迷子


兄さんいてますか、と言うにはちょっとばかり遅い時間だった。

施錠をされていない扉を開けて、こんばんは、というと、すっかり白髪の多くなった若狭の母親が奥からやって来た。
「あらまあ、四草さん。」
「すいません、夜分遅くに。」
これ土産です、と言って小浜の家に顔を出すならこれも一緒にお願いします、と若狭に手渡されたお供え用の銘菓を差し出す。
「わざわざおおきに。草若ちゃんの迎えに来なったんですやな。」
「はい。」と頷くと、「ちょっと遅かったわねえ。」と言われて目を瞬いた。
車で迎えに行くと本人には伝えてあるから、すっかり安心していたが、持続性の強いいつもの不機嫌のせいで先に電車で帰った可能性もゼロではないのかと思い直した。
奥からは酔っ払いの威勢のいい声も三味線の音もないところを見ると、到着時間が遅いのに業を煮やして、こちらと入れ違いでどこか近所の店に飲みに行った可能性もあるが。
兄さん、いてますか、と尋ねようとすると、相手はそれがなあ、と声を落とした。
「迎えに来なるとは聞いてたんやけど、すっかり明日の予定やと思ってたから、食べるもんは、へしこも鯖寿司もすっかり食べてもうて、残りのお菜も全部冷蔵庫に仕舞ってしもたとこで。」
ああ、そういう意味か。こないして道に迷わなければ、へしこと鯖寿司が食べられていたのかと思うと残念だが、もう仕方がない。
「途中の道で夕飯を食べて来ましたから、お構いなく。」
「そんなら良かったわ。草若ちゃん、うちの人とふたりでさっきまで飲んでたんやけど、あの人が先に潰れてしもて。」と言って家の中を振り返った。「部屋に寝かせるのとか片付けとか手伝ってもろてて、今はもう二階に上がってしもたとこなんよ。ついさっきまではそこにいてたんやけど、くたびれたんで先に寝かせてもらいます、て言うて。」
流石に若狭より落語家の才能あるんとちゃうか、と言われた人である。『先に寝かせてもらいます、』のところで声真似と手刀の身振りとを入れられて、危うく吹き出すところだった。
「兄さん、大分酔ってますか?」と言うと、そうみたい、と言って頷いた。
「すいませんねえ。うちのお父ちゃん、草若ちゃんが来るて言うたら、これで酒が飲めるで~、て、ウキウキで飲み比べるのにひやおろしを三本も買うてきて。前よりお酒に弱くなってるのに、いつもよりペースも早くなってしもて。」
「はあ。」
若狭からは、あんまりお父ちゃんに飲ませんといてくれますか、と厳命されていたのだが、人生、そううまくはいかないものだ。
今度の休みの日にでも、草若兄さんにあの家の子守に行ってもらって、二人分のきつねうどんの帳尻合わせをしてもらうべきか。
「四草さん、今日はどないしたん? 途中でガス欠とかタイヤ交換とかしてたんけ?」
「道に迷ってしまいまして。」
「あらあら、師匠さんみたいなこと言いなって。」
「いえ、師匠のあの迷い道とは違って、僕の方はほんまに迷ってしもたんです。丁度福井に入ったところで、あちこちぐるぐると回らされてしもて。」
「そら難儀やったわねえ。」
嘘ではない。
夕方には小浜の街中に到着するつもりで和田塗箸店を最終目的地にしたはずが、目的地と思ってカーナビでタップして選んだ場所がずれていたのが今回の迷子の原因だった。
かつて安曇川町に寄り道した時のほとんど再来で、一人でうろうろとしている間に日が落ちて暗くなった。
「カーナビて、便利なようで案外不便ですね。」と零すと、話し上手で聞き上手の相手は「ほんまによう来なったねえ。」とねぎらうようににっこりと笑った。
出会った頃はまだまだ若かった『小浜のお母ちゃん』も、今ではすっかり目尻の皺が柔らかい『小浜のおばあちゃん』である。
「夕飯どないした? なんか食べる?」
煮豆やら、でっち羊羹やら、甘いもんなら残ってるけど、と言われて首を振る。
「途中でコンビニに寄りましたので、そこで食べました。」
「ほうやねえ、今は、ほんまに、どこにでもコンビニが出来てしもて……。」とそこまで言いかけた若狭の母親の顔が曇った。
「どうかしましたか?」
「魚屋食堂さんとこの順子ちゃん、観光客が少ない時期は商売上がったりやて、弱っててなあ。もうあの辺のサラリーマンは皆、お昼はコンビニに行くようになってしもたんかもしれません、て言うてて、どうにかお手伝いしたいんやけど、」
「不景気が理由では、僕らにはどうもなりませんね。」と言うと、四草さん、ほんまに正直な人やねえ、と苦笑された。
「ごめんねえ、玄関で長話してしもて。この時間やで、四草さんもうち泊まっていくやろ?」と言われたところで、誰かが階段を降りて来る音が聞こえて来た。
「あらあ、草若ちゃん。今四草さんにお水持って行ってもらおうかしてたんやけど。」
真打の登場である。
「どうも、心配掛けてもうてすんません。」となぜか兄さんが謝っていて、頬に畳の跡が付いている。
兄さんが介抱した話も本当だろうが、この様子では、先に潰れて寝てしもたのはどっちか分からへんな。
「四草、来てたんか。」
「見てのとおりです。」
随分飲まされたのか、顔がすっかり赤らんでる。四十八時間ぶりくらいに見た草若兄さんは、パジャマはまだ着ておらず、グレイのチョッキに買ったばかりの紫のシャツを合わせた格好だった。いかにも芸人か業界の人間という、見られるのを意識したカラーリングだ。
正直そろそろ落ち着いた色を着るべきではと言ったところで聞く人でもないし、どこかにしけこむようなタイミングともなれば、白いカットソーに黒のコートのようなそれなりのものを選ぶようにもなっているのだった。
「そしたら四草さん、草若ちゃんも来なったし、お茶でもいかがですか?」
すっかりこの場にもう一人いるのを忘れていた。
「いえ、僕も水で。お疲れでしょうから、戸締りしたら先に休んでてください。布団も勝手に出させてもらいますんで。」と言って、若狭の母親を寝室に追い立てるようにして、勝手知ったる台所に移動した。
あの古かった台所が、すっかりシステムキッチンのように変貌を遂げていて、すっかり夜でも明るくなっている。
「遅かったやないか。」
酒のせいで赤くなった耳が、妙に食べ頃に見える。
この調子なら、言い訳してもまあ明日には忘れてるかもしれへんな、と思って、「カーナビの操作を間違えたせいで道に迷うてしまいまして。」
永遠にたどり着けないかと思いました、とは言わないでおいた方が無難だろう。
遅くなりました、と言うと、相手はふ、と笑みを口元に浮かべた。
「……迎えに来ぉへんかと思った。」
兄さんはその辺のコップに水を満たして、一口飲んでから、お前も飲め、と差し出して来た。
こっちが飲み終わってコップを置いて、この後は布団を敷いて寝るだけか、と安心した途端に「お前は連絡が遅いんじゃい!」と低声で言われて、そのままヘッドロックを掛けられた。
「!」
今の今までしおらしくしてたかと思ったら、すぐこれだ。
ギブアップのつもりで腕を叩いたが、酔っ払いの力は強い。ぐいぐいと締め付けられる。
「このまま僕のことを布団の中まで引きずり込むつもりですか、」と小さい声で聞いてみると、その意味を聞き取るくらいの理性はまだ残っているのか、ぱっと腕を離した。
「……何言うてんねん、この色ボケ。」
今の距離くらいは、布団を離しとかんとあかんな、と思いながらも、目の前の男が罵倒に選んだ言葉に、口元が緩む。
布団の中で試してみますか、と微笑むと、くるり、とこちらに背を向けた男は、先に行ってるで、と言って、危なげない足取りで階段を昇って行った。

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