おまちどおさん
十二月三十一日の立ち食いそば屋は、それなりに忙しい。
暮れは皆、家の中であったかくして家族と年越しそばを食べるもんと思うやろうけど、世の中、そんな人間ばかりとちゃう。
梅田の駅からご来光や二年参りのために移動するらしい客が、その前にちょっと引っ掛けていくか、とかそういう顔で入って来ることもあるし、時折はホームレスのおっさんらしき人が来て、今日くらいは蕎麦でも食うか、という気持ちで食券握りしめていくこともある。こっちのもんならうどんや、蕎麦なんて、東京もんの流行らせたもんやさかい、いつでも太く短く生きたるで、というような顔をした爺さんも来る。
素蕎麦、かき揚げそば、天ぷらそば。めいめいに好きなものを頼む一見の客を捌いているうちに、いつもの五倍も仕入れた蕎麦が、ほとんど売り切れてしまう。
こうなってしまうと、暖簾をくぐってくるのは、もううどんでもええか、という顔をしている客だけだった。ほとんどの常連客はサラリーマンなので、今日みたいな夜に、いつもの顔が来ることはほとんどない。
――なんや、そばもかき揚げも、もう売り切れかい。ちょっと駅の裏っかわのとこまで行ってみるか。
――どこ行ったかてこないなもんやろ、寒いし、ここでええんとちゃうか。
十二時を過ぎる頃には、こうして酔客が〆のラーメンの代わりにやってくるくらいで、ほとんど客がいなくなる。
こんな日くらい二十四時間止めて、店仕舞いしたったらええのに、と一息ついて水を飲んでいると、カラカラ、と引き戸が開く気配がして、客が入って来た。
「らっしゃ~い。」
見た顔だった。
オレがここでバイトを始めてから、時々思い出したようにここにひとりで食いに来ていた男前の兄さんで、勝手は分かっているはずだ。
食券ここに置いてください、と言わずにただいつもの「きつねうどん/そば」が二枚、台の上に置かれるのを大人しく待っていると、差し出されたのは一枚きりだった。
「……一枚だけですか?」
「連れはおらん。」と兄さんは言った。
そらまた、と余計なことを言いそうな口を閉じた。
この五年ほど、大晦日の日だけはもう一人の背の高い兄さん――とは言っても、ふたりとも世間ではおっさんと言われるような年だろう。オレが知る限り、ここ最近の流行りの服を買ってる気配がない――と一緒で、ずっとふたりでやって来てたもう一人の兄さんが暖簾をくぐってくる気配がない。
まさか仲たがいですか、とは聞けないままに、「キツネうどん、一枚~」と言ってうどんの玉を湯切りざるに入れる。
茹でる間にちらりと視線をそっちにやると、いつものように憂い顔をしている。
静かだった。
バイトを始めた最初の年のこの人は、そういえばこういう感じやったな、と思う。
すーっと幽霊みたいに入って来て、きつねうどん、と一言言って、静かに待っている。
ここに良く来るようなスーツ族でも、外食するのに他に行き場のないような金のない人間とも違う、カタカナの職種の人かとずっと思っていた。
ライターとか、なんちゃらコーディネイターとかが、まあそういう人間がよくこんな似合わない場末の立ち食いそば屋に、と思っていたら、連れの兄さんが連れられてやって来て、その疑問が氷解した。
この近くに『師匠』の家がある、他にも兄弟子やら妹弟子やらがいる、そうした話の断片を繋ぎ合わせてるうちに、オレの中では、あっという間に生け花とか三味線してる人なんやろうという話になった。
その『師匠』がなんと落語のお師匠さんや、というのは、去年になってやっと分かったことやった。生け花とか三味線とか、なんか路線違ってないか、と思う向きもあるやろうけど、いくら田舎の生まれ育ちでも、親の転勤でここに暮らして何年も経つと、気の置けない相手に滑ったギャグを言うのも、大袈裟なジェスチャー交えての受け答えもそれがなんか、挨拶とか礼儀のうちみたいになってしまうのもあって、そんなもんやろ、と思てたんやけど……て誰に言い訳してんのやオレは。
とにかく、サングラスで背の高い兄さんの言うことはあんまおもろなかったというのが正直なとこで、笑点で大喜利やってる東京もんの方がまだ受けること話してた気がするし、隣で黙って聞いて、「うどん伸びてまいますよ。」とツッコミを入れるのがいつものふたりのやりとりやった。
オレは割と、それを眺めるのが好きやったんやな、と思う。
年が明けるたびに、疲れた時に見るしょうもないバラエティー番組みたいな気持ちで、ふたりのやりとりを聞いていたら、もう五年も経ってしまった。
今年は、もう、別のバイトでも始めようかな。
雰囲気がすっかり五年前の頃に戻ってしまった兄さんのために、今日はわかめと葱と、多めに入れたろ、と思った。
「はい、きつねうどん一丁。」
おまちどおさん。
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