mirage
――鼻をくすぐるふくよかな香りに誘われ、アルジェンティの意識はわずかに浮上した。
次に知覚するのは音だ。カン、トン、控えめに何かがぶつかったり触れ合う音。それから……小さな……これは、鼻歌?
音程すら聞き取れないほどかすかな歌声。それでもわかるのは、その歌に愛が満ちているということだ。耳を傾けているだけで幸福感に包まれる――こんな歌を歌うのは、きっと――。
重たい瞼を持ち上げる。輪郭の滲んだ視界に、白い髪がふわりと揺れたのを見た。
「……イドリラ……さま……」
「おっと。目ェ覚めたか」
耳に飛び込んできた声と、振り向いたその人の姿を結びつけるのにはしばしの時間を要した。黒の混ざる長い白髪を後頭部で括り、窓からの光を鈍く反射する機械の身体にエプロンを装着しているシルエットは全体的に見慣れない。だがたしかにその人は、アルジェンティの知る正義の巡海レンジャー――ブートヒルなのだった。
「……ブートヒルさん……? どうしてここに……」
「穹に頼まれた。列車に立ち寄ったアンタがいつにも増しておかしいから様子見てきてくれってよ」
シンクに寄りかかってブートヒルは小首を傾げ、室内をぐるりと見回した。朦朧とした頭でたまたま見つけた安いモーテルだが、設備はしっかりとしている。アルジェンティの長躯を乗せても余裕のあるベッド、小さいながらも最低限の機能は備えたキッチン。それから冷蔵庫まで。
「宇宙コカトリスを討伐したその足で列車に乗り込んだらしいな? あのモフモフの車掌がお怒りだったぜ。でかい頭を置いていかれたって」
「それは……申し訳ないことを……」
「ついでにここの管理人にも謝っとけ。こんな小せぇ冷蔵庫にコカトリスの胸肉をぶち込むんじゃねぇ」
だんだんと記憶が蘇ってくる。たしか自分は……栄養をとらねばと考えていたのだ。そこにちょうどよく、宇宙コカトリスに悩まされている星の住人の声が飛び込んできて……とりにくは体にいい、と思ったのは覚えている。それから、こんなに大きなお肉なのだから我が友にもお裾分けしなければ、と思ったのも。
そもそもどうして栄養をとらねばと考えたのだったか。ぼんやりした思考はなかなか答えに辿りつかない。そうこうしているうち、また背を向けて何やら作業をしていたブートヒルがエプロンを外して枕元に歩み寄ってきた。
「しっかし、アンタも風邪なんぞ引くんだなァ。そういうのとは無縁かと思ってたが」
「かぜ……」
ああ。風邪。
得心してほっと息をつく。そうだ。あまりにも久しぶりで忘れていたが、これはいわゆる風邪という。だから栄養をとらなくてはならず、だから列車には留まらなかったのだ。うつしてしまってはいけないから。
「いけません、ブートヒルさん……風邪がうつってしまいます……」
「機械の身体のどこにウィルスが感染するって? アンタのそれがオムニック風邪だってんなら別だけどよ」
ブートヒルは言いながら、ナイトテーブルに鍋敷を放り投げその上に小さなココット鍋を置いた。蓋を開ければ間近に芳醇な香りが漂う――アルジェンティの意識を呼び戻した、あの香りだ。
「ミルク粥だ。お望みどおりコカトリスの肉も入れといたぜ」
器に取り分け匙と一緒に供されるのを、アルジェンティは横になったままぽかんと見つめていた。ブートヒルは眉を上げ、片手でアルジェンティの額に触れる。ひやりと冷たい感触に首をすくめた。
「おっと、悪ぃな。……起きられないほどキツいのか?」
「い、いえ……少し驚いただけです、申し訳ありません」
すぐに引っ込められてしまった手を追いかけるように上体を起こす。「驚いたというのは、その、」ああ、言葉がうまく出てこない。彼の美と愛に対する賛辞をこれでもかというくらい並べ立てたいのに。
「……貴方に料理を作っていただいたという事実に、です。なんという食欲をそそられる香りなのでしょう……」
「へっ。らしくねぇって?」
「まさか! おやめください、ブートヒルさん……僕はそんなことは思ってもいません」
「わぁってるよ。その顔やめろ、キラキラが刺さってきやがる」
アルジェンティに器を受け取らせ、ブートヒルは傍に椅子を運んできて腰掛けた。と思えば、「ちょっと横向きな」と中腰になってアルジェンティへと手を伸ばす。
髪が緩く引っ張られる感覚。アルジェンティの長髪を手早くまとめてみせたのは、今の今までブートヒルの後頭部にあった髪ゴムだ。
「飯食うには邪魔だろ。使っとけ」
「感謝します、何から何まで……完治した暁には、貴方の善意に最大級の礼と賛美を送らせてください」
「だったら黙って食え。オレにとっちゃあそれが礼になる」
まだ言葉を紡ぎたくなる唇をぐっと引き結び、アルジェンティは匙を手に取った。くるりとかき混ぜれば優しいミルクの香りが湯気と共に立ち上る。
匙を口元に運んで、少し息を吹きかけ、口内へ。死闘を繰り広げた鶏の肉はよく煮込まれほろほろと崩れて、噛む必要もないほどだった。
「……美味しい。見習いの騎士として旅をしていた頃、貧しい家から慈悲をもらって分けていただいたバゲットとスープの味を思い出します……」
「はぁ?」
「あのときのスープは非常に簡素な味付けでしたので、似ても似つかないものではあるのですが。そうではなく……あのスープもこの粥も、ここには愛が満ちています」
「……一口食ってそれかい。食べ終わる頃には冷えきっちまうぜ」
「それはいけません。貴方からの愛を凍てつかせるなど」
「妙な言い方をするんじゃねぇ」
慌てて食べ始めたアルジェンティの姿を眺めながら、ブートヒルは「愛、ねぇ」と胡乱げに呟く。
「オレもラブリーだのハニーだの言わされてるがよ。アンタと同じように、マジでそいつを信じてるヤツらもいるわけだろ――そこかしこでゴミ溜めみてぇなことしか起こらねぇ銀河だってのに、だ」
背もたれに頬杖をついて、その眼差しはうんざりしたように顰められている。アルジェンティはちらと目を上げ、しかし匙を運ぶ手は止めなかった。
「オレぁな、そういうマジの連中とはできるだけ事を構えないようにしてんだ。話が通じねぇからな……だからこそニオイですぐにわかる。そいつの言う“愛”とやらが目的なのか、それともただの手段なのか」
いつからか、ブートヒルの視線がじっとこちらに注がれていることに気がついた。細めたレティクルの眼差しが、検分するようにアルジェンティの一挙手一投足を見つめている。
アルジェンティはその瞳を甘んじて受け、残り少ないミルク粥を匙に乗せてから尋ねた。
「では僕は、どちらだと思われますか?」
「アンタはどっちでもねぇ。愛よりもっと先にあるモンなんだろ、純美ってヤツは」
「おや。純美の精神をそのように理解していただけて、非常に光栄に思います」
最後の一口を咀嚼し、しっかり飲み込んだのちアルジェンティは「ご馳走様でした」と一礼した。顔を上げ、ブートヒルの眼差しを見返す瞳には一分の揺らぎもない。
「ですが、僕はこう考えているのです。純美と愛、善、それらに後も先もないと。この宇宙のどこにでも純美は存在し、それは同時に愛であり善なのです――嗚呼、イドリラ様に栄光あれ」
「……ハァ、なんだっていいぜ。アンタも話が通じねぇ連中のひとりだってことはもうわかってるからな」
ブートヒルはアルジェンティの手から器を取り上げ、手早くシンクへ片付けた。飯食ったら早く寝ろ、と髪ゴムを取ってシーツを被せられるのにあらがわず、アルジェンティは再び枕に頭を預ける。途端に瞼が重たく瞬いた。
「……ブートヒルさん。本当にありがとうございます……貴方がいなければ、僕はどうなっていたことか……」
「風邪ひとつで大袈裟だな。どうにかなってたのはここの冷蔵庫だけだったろうよ」
「嗚呼……非常に美味なコカトリスでした。彼の命にも、感謝を……」
眠気で半分呂律の回っていないベッドの住人に苦笑し、ブートヒルは彼の額にそっと手を伸ばした。触れるかどうかの距離で躊躇ったその手に、アルジェンティは自ら頭を寄せる。
「ブートヒルさん、僕は……目を覚ますとき、貴方の後ろ姿に……イドリラ様を幻視したのですよ」
「……ああ?」
機械の手はひんやりと冷たく、熱を持った身体には染み入るような心地よさだった。これが自分の知る、彼の“ぬくもり”だ。目を閉じて深く呼吸すればほのかにミルクの香りがする。
「イドリラ様こそ、純美のあらわれ……貴方の愛を、僕は……たしかに見たのです……」
ああ、瞼がもう持ち上がらない。その姿を目に焼きつけておきたいのに。
ブートヒルは黙り込んだまま何も言わず、彼が浮かべた表情すらも確認することは叶わなかった。するりと額が撫でられ、離れゆくぬくもりが寂しくてたまらない。
「ブートヒル……さ……」
それは彼からの慈悲であっただろうか。
憐れみでも、一瞬の戯れであったとしても。敬愛する女神と己の信念はそれを愛と呼ぶのだと、アルジェンティは知っていた。
銀河のどこであろうと変わらぬ愛の形――額に触れた柔らかな感触にほうと息を吐く。そうしてゆっくりと、安寧の眠りに身を委ねた。
了
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