うたた寝

TETSUさん、お疲れ様でした。
おう。

譲介君、寝ちゃったんですね。
おい、寝てんだからカメラ向けてやんなよ。

TETSUさん、譲介、帰らせなくていいんですか? タクシー呼びます?
一也か。疲れてるみてぇだから、もう少し寝かせとく。あと十分くらいならいいだろ。後なぁ……おめぇその年からそこまで面倒見良すぎてどうすんだよ。こいつ、こうと決めたらひっつき虫みたいにくっついてくるぞ。
そうですね。
こういう時は大人に任せとけ。



夜の撮影が始まろうとしていた。
未成年の譲介は、法律の定めもあって、十時を過ぎたこの時間、本来ならば彼らとこの時間にこの場にいることは許されない。
けれど、迎えを待っているような顔で、あるいは、こんな風に疲れた風を装っていれば、撮影と撮影の間の暫くの間は、こうして現場に留まることに目を瞑って貰える。
好きな人に肩を借り、うたた寝を許されるこの短い時間が、譲介は好きだった。
「ノラ、お前のしてる心配は俺にとっては少しも有難くないんだが、それはまあいいとする、どうしてオレが、悪徳記者の恨みなんかを恐れる必要があるか、けれども、それはそれとして、お前の言ったことは構わない、オレを愛してくれる証拠なのだから。」
静かな声だ。
人のざわめきの中、彼の声を、譲介だけが聞いている。
芝居の時の腹から出る発声とは違う、彼の朗読は、優しい雨音のように譲介の耳に届く。
本人には、芝居を聞かせているつもりもないのだろう。
――この間借りた本、ちゃんと読まなきゃな。
田舎の大きな家の勘当息子だというTETSUの部屋は、演劇に関する本が、寝る場所を圧迫するほどの本棚を埋めている。
実家の屋根裏から持ち出して来たという旧仮名遣いの本もあれば、英語で書かれた本もある。
譲介は、この年上の人といつか対等に話をしたくて、彼の部屋に通い、いくつもの本やビデオを借り、その本を理解するためにまた勉強をした。
主人公の周囲の狭い社会の中に垣間見える、社会の差別構造、風刺と問題提起。
人と人が織りなすドラマは、国が変わっても普遍的なものもあれば、当たり前だけれど、同じ場所に立っていれば見えない景色もあった。彼が譲介に与えたがっている世界は、彼が住まう古びたアパートよりもずっとずっと広く、そして、奇妙に心地よい場所だった。
ずっとあのまま、誰かが作った、誰かに都合のいい子どもの姿を演じているだけでは、触れられなかった風。
彼がいる世界の中でなら、譲介は、人並みに息を吐けるような気もするのだ。


ページをめくる音が止まる。
次の撮りが始まる合図だ。
「時間だ。おい、譲介、起きろ。」
年上の人は、遠慮もなく譲介の耳を引っ張る。
「……っ痛、ちょっと手加減してください。」
ムッとして言い返す譲介に「何言ってんだ、いつもいつも狸寝入りを決め込みやがって。」とTETSUは言って、譲介がライトから顔を隠すために被っている帽子のひさしを奥に引き上げて、こちらの目を覗き込んだ。
「え、」
「互いに、一番年が近ぇんだ。そのうち、また番宣も予定を組んであんだろうから、一也とも上手くやれ。」
なんだ、そういうことか。
「TETSUさん、あの、今日の本、」
暗がりでも表紙のタイトルが読めた。TETSUがこの間迷ったけど買ってしまったという、戯曲の全集の一冊に違いない。
「来年の頭っからの公演な。」と言って、TETSUはいつもの劇場の名を口にした。
「役は決まっちゃいるんだが、まだ脚本が、」と言いかけたところで、譲介が言葉を被せるように「僕も行きたい!」と食いつくと、TETSUは弱ったような顔をした。
「……マチネがねぇからなあ。一也と来るか?」
「なんで。夜でもいいのに。」
「なんで、って、そりゃ、」
心配だからに決まってる、と彼の顔には書いてある。
譲介がTETSUより三十も年下だから。
一也みたいにどこから見ても男っぽいような外見ではないから。
TETSUが口にした劇場は、都心にある規模の大きなメジャーどころではなく、雑多な劇団が公演をする劇場が多く集まっている街にある。
オレみてえな、大人になり切れないロクでもないヤツが、その辺りにうようよしてる場所だ、おめぇが一人で来るにゃあ、まだ早い、とTETSUは言う。そうやって心配を口に出せば、譲介が暴れることも知っていて、けれど、顔には出てしまうのだ。
演技する時みたいに、もっと自信満々な表情をして、おめぇが世間を知らねえガキだからだ、と蹴っ飛ばしてくれたらそれでいいのに。
時間ですよ、と遠くからの呼び出す声が聞こえてくる。
「あと五分待て!」といつもの声で返したTETSUは、ああでもない、こうでもない、と案じた顔を見せた後「KEIのヤツにも声掛けておくから、あいつと一緒に来るか?」と譲介に言った。
やった、と言って譲介は彼に飛びつく。
和久井譲介の演じる「年下の後輩」シーンその42。
アクション。
あまりに体当たりに演じたので、被っていた帽子が足元に落ちる。
TETSUは、身体をぐらつかせることなく、譲介の突然の抱擁を何でもないような顔で受け止めている。
「いつもの眼鏡とパーカーで、平日の夜に来い。分かったら、明日もちゃんと学校に行けよ。」と言って、TETSUは譲介の頭を撫でる。
「行きます。家に帰ったら、この間借りた本も読む。」
筋肉質なTETSUの身体に抱きつくたび、譲介の心臓は、ドキドキと跳ねる。それでも、演技なら、それを演技と思っている間は、何でもないような顔をして続けられてしまうのだ。
「オレの背を抜いて見返したいってんなら、さっさと帰って、家でちゃんと寝ろ。」
TETSUはそう言って、突然駄々っ子になった高校生の背中を優しく叩く。
譲介は、渋々の顔を作ってTETSUを腕の中から自由にすると、年上の人は、身体を折り曲げて譲介の帽子を拾い、埃を払って頭に被せた。
「また今度。」と譲介が言うと、じゃあなと言って、TETSUは譲介に背中を向ける。
明るいライトに向かって歩く、白いコートの似合う背中は、大人の男のものだ。
まだ遠いあの背中に、いつか追いついてみせる。
譲介は、小さな帽子を目深にかぶり、煌々とあかるい夜更けの廊下を駆けていった。

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