Fatigue

引き継ぎを終え、私物整理を済ませて職場を出る。
外はもうとっくに暗く、日の暖かさの名残りなどもうどこにもなかった。ダウンジャケットを着ていてもソウルの冬の寒さはあっという間に肌身に滑り込んでくる。

元麻薬課刑事のチョ・ウォノは寒さに体を震わせる気力もなく、ため息を一つだけ吐くと車へと歩き出した。夜の暗さの中で吐息だけが白い。ダウンジャケットのポケットに手を入れたまま、自分の車を停めてある区画を目指して駐車場を迷いなく横切っていく。
ロックを解除して乗り込んだ車内は、外と大して変わらない温度だった。ハンドルはひんやりとして、触れると手の温度はあっという間に合皮のグリップに移動した。エンジンをかけて、暖房のスイッチを入れると送風口から暖かい風が吐き出される。車内の温度が多所はましになるまで待つ間、ウォノは日を跨ごうとする今このときでさえ窓から光が漏れるかつての仕事場をじっと見つめた。この職場で刑事として感じてきた、緊張、正義感、逡巡、無力感、鬱屈、疲労。そのどれもが今は遠かった。ただひとつ、疲労をのぞいては。

組織の一員として、権力の側に立つものとして、一本道をわき目もふらず走るように生きてきた。だがそれも今日で終わった。警官として過ごしてきた日々が長かったのか短かったのか、自らの過去だというのに判然としなかった。
視野の中で、庁舎の一室の明かりが落とされた。誰かの長い一日が終わる。
アクセルを踏み込んで車を発進させた。車は滑らかに動き出し、もう来ることもないだろう職場を後にして、市道に滑り出た。

疲れた、と率直に思った。仕事にも、人生にも。

警官という職から降りて、身一つになると、いっそう疲労が身にしみてくるように思えた。すべて終わってみると、今の自分にはこれしかないと思うほど、疲労は何よりも身近で馴染んだものになっていた。

細切れにしか働かない思考とは対照的に、車は危なげなくソウルの夜を滑るように進んでいく。規則正しく並んだ街灯の下をウォノの運転する車は走り抜ける。次々と流れていく街灯の光を映し出すボンネットはまるで黒い水面のようで、のぞきこめばそこには疲れ切った自分の顔が映るだろう、と濁った思考でウォノは想像した。
余計な想像をして思考が散漫になると過去が甦る。こびりついた記憶の再訪を避けることはできなかった。「僕は誰?」という問いと、見上げてくる視線。ため息をつきたくなった。あの視線は、真正面から受け止めると心臓に薄くて冷たい刃を添わされている心地になる。
その問いが、俺を疲れさせるんだ、とウォノは思った。ここにいない人間の残した記憶の再訪などとっとと終わらせるに限る。そう思って終わらせようとしたとき、疲労の底で何かがうごめいた。
疲弊はたやすく怒りに変換される。一瞬ののちに、ウォノは拳をハンドルに叩き付けたくなった。どうしてそんなことを俺に訊くんだ!俺にどうしろっていうんだ!そうやって叫びだしたくなる衝動が腹の底から突き上がってくる。怒りが体を強張らせるのがわかった。

ウォノは、ハンドルを強く握りしめることでどうにかその怒りと困惑をやり過ごした。
ラクの存在そのものがウォノの疲れだった。

ずっと迷っていた。刑事をやめて、そこへ行くべきなのか。だが、今日ようやく道行きが定まった。これからどこへ向かうべきか、もう迷いはなかった。積もり積もった疲労が迷いを瓦解させた。もう迷いに費やせるエネルギーもなかった。
自宅に着くころには、怒りの衝動を抑え込んだことで体まで重く感じられた。おかしな話だ。何千キロも離れた相手に一人勝手に怒って、疲れるなんて。いないくせにあいつはいつまでも俺の疲れの中に居座っている。そうウォノは思った。
不在の輪郭を刻みこむだけ刻み込んで去っていった相手への恨み言が、口から弱々しく零れそうになった。マンションのエレベーターの中で体を端に寄せて、疲弊に憑かれた重い体を支えた。そうして5階までの数十秒を耐えた。

部屋が荒れているのか普段の通りなのか、それすら分からなかった。
多大な達成とともに帰ってくるはずだった。麻薬組織の末端を偶然にも拾って、そこから組織を崩壊させるはずだったのに、どうだこの有様は。音を立てて崩れたのは、自分の足元、人生だった。いや人生はとっくの昔からぼろぼろだったのかもしれない。

手に持ったスマホの画面の光だけを頼りに、明かりもつけないままベッドに倒れ込んだ。
その夜、チョ・ウォノは疲れ果てた頭をかろうじて働かせながら、ノルウェー行きの航空券を買った。

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