春薬は菫色 - ピネ

「──────ッ!!」
 一瞬にも満たない、ほんのわずかな油断がネイルの脳髄に強烈な衝撃を食らわせた。地上よりも成層圏に近い空の頂上で、ピッコロと手合わせをしていたときだった。
 神の御殿よりも上空、空気も薄く風の向く先も刻々と変わるそこは二人だけの修行場で、雲以外に何者の姿もありはしない。研ぎ澄まされた集中力で、お互いがお互いに紙一重で拳や蹴りをしのいでいたある一瞬、ふらりと黄金色の影がネイルの視界を横切った。あれは筋斗雲か、と認識すると同時、鈍く重たい音と打撃がネイルの横面を穿ち、くらりと視界を眩ませた。
「おい」
 予想外の一手が決まったことに驚いたのだろう、殴られた本人よりも面食らったピッコロが瞬きを繰り返し、慮る様子でネイルの肩に触れた。
「いや、すまない。思いがけない客に気を抜いただけだ」
「客?」
 最前には遥か遠くにあった筋斗雲が、ネイルとピッコロの声を聞きつけてだろうか、現れた時と同様にふらりと二人の側を巡り、無用とわかるとまた空を切る音を立てて飛び去って行った。なるほど訳が知れたという顔のピッコロは、一転して不満げに眉間に皺を寄せた。言葉にはしなかったが、そのいかめしい皺の山ひとつひとつがネイルの油断を責め立てる文言を連ねているのは明らかだった。
「悪かった。続けよう」
「待て、血が出ている」
「血? ああ……唇が切れてしまったのかな」
 ピッコロに言われ口端を親指で拭うと、そこには確かに血が滲んでいた。思いがけなかったのは、血が出ていたことよりもその量だった。芯を捉えた拳だったとはいえ、傷はそれなりに深いらしく、少し触れただけのネイルの甲にだらりと伝うほどに出血が多い。
「舌を噛んでるんじゃないのか」
「そうかもしれない。まあ、大丈夫だろう。そう気にするほどでも……」
 確認しようと舌を突き出したところでネイルの目に映るのは菫色の血を滲ませた舌先ばかりで、傷の如何は窺いようもない。神殿へと降りれば鏡などもあろうが、果たしてそこまで懸念することもないだろうと、ネイルは少し舌の左右を探ると口を閉じた。ところが、閉口する口に分け入るものがあった。
「おい、引っ込めるな」
 無遠慮に差し入れられたピッコロの指が、咥内へと収まろうというネイルの舌を捕らえた。ぎゅっと音が立つようにして舌の平を握られたネイルが喉で呻くと、一言「すまん」と呟きながらなおも舌を引きずり出そうとつまんでいる。ぬめる肉塊を鋭い爪先が掻き、ぞわりと背筋が粟立ってネイルはピッコロの手首を掴んだ。少しは悪びれろ、と睨みつけたところでピッコロは引かず、また爪が舌尖をなじる。
「ッ、やめないか」
 肩が跳ねるのと同時、ネイルは顔を振るようにしてようやくピッコロを振りきった。傷はずきずきと熱を持ちはじめ、存在を主張するように脈打っている。
「なんだ、もう治ったか」
 そう言ったピッコロの声には愉悦の気色が混じり入っていた。ネイルがその声音に顔を上げれば、ピッコロは隠そうともせず笑みを浮かべている。日ごろ愛想に欠けた貌が笑うとどこか悪どさがさすことはネイルにも覚えがあったが、それにしても意趣の含みを感じさせる笑みだった。
「わかっててやっているな」
「なんのことだか」
 止血した唇に残った血をこそぐようにして、ピッコロの指がネイルの口をなぞる。二人の漂う宙の下方では雲行きが変わり、白い水蒸気の束が少しずつ陰を作り始めていた。
「心配、してやってる」
 乾いた血の筋を爪がたどり、顎先に向かって輪郭を撫でる手つきはひどく緩慢で、思惑めいている。そんな高慢な気遣いがあるかとネイルは胸の内で反論を並べながら、言葉にはできなかった。二人の間に吹き込む風が湿りを帯びはじめて、神殿に戻ることを提案しようかと迷ったせいもあるし、背筋に走る柔いしびれが、存外、悪いものではなかったからかもしれない。
 ピッコロの第一指が傷あとをすべり、唇の隙間に触れた。解くべきか引き結ぶべきか、ネイルの逡巡を後押しするかのように雨粒がひとつ、ネイルの隙間に降り落ちて口内へとすべりこんだ。ほんのわずかなネイルの油断の隙に、ピッコロの指も分け入る。
「………甘いやつ」
 血のにじんだ口端にじわりと沁みる唾液は、たしかに少し甘かった。
 
 雨が、降り始めた。





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