじいちゃんばあちゃんちの雑煮の作り方も、今はすっかり忘れてしまったことや、烏に餌やってから一眠りして、焼いた餅食う正月にするか、と思っていたところに、いきなり電話が掛かって来たのである。
最初は女かと思った。普通なら、正月早々の電話はまあ新年の挨拶やろとは思うが、親がどこぞの金持ちの愛人だったと周囲に公言しているような図太い男は、親戚付き合いも絶えて久しいような様子で、内弟子修行をしている間も、誰からも電話が掛かってきている様子がなかった。時々こっそり仏壇に参りに行くと、「もう、おかあちゃん、ここは師匠さんのうちなんやさけ、どうでもいいことで電話掛けてこんといて!」と爆発していた喜代美ちゃんの時とは大違いや。
予想に反して、四草は姿勢を正して受話器を握っている。心なしか、顔つきもオレが家探ししていたさっきの様子とは違って来ているようだった。
「誰や。」と声を低めて聞くと、師匠です、と電話口を覆って答えが返って来る。
うっ……年明け早々、弟弟子にたかってることがオヤジに知れるのは恥ずいな。
横で一緒にあけましておめでとうございます、と言いたいのを堪えて四草の相槌を聞き流していると、ふたことみことの言葉を返したと思ったら、「はあ!?」である。
普段は腹が立つほど冷静が過ぎる男が、一応師匠師匠と言って顔を立ててるオヤジの前でここまで電話口でうろたえるということは、何かがあったに違いない。
まさかまたオヤジが詐欺に騙されたっちゅうこともないやろうが。
「おい、四草、何でかい声出してんねん。」と声を低めて言うと、弟弟子は無言で電話の受話器をオレに差し出した。
受話器からは「聞こえんかったんか、ケッコーーーン!!」と能天気なオヤジ……いや、師匠の声が高らかに聞こえてくる。
明るい声は、例えるなら声のライスシャワーだった。
ケッコン?
結婚?
まさか草々と喜代美ちゃんか?
草々と喜代美ちゃんが?
結婚?
出んのですか、と小さく言って、受話器を耳元に戻した四草は、はい、はい、と師匠の話に大人しく頷いて「小草若兄さんには、僕から伝えておきます。」と受話器を置いた。
「……おい、四草、ケッコンてなんや、事件か?」
口を開くととっさにボケてしまった自分が悲しくなってくる。
四草も(そんなはずないでしょう)と言わんばかりの冷たい目をオレに向けて来た。
……わぁ、バナナで釘が打てるでぇ。
まあ、草々のツッコミもないところでボケてもしゃあないな、と口を閉じる。
一年の計は元旦にありや、もう大人しくしとこ。
「若狭と草々兄さん、結婚を決めたそうです。」体感温度マイナスの視線のままで四草は言った。
「そうか。まあそうやろな。」
あいつ、ほんまアホやな。
エーコちゃんにフラれた時、惚れた女を見送った後で、逃した存在の大きさがどれだけ大きかったのか、身に染みて分かったんやろう。羹に懲りて膾を吹くとはあいつのこっちゃな、と口にしようとしたとき、オレが口を開きかけたのに被せるようにして「式は明後日だそうです。」と四草は言った。
「そうか、明後日か。」
明後日。
「場所はもう式場借りる金もないから草若宅に決まったそうです。草原兄さんにも声を掛けて、あの餅食ったら、座敷の片付けに行きましょう。そういえば、僕はない袖は振れないないですから、ご祝儀は小草若兄さん立て替えといてください。」
明後日、………明後日?
「……ええ!?」
でかい声が出た。
「何ですか、まさか金下ろし忘れたとか言わないでくださいよ。正月早々、草原兄さんの前で小草若兄さんと並んで頭下げるなんて僕は御免です。」
「あほか! 金の話で驚いてんのとちゃうわ!」
まあそんな包めるほど出したら後はATMで下ろすしかなくなるけどな。
「そんならいいですけど。」と四草はえらそうに肩を竦めた。
「あと、こんな時に飯食ったら仮眠したいから僕一人で行けとか呑気なことも言わないで下さいね。猫の手も借りたくて、寝床の大将たちや草原兄さんにも手伝ってもらうって師匠が張り切ってんのに、小草若兄さんは捕まりませんでした、とか師匠に言いたないですよ、僕。」
「いや、お前、そもそも明後日て……。明後日て言うことは、つまり、今日が元旦やから、一月三日やで?」
四草の部屋の壁に掛かったカレンダーを、オレは呆然として見つめた。
「そうですね。師匠も『これで今年は正月から一杯酒が飲めるでぇ♪』て、電話口で浮かれたこと言ってましたけど。」
オヤジ……。
「いつもみたいに酒浸りになりたいなら僕は止めないですけど、どうせなら式が始まってからにしてください。」
「まあ、そうやな。」
しかし四草、お前、師匠の真似、わりと上手いやないか……やなくて!
「お膳は寝床で準備するとして、喜代美ちゃんの婚礼衣装とかどうすんねん。」
「やっと頭が働いてきたみたいですね。どうせ写真も撮るんやろうし、小草若兄さんも、今から明後日着てく服も考えといた方がええんちゃいますか。考え直すなら今やで、て言えるくらいの格好は付けてくださいよ。師匠の紋付袴も、仕舞ったばかりですけど、また出しておかないと。」と四草が久しぶりに末っ子の気働きをさせている。
そんなん今は喜代美ちゃんのすることやろ、と思ったけど、今回はそうもいかないのだった。明後日には花嫁さんになる喜代美ちゃんを働かせる道理はない。
「……結婚かぁ。」
「一応はおめでたい話ですから、ご愁傷様とは言いませんよ。」
言うとるやないけ……。
全く、兄弟子に遠慮のないやっちゃ。
喜代美ちゃん……草々のとこにお嫁に行ってしまうんか。
失恋の胸の痛みを抱えながら、はあ、と大きなため息を付くと「セオーーーーーーーハヤミ!イワニセカルルタキガワノォ!」と一声烏が鳴いた。
うわ、びっくりした。
「さっき平兵衛に水やるの、ちょっと少なかったんとちゃいますか。」
「そうなんか?」と言うと、四草は頷いた。
「おい、四草、オレは烏に水やったるから、お前はその間に餅焼いとけよ。」
腹が減ってはなんちゃら、というやつや。
それにしても、好きや私もと告白して次の日には結婚が決まってしまうとは。
新年早々、落語みたいな話やな、と思いながら、しれっとした顔の鳥の横顔を眺めた。
結婚かあ………。
喜代美ちゃんが幸せだったらそれでええか、と思いながら、オレは餅網を出している四草の横で烏のための水を汲んで、またひとつ大きなため息を吐いた。

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