手錠



今度の学会の開催地をNYにしておくから、ドクターTETSUとティファニーに行くといい。
譲介の三番目の師匠はこともなげに言って、楽しそうに微笑む。
こちらが熱烈に愛している相手のことを知っての、この顔である。
譲介は脱力した。
実際のところ、自分としては真剣に相談先を吟味したつもりだった。
人生のほとんどの時間を、診察や手術の時間以外は――勿論、会議やミーティング、食事も含めての話だ――何もかもをマイペースで進めていくタイプである人間・朝倉省吾は、一日の仕事を終え、弟子のために悩み相談室を開く。午前二時。互いに覚醒しながら、互いに少しだけ酩酊している。希少な時間だ。
譲介はこの短いボーナスタイムを駆使して、目下の悩みについて解消の糸口を見つけるつもりだった。
好きな人の指のサイズをこっそり測るにはどうしたらいいでしょうか、というのは、切実な問いの範疇に入る気がするのだけれど、こちらの真剣みが足りなかったのだろうか。
深いため息を吐きながらグラスを傾けると、琥珀色の液体の中には、残念だったな、と高らかに笑う愛しい人の面影が浮かんでいる。
くそっ。
「朝倉先生。せっかくですが、ティファニーには、あの人に合いそうな指輪はなさそうです。」と譲介が言うと、「ドクターTETSUの気質からすると、装飾品の類は身に付けてくれなさそうだね。」と先生は答える。
「そもそも、なぜそんな命知らずの冒険を考え付いたんだい?」
命知らず。
的確な表現過ぎて、譲介はぐうの音も出ない。
「今は落ち着いているとはいえ、かつては麻薬組織を壊滅に導いた立役者の首に鈴を付けようなんて。さすがはクエイドが誇るドクタージョーだ。」
朝倉先生はそう言って、ダメ押しするように口角を上げた。あの人『たち』が壊滅させたのがその麻薬組織ひとつきりではないことを知っている譲介は「僕も自分の勇気に驚いているところです。」と言った。
「でも、つまり人間には、愛する人のためには虎穴に入るしかないときもあるんです。」
「虎穴?」
コケツとは何だい、と朝倉先生が首を傾げたので、譲介は頭の中で手持ちの語彙を検索した。ええと。虎穴に入らずんば虎子を得ずと同じ意味の……。
「直訳すると『No pain, no gain』のことで。何かを得るために引き受ける痛みを、虎の巣穴に入って行く覚悟と言い換えた、ということです。元々の語源は中国の諺だったはずです。」と譲介が言うと、先生はなるほど、という顔になった。
六十過ぎのあの人が老若男女問わずにモテ過ぎるから不安なんです、なんていう悩みは、譲介にとって、非常に表面的で些末な問題なのだ。
そもそも、僕が命知らずなのではなく、あの人が命知らずなのだ。三十一も年の離れた、何もかもが規格外の人と暮らすにあたっては、虎の住んでいる巣穴に入っていくくらいの覚悟が必要だ。
そのことを、譲介は嫌と言うほどに気付かされた。


先月、ふたりで示し合わせて一週間の休暇を取った日のことだ。
どうせ外に行くならヨセミテの熊を見に行きましょう、と。
らしくもなく国立公園に足を延ばして、キャンプに行く予定を立てた。
国立公園のキャンプ場は、今時はトイレも綺麗に整備されていて、売店で何でもそろうので芋を洗うような込み具合だという。
ふたりきりの屋外ではないにせよ、あれをしようこれをしようと譲介はそれなりに楽しみにしていたのに、キャンプサイト、所謂テントを張るための場所は突然の雨で通行止め。引き返そうとしたところ、車のトランクに死体を乗せて運んできたマフィア同然のチンピラとエンカウントしてしまった。降りしきる雨の中、実際のところ、譲介に相手の素性が分かった訳ではないが、聞き取れるようになったカリフォルニア訛りがそう思わせたのかもしれなかった。
相手は当たり前のように武装しており、こちらはまあ丸腰ではないが、武器はナイフ、キャンプ用の火ばさみくらいだ。診療鞄の中にはメスを入れてあるが、こんな風に使う機会が生まれる想定はしておらず、取り出しにくいトランクの奥に仕舞いこんである。
二人対多人数という形で銃を持った相手と戦う羽目になった譲介は、彼の足を引っ張らないように動くしかなかった。三秒撃って伏せる、というアクション映画のお手本かと思うような敵に対してハマー三号を銃弾の盾にしたので、可愛いあの子の横っ腹にはいい感じに穴が開いた。ふたりが潜む近くで怒号が上がり、それはあっという間に雄叫びから悲鳴に変わる。彼は敵からの攻撃に落ち着いて対応し、迎撃に転じるや、明らかに高揚した声で掛かって来い、と言った。自分の居場所を知らせるなんて馬鹿じゃないですか、とつっこみたくなったが、うかうかしていれば、彼の死に水を取すのが今まさにこの時ということにもなりかねない。
彼も同じことを考えたのか、死ぬなよ、と言って譲介の頬に軽いキスをした。こういう時に唇ではないところが、らしいなと思った。続きは後だといわれて、譲介が本気にならない訳がないことも知り尽くしているのだ。
一か八かで投げたナイフは闇の中で、譲介は身一つで銃を持つ相手の前に躍り出た。高校時代に仕込まれた足技の方が慣れてはいるが、大学在学中に齧ったクラヴマガをやっと実地で試す機会が巡って来たわけだ。そもそも、この土壇場で、臆病風に吹かれたかとこの人に怒鳴られる方が、腹に鉛の弾を食らうより余程恐ろしい。
譲介の中で、あらゆる視界が開け、聴覚が鋭くなった。所謂チート状態だ。
「数発くらいなら撃たれても死なねえから楽に構えとけ、オレが治療してやる。」
譲介の隣でニヒルに笑うパートナーは非常に格好がよかったが、どうせ惚れ直すなら、出来れば互いの命の掛かっていないタイミングの方が望ましい。
死に物狂いで駆け抜けた捕物は、時間にすれば二十分程度のことで、なんとか重傷を負わずに犯人を警察に引き渡すことが出来た。勿論、張り切った後にめちゃめちゃセックスした❤みたいな展開になるはずもなく、真っ直ぐ帰路に就いた後は、部屋に戻った安心感のためか、玄関先で泥だらけのブーツを脱ぐ暇もなくスイッチが切れてしまった徹郎さんをベッドまで引きずって点滴をして、残りの休暇は、彼の主治医としてきっちり静養を促す羽目になった。譲介自身も、右の上腕が妙に熱いと思っていたら、着込んでいたヤッケの長袖には銃弾が掠めた跡があった。
アドレナリンが出ている間に一回くらいお願いしておけば良かったと思っても後の祭りだ。


「そもそも、僕の上げる指輪ごときで猫のようにおとなしくしてくれるような性質の人なら、こんなに苦労をしてません。」と言うと、先月のことの顛末を知っている朝倉先生は「君はあの人のそういうところが好きだと言ってたじゃないか、何をいまさら。」と笑って、グラスの中の酒を飲み切ってしまった。
そろそろお悩み相談室もお開きということだろう。
今夜は、朝倉先生に酒の肴を提供しただけで終わってしまったようだ。
「……装飾品と、あの人が思わなければいいんでしょうか。」
結局のところ、あの夜の運の良さが永遠に続くことを祈るばかりでもいられない。
揃いの指輪を身に付けてみたい、という気持ちはないではないけれど。譲介からあの人に贈る指輪は、出来ることなら、この世にあの人を繋いでおく錨であって欲しかった。
いつかの手錠の代わりとでも言えば、少しは面白がってくれるだろうか。

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