明烏はまだ鳴かぬ【恒刃】
この男はたとえ新たな力を得てしても、さしてその生活が揺らぐことはないらしい。
それもそうであろうが、妙に不思議な心地になるものだ。おそらく目に見える齟齬が、なんらかの影響を自分に与えているのだと思う。あるいはあの女からの暗示だ。深く深くかけられた言霊は意識を濁し、今目にしているものが現実のものか記憶のものか、判別しがたい瞬間がままにある。
男がなにを考えているかは知れたことではない。だが、奴は自分を傍に置いた。くれぐれも邪魔をしないでくれと前もって言われたような気がするが、それすら刃の頭に響くことはなかった。なにしろ列車のなかで一番静かな場所といえばアーカイブ室のほかにないゆえ、万一のことを想定してもここが唯一安全となるだろう。ここで言う安全とは無論、刃本人を示すものではない。
静かだ。機械の駆動音が静謐を妨げているが、それでも不快な音はしない。
本のページがめくられる音。ペンの先が紙を通し、机をこつこつと叩く音。
聞いているだけで、秒針が進む。短命種であった頃に比べれば退屈な一時に違いないが、生憎昔のことは朧に染まっていた。
やがて瞼が重くなり、瞳を閉じる。最低限の音を聞き、ありあまった時の砂が落ちていくのをひたすら待つ。だが、待った先に求めるものなどなかった。だからいつまで待てばいいのかもわからないし、なんのために待つのかも知り得たことではない。
ひたすら待つ。ひたすら、ひたすら。
目を開ければ、天井の消灯は既に落とされていた。
データの整理が終わっていないのかモニター画面のみが煌々とひかり、周囲を照らしている。鉛を引きずるように視線を動かせば、そこには黄金の角があり、深く目を閉ざした男の姿が目の前にある。
男ふたりでは狭すぎる布団の上。どちらかの片脚が飛びだし、どちらかの背が大きく褥をはみだしている、滑稽な状況。すうすうと正しく寝息を立てている顔に苦悶の色は見られなかった。
別段寝苦しかったわけでもなく、喉が渇いたわけでもない。ただ、目が覚めた。それだけのことだった。
腕が、伸びる。
無防備に眠るそれを不思議に、ほんとうに不思議に思いながら手を伸ばし、首元をく、と掴んだ。それでも男はなんの反応を示さなかったので刃のなかの疑念は泥のように深まり、なにがしたいわけでもないくせして、掴んだ首へちからを込める。
少し、少し。少しずつ力を増していって、とうとう喉仏を潰した感覚があった。それでも男は反応しなかった。少しは呻いたりなんだりをしてもいいはずなのに、それすら皆無で訳がわからなくなる。意味がわからないのだ。これほど無防備に、敵意もなく、急所を容易く触れさせる男がわからない。
しばらく刃はもっとちからを込めるべきか、離すべきかを迷っていた。こんなことをしても無意味だということはわかっている。否、わからなかった。自分はこの男を殺したいのか、そうではないのか。
「……眠れないのか?」
やっと、男から反応があった。声が先に伝わり、次いで黄金を宿した灰青が現れる。
「言霊はまだ抜けていないようだな。俺がわかるか?」
わかる、というのは、存在認識が可能という意味合いでだろうか。どうにも判断しにくく返事をしないでいると、「そこまで酷い発作だったのか?」と眉をひそめ、違う面を気にかけられてしまう。
すると今度は向こうから腕が伸びて、刃の身体を引き寄せてきた。まるで枕にでもするかのように抱きすくめられ、触れ合った肉体の質が記憶と違い、また遠い記憶を思い起こさせる気がして、思考が泥を掻き分けるかのように重たくなる。忌避にも似た衝動が走り、しかしとん、とんと背を叩かれると和らぐ。不思議でならなかった。
「朝までまだ時間がある。もうひと眠りするといい」
男ふたりが、狭い布団の上で抱き合っている。おかしな光景だ。滑稽以外のなにものでもなかった。
顔を少しでも動かせば、頬に角が当たってしまいそうな距離。刃の手は、未だ彼の首元に宛てがわれていた。男はそれすら気にしないようだ。
どく、どく、と血脈の鼓動が皮膚越しに伝わってくる。
その身に流るる血は、いったい何色なのだろう。
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