魔女王

 その森は、全体が背の高い木々で覆い尽くされていた。日光も月光も忍び入ることはできず、屋外でありながらもまるで建物の地下深くのように暗闇であった。それでいて毒性をもつキノコや植物が辺り一面に生い茂り、どこからか不気味な化け猫の鳴き声が響くこともある。十月末の亡霊祭りを毒々しく切り取ったような風景が、そこには存在していた。
 冷風でほのかに草木が揺れる中、その黒い影から、ふと浮いたように華やかな紫色がその身を現す。いつ死んでしまってもおかしくないようなその常闇の中を、まるで女王が我が城を歩くかのように悠々と進む美しい女性。異物の侵入を邪魔するがごとく立ち並ぶ木々達も、まるで彼女には敬意を払い道を開けて並んでいるように見える。
 やがて、そのつま先がある館の前で立ち止まった。ダイヤのマークが描かれ、植物が絡みついた古びた扉の前。彼女がそっと手を翳すと、厳重に錠がかけられていた扉は禍々しい音——甲高い笑い声や悲鳴にも聞こえる音——を立てて、彼女を歓迎するかのようにひとりでに開く。その先では、森の中よりも更に深い闇が続いている。彼女が手の先を静かに振ると、壁にかけられている蝋燭が一斉に灯った。各部屋の隙間からその様子を眺め、今にも飛び出す寸前であった悪戯なもの達はその瞬間に慌てて部屋の奥へ逃げ帰っていく(ここの主人は暗闇を好むので、その灯りはつま先を照らす程度の光であった)。彼女はそんな光景を前に、一度目を伏せる。そして何事もなかったかのように、小さな灯り達に歓迎されながら廊下を優雅な足取りで進んだ。
 不意に、彼女の足先にはひとつの階段が現れる。地下へと続くそれを降り、彼女の身は深くへと沈む。小さな炎で身の回りが照らされた程度の頼りのない道だと言うのに、女の行く足に迷いはない。石造りの階段が彼女の足に合わせて無機質な音を立て、この肌寒い空間で反響する。
 そして、彼女の足は階段から地面へと辿り着いた。館の外観は随分大きいものだというのに、地下にある部屋はたった三つだ。ただ真っ直ぐで狭い廊下を進んだ先、その最奥部に、まずは扉がひとつある。月の紋様が描かれたそこを開けると──まるで貴族の住まう寝室のような、広い部屋が彼女を受け入れる(奥の両端には、それぞれ残り二つの小部屋に入るための扉がある)。ここを寝室、と例えたが、しかしその部屋に寝具はなかった。その代わりに、少しの段差で高くなった一部の床に、ダブルベッドほどの大きな棺が置かれている。その棺には植物の蔦が絡みついている。
彼女はそっと、その棺へ歩み寄り──身を屈め──棺の蓋に、躊躇いもなく口付けをした。彼女──またの名を〝魔女〟──の唇を受け止め、蔦は糸がほどかれるように棺から離れていった。そこから数分が経ち、やがて棺はひとりでに音を立て、蓋が横へずり落ちる。
──棺の中では、黒灰色が特徴的な吸血鬼が静かに収まっていた。
「……人間からの奇襲でしょうか」
 目を覚ました吸血鬼・ダダドゥが、魔女の顔を認めるなり尋ねた。
 魔女と吸血鬼が住み着く森──そこは人間が立ち入るような一般的な森ではなく、彼女らのように特殊な性質を持つ〝魔物〟の住処となる森であった。偉大な魔女である彼女は、この森の統治者である。
 魔物と人間は、何もかもが違う。弱い人間とは違って、魔物には桁違いな筋力や不可思議な魔術がある。人間は自分達よりも凶暴な存在である魔物を恐れ、そしてまた魔物も、そんな人間から武器を向けられることを避けていた。人間は弱い生き物だが、しかしその分魔物よりもうんと群れの数が多い。牙や魔力を持たないかわりに、物を組み合わせて多種多様な武器を構えてくる。生き物単体としてはなんてことのないそれも、大人数で外付けの力を持っているとなると非常に厄介だ。結果として、魔女を含む魔物達は隠れて生きるに他なくなった。この森は全体が魔女・バウンセリアのテリトリーであり、人間の使う安全な森と魔物が潜む危険な森の境目には、スペードのマークが印された寂れた門が配置されている。罠が多数仕掛けられているそこに人間が足を踏み入れれば、ひとたまその危険な罠によって命を落とし、万が一生き延びたとしても、そこに潜む凶暴な番人によって捕らえられることになるだろう。更に番人の目をどうにか潜り抜けたとして、森の中心部──ハートの紋章が特徴的な魔女の塔──へ辿り着く前にも、人間は再び排除される。魔女の塔付近の地面に敷かれている、クローバーのタイル。そこを沿って歩いた先には怪しげなサーカステントがある。そこに隠れている道化師のばらまく花の毒によって、塔へ近付いた侵入者は正気を失う。やがてイカれた脳は、毒蛇のような茨が敷き詰められた大穴の中へ自ら落ちていくだろう。
 かつてのこの森は、もう少し大人しいものであった。しかし、魔女達は人間との戦争を経験し──やがて自分達の身を守るために、森全体で警戒することを選んだのだ。
 吸血鬼は上半身をゆっくりと起こすと、何度か手を動かして己の力具合を確かめた。そして再び顔を戻した彼に向かい、魔女は言う。
「あら、わたくしはただ貴方に逢いに来たのよ」
 魔女・バウンセリアは甘えるように小首を傾げた。吸血鬼・ダダドゥは、少しの沈黙の後、静かに答える。
「──しばしお待ちを。すぐにもてなしの準備をさせましょう」

◇

 先程まで静まり返っていたその寝室も、今では魔女を歓待するために様々な飾りや嗜好品が机の上に並べられている。二人の手にあるグラスの中で、吸血鬼の開けた葡萄酒が傾いて静かに波打つ。それはかつて二人の友人である画家が、しばらく人間界へ溶け込んだ時のお土産として彼らに渡したものだ。魔物が人間のような食事を摂る必要はないが、稀に娯楽として楽しむことはある。
「事前に連絡をくださったのなら、より貴女を歓迎するに相応しい準備をしていたのに」
 ふいに、吸血鬼が呟く。その拗ねたような態度に魔女は「あらあら」と笑ってしまう。彼はひとつ誤魔化すように小さく咳払いをした。
「──しかし。貴女がこうして頻繁にここを訪れてくださるのは、喜ばしいことだ」
 館の中は森同様に日光や月光から拒絶されたように暗く、建物内にある時計は全て針が止まっている。吸血鬼は自分がどれ程の時を棺の中で過ごし、そして彼女が再び訪れるまでにどれ程間隔が空いているのかをうまく理解することができなかった。
「……ええ、そう」
 魔女は目尻を下げ、グラスを置いた。彼の頬に手を伸ばす。その凶暴な牙を手先で撫でると、吸血鬼は彼女の意図を汲んだように自分もグラスを置いた。
柘榴の香りが、部屋に充満していた。
 今度は吸血鬼の手が、自身の頬と牙を撫でてくる魔女の手へと伸びる。紫の手袋に覆われた手が彼女の手を(強い力で握り潰してしまわぬように)そっと握り、彼の身が魔女へ擦り寄る。二人は恋人のような情愛を交わし──やがて、彼の口は魔女の皮膚へ付けられる。そして歯の先がその肌へ突き立てられるも、彼女は突き放すことも怯えることもなく、ただ彼を受け入れて両の腕で包み込んだ。
吸血鬼の牙が少し沈むと、魔女の口からは艶かしい嬌声が漏れる。牙もなければ大きさも小さく、いつも美しい声の響くその口を、彼はたいそう愛おしく思っていた。吸血鬼の唾液には、人間から効率的に血液を搾り取るために鎮痛効果──そして〝媚薬〟効果が含まれている。魔女が痛みを感じていないことを確認した吸血鬼は、より牙を深く沈ませ──そして彼女の血が、彼に呑まれていく。
 魔女の血は人間のものとは大きく違う。通常人の血液を食料としている吸血鬼にとっても、魔女の血液は猛毒となる。しかし彼は目の前の魔女と忠誠の契りを交わしていたために、その毒が彼の身を蝕むことはなかった。魔女との契約により、彼の身体の全てが彼女の一部となっているのだ。毒は微かに体内を痛めつけたが、それはさして香辛料とかわりのない程度だった。吸血鬼でありながらも使い魔でもある彼の身体は、主君である魔女の血で大いに悦ぶ。そしてそれを自身の活力として吸収する──

──本来であれば、そのはずであった。

 元々、彼は吸血鬼としてこの館に住み着いていたわけではなかった。ここは確かに吸血鬼・ダダドゥのテリトリーではあったが、しかし彼の主な滞在場所は魔女の塔であった。完全なる吸血鬼となる前──気高き"騎士"であった頃のダダドゥは、主君であるバウンセリアを守るためにその隣に立ち、常に傍で彼女の身を守り続けた。館は、たまに彼が私用で使う程度の建物でしかなかった。
 かつて魔物と人間の間で起きてしまった戦争。そこでの彼の強大な力、そして好戦的なその立ち振る舞いは、争いが終わった後でも人間達に厄介な恐怖を植え付けてしまった。〝あの恐ろしい魔物を討伐しなければ〟と、再び名乗りをあげる人々がいるらしい。腕利きの魔術師でありながらも科学者として人間界に混ざりこんでいる年配者が、かつて魔女に警告した。
 これをそのまま彼に伝えたとしても、きっと彼は「ならば鏖殺すれば良い」と、軍勢に対抗しようとするだろう。自分達で力を合わせればそんなものは脅威でもないはずだと、彼は頑なに信じ込んでいる。しかし現実としてその結果が芳しくないであろうことは、彼以外の全員が理解していた。彼の主人である魔女は、自分達の平穏を守るために彼を封印する必要があった。もうこれ以上人間のあいだで話が広がらぬように──〝恐ろしい魔物は封印された〟という事実で人間を落ち着かせるために──戦いで手を抜くことはなく、常に真っ向勝負で挑もうとするような彼を押さえつけるには、そうするしかなかったのだ。魔術師は、そのための方法を魔女に教えた。自身の血に〝眠りの毒〟となる魔法を混ぜ、世界で一番感心するほどに真っ直ぐな彼へ、それを与えろ、と──魔術師は吸血鬼の親しい友人でもあったが、しかし彼のせいで森が壊滅するのも彼自身が完全に死亡してしまうのも、本意ではなかったのだ──そして、魔女はそれを実行するにほかなかった。彼に勘づかれないように、初めは少量ずつ魔法を加え、段階を踏んで彼が長く眠るように仕向けた。元より魔女の血は、彼にとっては香辛料ほどの刺激がある。少しばかりその中に違う毒が混じっていたとしても、吸血鬼がすぐに気付くのは難しいだろう。そしてやはり、彼はあっさりと罠に捕らわれた。魔女を慕い盲信し、ただ愛し続けていた彼の身体はもう後戻りできないほどに彼女の毒に犯されている。人間ならば触れるだけで悶え苦しむようなその禍々しい血も、吸血鬼にはまるで林檎のように甘美だ。ダダドゥがバウンセリアのその血を喰らう度に、魔女の魔法──〝毒〟が、彼の体を蝕む。剣を取り上げられた騎士は無力な子供のような存在として、この森の母である魔女の腕の中に囚われている。彼の背に回された彼女の両腕により一層力がこもる。それをどう解釈したのか、彼はただ優しい熱に浮かれて彼女の肌を撫でる。
 そのうち──彼は、彼女の口づけなしでは二度と起き上がれない身となるだろう。魔女の塔に隠された森の奥深くにある館の中、その地下深くに置かれている棺桶の中で、死んだように眠り続けるのだ。

永遠に、魔女の口づけを待ち続けながら。

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