盆に帰ってくる弟の話

 毎年盆になると、尾形の家には腹違いの弟がやってくる。

「ご無沙汰しております兄様。ただいま帰りました」
「……ここは俺の実家ですよ」
 尾形は立ち上がると迎え火に水をかけた。わざとらしく溜め息を吐いてみたが勇作は気にするでもなく照れ臭そうに笑っている。その勇作の周りをトンボが数匹飛んでいた。
「私が帰りたいと思う場所は兄様の居るところですから」
「勇作さんは変わりませんね」
 消火を確認した尾形はそのまま庭先の蛇口で手を洗って勇作を玄関に促した。連絡も寄越さず押し掛けて来る癖に、勝手に家にあがるようなことはしないからだ。
「実家にあったものをくすねてきました。あとで一緒に食べましょう」
 大玉の西瓜を胸元に掲げると、勇作は尾形に向かって片目を瞑ってみせた。
「高潔な勇作さんも悪いことを覚えてしまったんですね」
「兄様のお陰をもちまして」
「何でもかんでも俺のせいにしないでください」
 口の減らない弟に軽く蹴りを入れて、尾形は西瓜を受け取った。どうせ食べるのなら、半分に切って冷蔵庫で冷やしておきたかった。
「夕飯は食べますか」
「ぜひ、ご相伴に与りたいです」
 信心とは無縁な尾形は、精進料理に拘ることなく毎年亡き祖母の好物だったものを供えている。ちなみに今夜は鶏そぼろ大根とささげのゴマ和え、あとは味噌汁とご飯だ。
 浅漬けぐらいならすぐ出せるが、勇作の胃袋を思えばもっとボリュームのあるおかずが必要だろう。西瓜の切り口にラップをして尾形は冷蔵庫を開けた。下味のタレに漬け込んだ鶏肉が目に入る。
「あっ、唐揚げですか?」
 後ろから覗き込んできた勇作が目を輝かせている。
 昨年も唐揚げを美味しそうに食べていた弟を思い出して、尾形は素直に頷いた。一応、念のため、そう自分に言い訳をして準備していた甲斐はあったのだろう。
「あとは揚げるだけなので、居間で待っていてください」
「ここで見ていてはいけませんか」
「気が散る」
 今日勇作が来ることを期待していた自分に気まずさを覚えて、尾形はぶっきらぼうな口調で追い出した。勇作は残念そうにしていたが、気が散るのは事実だったので尾形も情けをかけることはしなかった。
 しばらくすると仏間の方からおりんの音が聞こえたので、きっと祖母たちに挨拶しているのだろうと尾形は判断した。

「いただきます!」
「いただきます」
 古いダイニングテーブルで向かい合って、二人は手を合わせた。頃合いを見て台所に戻ってきた勇作が殆どの配膳をしてくれたので尾形としても後片付けに集中できた。出来のいい弟はそつがない。
「兄様の手料理は相変わらず絶品ですね。毎日食べたいです」
「毎日は作りたくないです。面倒くさい」
「では1日おきで」
 軽口を叩き合いながら、ご飯茶碗の中身はどんどん減っていく。唐揚げにしっかり味がついていたこともあり、尾形も勇作もご飯をおかわりして綺麗に平らげてしまった。
「西瓜はもう少しあとにします」
「兄様はこのまま休んでいてください。洗い物は私がしますから」
「お願いします。戻るときに半玉の西瓜を更に半分に切って持って来てください」
「承知しました!」
 鼻歌でも歌い出しそうな調子で台所に立つ勇作を尾形はぼんやりと眺めていた。勇作は何故自分のところに帰ってくるのか、尾形は毎年分からないまま受け入れてしまっている。

 初めて勇作が盆にやって来たのは就職した年だった。
 盆になると縁談話を持った親族たちが花沢家に押し掛けて来るので逃げて来たのだと言い、勇作は三日分の着替えと共に尾形のところへ駆け込んだのだ。
「社会に出てやっと自由が利くようになったと思えば次は早く結婚しろと父からも急かされているのです」
「あー、それはご愁傷さまです」
「私は今のところ結婚する気はありませんし、誰かとお付き合いする時間が作れるのなら兄様と過ごしたいです」
「人生勉強だと思って彼女くらいは作ってみたらいいんじゃないですか」
 勇作のように全てが整っている男に彼女が居ないのは不思議だと尾形は常々思っていた。自分ですら好むと好まないに関わらず、関係を持った相手も居たというのに。
「私は兄様以外、興味がありません」
「誤解を招くような言い方はやめた方がいい」
 幼少期、自分だけを見てくれる存在を求めていた気持ちを思い出して尾形は勇作から視線をそらした。とかく距離感がおかしい男なのだから、言うことをいちいち真に受けてはいけない。

「今日も暑くなりそうなのでかき氷でもやりますか。物置の片付けをしていたら出てきたんですが」
「やります!」
 勇作が尾形の家に来て二日目。
 かき氷機を前にして勇作は目を輝かせた。この家に来るようになったばかりの頃はやたらと二人で出掛けたがっていた勇作だが、ここ数年はずっと家の中や庭先でできる程度のことでも喜んでいた。
 軽くブランチを済ませていたので、勇作はすぐにでも氷を削ってみたいと台所に立った。夏前に買い替えたばかりの冷蔵庫は、夜のうちに大量の氷を作っていてくれたようで二人が食べるには十分な量だった。
「兄様は何味がいいですか?」
「イチゴに練乳をかけます」
「ああ、いい組み合わせですね。私も同じものにします」
 古いかき氷機は手動で氷を削らねばならないタイプのものだったので、尾形としては力仕事を丸投げできて助かった。勇作は尾形よりも上背が高く、幼い頃から剣道をやっていたらしいので恐らく握力も強いのだろう。
 しばらくして、山盛りのかき氷を二皿持って勇作が縁側へやってきた。尾形は氷菓子を食べるならクーラーの部屋より暑い外の方が美味いと考え、扇風機だけは回して待っていた。
「暑いところで食べるとより美味しく感じられますね!」
「氷が溶けてしまうので話すより先に食べてください」
 尾形は自分の意図したことに勇作が気づいてくれたのが嬉しかった。
「バニラアイスも乗せたくなるな」
 浮ついた気持ちを隠すように尾形が独りごちると、勇作も「来年はそうしましょう」と意気込んでいた。
 この日の夕飯も祖母が好きだった牛蒡と鶏肉の混ぜご飯を尾形は作って供えた。インスタントのお吸い物と沢庵を添えただけだったが、勇作は何度も美味しいと言って三杯おかわりした。
「暑い時期に残すと冷凍しても日持ちしないので片付けてもらえて助かりました」
「私の食い意地がお役に立てて何よりです」
 自分が作ったものを美味しいと言って食べてもらえるのは気分がいい。尾形は勇作の存在に絆される自分も悪くないと思うのだ。毎年のことながら、二日目には勇作がいることに心地よさを覚えてしまっていた。

「線香花火って締め感がありますよね」
「確かに何で最後にやるんだろうな」
 食後の西瓜を縁側で食べたあと、流れで二人は勇作が持ってきた手持ち花火をすることになった。
 初めは縁側から眺めているだけの尾形だったが、勇作があまりにもはしゃぐので半ば強制的に参加する羽目になった。とはいえネズミ花火から逃げ回る勇作は見ものだったし、昔から火薬の匂いは嫌いではなかった。
「なるべく玉が落ちないよう頑張ります」
「頑張って何とかなるもんじゃねぇだろ」
 夜風が出て来たのか、縁側に吊るした風鈴の音が心地良い。
 線香花火の小さな火花をぼんやりと見つめていた尾形は、隣から視線を感じて顔を上げた。勇作の顔が思ったよりも近くにあって思わず動きを止める。
「兄様」
 唇に柔らかいものが押し付けられたと思ったと同時に、勇作の長い睫毛が目の前に見えて尾形は反射的に目を閉じた。
 どれくらいの時間だったのかは分からない。軽く下唇を食まれて目を開けると、勇作の顔はすでに離れていた。
「どちらの玉が先に落ちたのか見逃してしまいましたね」
 勇作は何事もなかったかのように暗くなった手元に視線を移していた。玄関灯の明かりを受けてぼんやりと見える勇作の顔がどこか物悲しく見えて、尾形は何も言えなかった。

 三日目は朝から気温が高かった。昨晩の涼風は夢だったのかと思うほど猛暑日になる予感しかない暑さだ。
 一晩バケツの水に浸しておいた花火の残骸をゴミ袋に詰めながら尾形は小さくため息を吐いた。勇作は自分に何を求めているのだろう。そして自分は勇作とどうなりたかったのだろう。
「おはようございます兄様!」
「……おはようございます」
 朝日を浴びた勇作の笑顔は、尾形が直視するには眩しすぎた。
「今日も暑くなりそうですね」
「なりそう、じゃなくて既に暑い」
「確かに! あ、水分補給しましょう兄様。麦茶を持ってきます」
 勇作は誰にでも優しいはずだ。それでも、二人きりのときだけはそれが全て尾形に注がれている。それだけは尾形にも信じられることだった。
「何かやりたいことはありますか」
 尾形は珍しく自分からそう尋ねた。
 例年通りなら今日はもう勇作が帰る日だ。しばらく会うことはないのだから、一つぐらい望みを聞いてやってもいいだろう。あくまで自分が叶えてやれる範囲でだが。
「兄様と一緒に過ごせている時点でもう望みは叶っているのですが」
「何かあるだろ」
 せっかく尾形が恥を忍んで聞いたというのに、当の勇作は現状で満足しているらしい。
「うーん。あ、畳の上で昼寝がしたいです! 兄様と一緒にゴロゴロしてみたいです。出来れば兄様を抱き枕にして」
「急にリクエストが増えましたね。まあ昼寝くらいは付き合います。抱き枕になるかはいったん保留で」
「腕枕でもいいです」
「却下」
 今夜は送り火だ。昼はつけけんちんを作って供えた。
 尾形と勇作は蕎麦を食べ終えた後も、けんちん汁をおかわりして腹を満たした。一人で食べるときよりも勇作と一緒のときは食欲が増進されるようだ。
 そう気づいた尾形だったが、食べられないよりはマシだろうと結論づけた。勇作が来てからは夏バテが解消されたのかもしれない。
「では夕方まで昼寝タイムということで」
 昼食後、洗濯物を取り込んだ尾形は座敷に布団を敷いてタオルケットを用意した。直に畳の上で寝ると単純に身体が痛くなりそうだと考えたからだった。
「兄様と同じ部屋で寝転がるだけでもドキドキしているので眠れないかもしれません」
「ドキドキよりゴロゴロしてください。俺も適当に寝ます」
 冷房を効かせているので畳もひんやりしていたが、素足で歩いているところに肌を付けるのは尾形には抵抗があった。大人しく薄い布団の上に寝転び、腹の上にタオルケットをかける。幼い頃、腹を冷やすからと祖母に言われた習慣が今もそのまま癖になっていた。
「今年もありがとうございました」
 軽く目を閉じていた尾形の横に寝ころんだ勇作がそう呟いた。尾形が聞いているかどうかはあまり関係がないような語り口だった。
「未練がましいと思われるかもしれませんが、どうしてもここへ来てしまいます」
 思い詰めたような勇作の声音に、尾形は胸がしめつけられる思いがした。
「いいんじゃないですか。また来たらいい……」
 その声が勇作に聞こえていたかは分からない。尾形はそのまま意識を手放して、深い眠りに落ちて行った。

「ん……」
 身じろいで浮上した意識と共に、尾形は慣れない重みに目を開けた。
「暑い」
 尾形を後ろから抱き込んでいるのは勇作の腕だ。タオルケットの上から腹に回された腕を撫でると背後の勇作も目を覚ましたようだった。
「おはようございます兄様」
「勇作さんの体温で汗をかきました」
 腕を解こうとした尾形だったが、勇作はその動きに逆らって抱きしめる力を強くした。
「勇作さん」
「あと三十秒、いえ一分だけこのままで」
 何故この男はこんなに温かいのだろう。尾形は汗ばんだ肌に何故か心地よさを感じて目を閉じた。短いはずの一分間が永遠のように感じられて、尾形は真実永遠であってもいいと思ってしまった。

「送り火は寂しさを感じます」
 新聞につけた火をおがらに移す尾形の隣で勇作も同じようにしゃがみこんだ。パチパチと燃える炎から煙が上がる。
「迎え日と違って見送る火ですから、そう感じるのも仕方がない」
「そう、ですね。また来ます兄様。来年もお会い出来ますか」
「駄目だと言っても押しかけてくるでしょう?」
「兄様にはすべてお見通しでしたね」
 困ったように笑う勇作の顔が想像されて尾形は隣に目を遣った。だがそこに勇作の姿はない。
「来年も会えるか、はこっちの台詞ですよ」
 尾形は一人、燃え尽きていくおがらを見つめ続けた。火が消えたら水をかけて、家に入ればまたいつもの生活に戻るだけだ。
 自分を兄様と呼ぶ声はもう聞こえない。勇作は毎年変わらぬ姿で会いに来る。白髪混じりになった髪をかきあげると、尾形は煙の消えた空を見上げた。
 また来年、この星空を見る頃に自分は勇作を待ちわびるのだろう。そう考えたら尾形は早くも勇作に会いたくなってしまったのだった。

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