待ち時間
「ケーキが 食べたい!」
ぽすぽすと枕を叩きながら布団に突っ伏す。
一日ずっとケーキが食べたい、と思って仕事をしてきたのに、結局はいつものように家に帰ってしまった。
車という、思い立ったらどこへでも行ける便利な移動手段を持たない私には、この村は終バスも早い。今日みたいな平日は、いつもの道をたどってコンビニのケーキを買って戻ることすら難しいから他に選択肢がない。
とはいえ、年に数回しかない発作的なケーキ熱のために、今更講習を受けて免許を取って、というのは、どう考えても対費用効果が乏しい。講習と試験に最低三十万として、雪と風に比較的強い、軽じゃない中古車を買って、かあ。
いつもだったら、字山奥なんて地名の場所で仕事してる不便なんて、ものともしない職場環境なのよね。
毎日毎日、美味しい食事とおやつが出て、自分でわざわざ作る必要もないし。いわゆる男所帯に近い田舎の医療現場だっていうのに、セクハラもほとんどない。この職種の労働環境としては最高得点に近い職場に勤められることになったのは、本当に幸運だと思ってるから、都会から離れた場所に暮らしているっていう買い物面の不便は、大人しく受け入れるしかなさそう。
「やっぱり……仕事帰りにやってるお店でケーキを選べるのって、それ自体がちょっとした贅沢だったのね。」
はあ、と小さくため息を吐く。
そもそも、今日こんな風にケーキの口になってしまったのには理由がある。たまたまいつもの番組が特別編成番組で見られなくなってしまったから、普段と違うチャンネルに合わせて見たんだけど、あれが失敗だったのかも。つまり、お昼のテレビのせい。
グルメリポーターが日本列島を回る番組は、去年の同じ時期に見てたのが福井の商店街で、肉屋のコロッケとか魚屋の焼き鯖なんかをリポートしていたのが良かったから今日も田舎巡りかしら、と思って油断していたのよね。
イシさんが買って来てくれた美味しいずんだ団子を食べながら見ていて、いきなり映し出されたのはおじいちゃんたちのくつろぎ銭湯の風景だったけど、その後は、関東近郊の素敵なパティスリーに場所が移動してて、ショウウインドウに飾られた素敵なオペラや季節のモンブラン、ティラミスにショートケーキが目に焼き付いて離れなくなってしまった。
思わず右端から買っていきたい、と思ったけど、旅行で関東近県の洒落たお店に行って、一度に数個も食べたいというわけじゃない。素敵なケーキ屋さんは、仕事が上手くいったと思った日に、自分のご褒美としてそのうちの気になる一個を選んで買うことにこそ、楽しみがあるんだから。
村に来る移動販売のお店で適当にヨーグルトやプリンを買って来るのも悪くはないけど、気持ちの上向き加減が全然違う。
(ショートケーキだったら、イシさんにお願いしたら作って貰えるかしら。)
数年前、一也君の誕生日が記録的な大雪になって当日は実家に帰れないかもと言われていた年には、スポンジを焼くところは省略して、スーパーマーケットで買って来た苺と生クリーム、生協を使ってるお宅で取り寄せてもらったスポンジでホールのショートケーキを作って貰ったはず。たまたま、クリスマスの直前だったのでタイミングが良かったのだ。先生の伝手で、ケーキが焼けるオーブントースターを持ってるお宅に頼み込んでスポンジから作って貰えないこともなかったけど、そこまでしなくても、という一也君の意見で却下されたんだっけ。見かけはほとんど高校生だったけど、ケーキ食べてるときは中学生っていうか、もっと小さな子を見てるみたいだった。
とはいっても、やっぱり手作りケーキよりは、お店のショウウインドウの中から選びたいわよね……。まして、自分で作ったものを食べたい訳じゃない。
週末には泉平駅前にある洋菓子のお店に行けるかしら。
そういえば、一也君、あそこのプリンアラモード好きだったなあ。
(もし一也君だったら、今日の帰り際に引き留めて、ケーキ買って来てくれないかって頼めたかしら。)
そもそも、この山道をバス停から歩いてくるしか手段のない子たちに、わざわざケーキの箱を片手に持って来てくれなんて言い辛い。
「はあ、今日はもう寝ちゃおう。」
枕元には、譲介君に借りた新しい救急医療の本があるけど、今日は続きを読むのは無理そう。電気を消すとき、うっかりいつもの紐を二度引っ張っちゃったので豆球も消えてしまった。
部屋の中が真っ暗だけど、早く眠りたいような気持ち、えいやっと布団に入って目を瞑った。
天井にオペラが浮かんでいてもこの暗さじゃ分からないわね、と思いながら目を瞑ると、瞼の裏に、お昼に見たホワイトチョコの白いホールケーキが浮かんで消えた。
「え、譲介君?」
今日お休みよね、と言うと、買って来たばかりなのか、春めいた色の新しいパーカーを着ている譲介君は「休みって言っても夕方からは雨が降って来ると予報で言ってたので、ちょっと早めに戻ってきました。」そう言って小さな白い箱をテーブルに置いた。
……まさか、夢じゃないわよね?
そう思ったけれど、散髪してきたばかりの譲介君は、前髪のボリューム感がさっぱりして、襟足も短くなってる。
「いつもの美容院、そんなに空いてたの?」と聞いてみると、譲介君はええ、と頷いた。「話し声もなくて、いつもと同じ人なのでちょっと寝ちゃいました。」という返事が返って来る。
「そうなんだ。」
って言ってる場合じゃない。
ケーキ?
ケーキなの、って聞いたらダメかしら。
だめよ、夕紀、安易に期待しすぎないようにしなきゃ。
もしかしたら、中身はケーキじゃなくてエクレアとかシュークリームかも。
洋菓子店の箱だからって安心は出来ないわ、と心の準備をしていると「本屋に予約した本を取りに行くだけにしたので、バスにも間に合いましたし、ツイてました。スニーカーが濡れない間に戻って来たかったので。で、今日イシさんは?」と譲介君が不思議そうに部屋の中を見渡している。
「それがね、さっき、黒豆の煮たのを忘れて来たって取りに帰っちゃったのよ。日持ちするから明日でもいいって言ったんだけど、よっぽど皺がない綺麗な黒豆が仕上がったらしくって、イシさんたら、うんにゃ、今日すぐ見て貰うぞ、って張り切っちゃって。」
「前から思ってたんですが、イシさんって、一人先生がいない日の方が自由ですよね。昨日のお昼のお弁当、」と言って譲介君は笑っている。竹で編まれたお弁当の中身を思い出したに違いない。
「そうね、」と釣られてこちらも笑ってしまう。「あ、イシさん、もう戻って来るかしら。あの、ちなみにつかぬことを聞くけど、譲介君その箱は?」
「あ、中身は、」と言うのを聞いて、とっさに耳を塞いでしまった。
「やっぱりちょっと待って! 心の準備が!」
「あの、中身は指輪とかアクセサリーではありませんが。」
そういう万一の場合はないですよ、と言って箱を回し、洋菓子店のロゴを前面に出してくる。
「準備、いりますか?」と呆れたような声で冷静なツッコミが入って、そうじゃないのよ、とつい反論したくなる。
「昨日は譲介君、お昼、ここにいなかったもんねぇ。」
「何かあったんですか?」
「テレビで、都会の街中にある行列の出来るケーキ屋さんの紹介してたのよ。それをイシさんと見ちゃって。イシさんの持って来てくれたお団子も最高なのよ! でもね、ケーキが食べたいのよ~!」と机の上に突っ伏すと「なるほど、分かりました。」というきっちりした合いの手が入った。
「いえ、僕には麻上さんの気持ちの全部は分からないと思いますが、」と言って譲介君は頭を掻いた。「カレーばかり食べていた僕がこういうこというのもなんですけど、砂糖って煙草や酒と同じくらい中毒性が高いって知ってても、どうにもならないですもんね。」
譲介君の労わりが妙に心に痛く感じるのはなぜかしらね。
しみじみとそんな風に言われると、大人になりきれてない自分が哀しくなってきちゃう。
「譲介君。昨日のイシさんの新作のタンドリーチキン入りのおにぎり、美味しかった?」
「はい、とても。カレー風味のソーセージのおにぎりも美味かったです。あれ、また作って貰えたらいいなァ。」
「譲介君が食べたいってお願いすれば大丈夫よ。」
「そっスか? それならいいですけど。あ、じゃあ、イシさん遅いからちょっと開けちゃいますね。」と言いながら洋菓子店の箱のテープをぺりぺりと剥がしている。
雑談の合間にさっさと開封の儀を済ませてしまう辺り、譲介君も若いわね、と思っていると、箱の中の、整然と並んだ五個のケーキが見えた。
「ショートケーキね。」
数が多いかな、と思ったのが顔に出ていたのか「もし先生が早く戻って来たら気まずいなと思いまして。」と言って譲介君は頭を掻いた。
譲介君っていつも気が回る方じゃないかと思うけど、今日は特に優しい気がする。
「多ければ、受診の方の手土産にしていただいてもいいわよね。イシさんも戻って来るし、お湯を沸かしておこうかしら。」
「お湯ならポットにありますけど。」
「ケーキには紅茶だもの。熱いお湯の方が絶対いいわよ。」
「じゃあ、僕はカップを出しておきます。」と言って、譲介君は笑って席を立った。
イシさん早く帰ってこないかな、というつぶやきは、小さな子供のようで。
大事な人が戻って来るのを待つ時間って長いわよねえ、と思って、ちょっと笑ってしまった。
Fuki Kirisawa 2024.02.24 out
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