銭湯


昼ひなかの銭湯は、客の話し声で、ガヤガヤワイワイと、妙に喧しい。
このところ、広い風呂に入るとなると、時々呼ばれて行く小浜のホテルの大浴場とか、地方での独演会が多かったもんで、カポーン、という洗い桶を床に置く音が響く人気のない風呂から、こないして街に戻って来ると、大阪は年がら年中喧しいなあ、と思ってしまう。その騒々しさが好きでこないしておるんやないか、と言われたらそれはそうなんやけどな。
それに、小浜に引っ込んでいたいと思っても、仕事もなし、こないして、おちびの面倒見られへんし。
オレがすっかり外してしまったシャンプーハットの上に腕を伸ばして、教えた通り、一生懸命になって髪を泡立てている。
かわええなあ。でもまあ、そろそろ流してしまうか。
そんな風にしてもう一度シャワーヘッドを手に取った途端に「草若ちゃんて、なんでお父ちゃんと一緒におるん?」という声が、エリザベスカラーみたいなシャンプーハットの下から聞こえて来た。
「そら、四草がオレのこと底抜けに可愛いと思ってるからとちゃうか?」
「ええ~、そんなん僕かて知ってるし。」
知ってる?
知ってるて……?
「草若ちゃん、格好ええ、てタイプと違うもんな。でも、その言い方はズルいで~。」
そっちかーーーい!
そら、大人やもん、ズルい言い方も知ってるで、とは子ども相手には口には出せず、「いいから、泡流すで。」と言ってシャワーのお湯を出した。
四草がそない言ったんとちゃうんか、というのはちょびっと残念ではあるけど、まあ予想はしてたわな。
しかしなあ、オレは四草のこと好きやから一緒におるけど、そもそもあいつがオレに何も言うてこんのに、オレからあいつに言って、そんなんとちゃいます、とか、身体だけです、て言われたらなあ……この先、生きていけるか分からんで。
まあ、こんな貧弱な身体でもあいつがええて言うてんのやから、それだけで満足してもええんかもしれんけど。
勢いの良いシャワーからは湯気が立ち上るのが見える。
「草若ちゃん、お湯ちょっと熱い……。」
「あ、堪忍やで!」
すまんこっちゃ、と慌ててカランをひねると「冷たい……!」とおちびが今度は悲鳴を上げた。
「草若ちゃん流の交互浴やで~。」と言い訳しながらカランの捻り過ぎを40度のとこまで戻すと、そないに誤魔化さんでもええのに、という声が聞こえて来る。
その間にも、もこもことした泡は溝に流れて行った。
「そもそも、オレがずっとあっこにおりたくても、こっちが転がり込んでる方の立場やねんから、あいつがオレと一緒におられへんて言われたらそこで終わりなんやで。」と言うと、おちびがそうやなあ、と何かを思い出すような顔つきになって「お父ちゃん、よく草若ちゃんのおならくっさいて言ってるもんな。」と言った。
「……あいつそないなこと言ってるんか?」
おちびの前では仏の草若ちゃんも三度までやで、とは思ってるけど、これは即ヘッドロック案件やな。
「うん、どんだけくさくても一緒にいるんやなあ、て思ったから、なんで、て聞いたら、僕にも草若ちゃんの好きなとこと嫌いなとこあるやろ、て言い返して来たし。」
「好きなとこと嫌いなとこ?」

……好きなとこと嫌いなとこ?

……好きなとこあんのか?

よその家族が「もう出るよー。」「先出といてくれー。」と女湯と男湯で声を掛け合ってるところで目が覚めた。
あ、あかんあかん。
一瞬、意識が飛んでもうた。
そもそも、あいつにオレのこと好きになる要素とかあるんかいな。
なんぼ公式には可愛い草若ちゃんやて言ってても、あいつの前ではなんも可愛いことないしな。今でも週にいっぺんはヘッドロック掛けてるし、旨い飯作れる訳ともちゃうし、セックスもいつになっても下手やし。
落語は、そらまあ、ちょっとは前より上手くなったけど、あいつ今でもオヤジの落語の方が好きやしな。
「急いでて、学校遅刻するとこだったから、お父ちゃんが草若ちゃんのどこが好きなんか白状させるまでうちにおられんかってん。あんとき、ちゃんと聞いとけばよかったな~。……大人ってほんまズルい。」
いや、聞かんでええ、と口に出そうかしたけど、そんなん今言うことか、という気持ちもある。
とりあえず、おちびの耳の中と周り、絞ったタオルで拭いて綺麗にせんとな。
顔こっち、と機械的に手を動かして、あかすりでちょちょいと頬と額と顎のとこ擦ってやって、これでええで、と言うと「後は、湯船浸かりながら話そ。」と、いっぱしの大人みたいな口を利いて、おちびはもう一遍お湯で濡らして絞ったタオルで顔を拭いた。
あかん、草々や四草よりこの子の方がよっぽど大人と違うか?
抜けた髪のひっついた背中をスポンジで流してやって、身体を洗ってから、のぼせ防止に冷水で冷やしたタオルを持って湯船に浸かる。
頭に濡れたタオルを乗せると、隣に子どもがじゃぼんと入って来る。
「こらこら、あんまり水ばしゃんてしたらあかんで。」
「はーい。」という子どもの額には汗がにじんでいる。
これがうちの風呂やったら、頭の上に乗せたタオルまるめて泡ブクブクのやつ出来るんやけどな~。
「これから段々秋とか冬になってくから、廊下は寒いし、シャワー浴びるん面倒やなと思うこともあるかもしれんけど、なるべく毎日入るようにしたらええで。」と言うと、まだ夏なのに気ぃ早いんとちゃう、と隣の子どもがころころと笑った。
「オレみたいな年になると、こないして夏が来たら、年末まであっと言う間やで。」
「へえ~、草若ちゃんって、今いくつなん?」
「オレが39年やから、」
「えっ……もう三十九歳ってこと?」
僕の四倍くらい生きてる、と言われて笑ってしまった。
「ちゃうて、昭和39年の生まれてことや。」
「あ、そうなん……あれ、それなら、草若ちゃんて、つまりお父ちゃんよりふたつ下てことなん?」
「そうやで。草々も四草よりひとつ年下や。」
「でも、お父ちゃんは草若ちゃんに敬語使ってるけど、草若ちゃんは呼び捨てしてるよね。」と首を傾げている。
「まあそうやな。」
「なんで?」
「なんで、て。そらまあ、そういうもんなんや。」
落語家は入門順で序列が決まるからな、て話をしたいけど、序列て言ってもこの年で分かるんか?
なんやこれ、草原兄さんも若狭に説明したことある、て言ってたな。
「四草は……オレがあんとき二十二やったから、オレが入門して八年してから、あいつが師匠に弟子入りしたんや。師匠が稽古付けることの方が多いけど、雑用のやり方とかは、入門の早い方が後で入門したヤツに教えること多いから、教わる方があないして敬語使って話しすることになるねん。」
「へえ~。」
「四草はあの頃、勤めた会社辞めて、ぶらぶらしてた頃に師匠に落語教えてくれ、て言って、いきなり楽屋に乗り込んで来てな。商社辞めた足で落語家になる、ってけったいなヤツが来たて思ったで。」とそこまで言うと、おちびは、お父ちゃんてその頃から大人げなかったんや、という顔になっている。
いや、今のはオレのせいとちゃうで……。
「落語にもそのうち飽きるやろ、と思ったけど、二年経っても辞める気配もないし、そんなこんなで、うちのオカンが入院して、辞めるタイミングがのうなってしまってん。」
「草若ちゃんのおかあさん、て確か。」
「一門のおかみさんやっててな、卵焼きとかおでんとか、メシの作り方をあいつに教えたんもうちのおかんやで。」と言うと、おちびは妙な顔になって、あんなあ、と切り出した。
「前にも草若ちゃんに言った気ぃするんやけど、僕の朝ごはん、草若ちゃんがおらんと、お父ちゃんすぐ横着して、納豆だけとか卵かけご飯とか昨日の残りとか、そんなんば~っかり。」
「……そうなんか?」
「うん。時々、朝も寝てたりとか、オチコのとこに僕のこと預けて外に出てくこともあるし。そやから、草若ちゃんがずっといてくれんと、困るねん。」
「そうかあ。」
まあ最後のは大抵……オレが外でしたいて言うときやねんけど。
「オチコちゃんとこの飯どうや、旨いか?」
「うん、おかずがほとんど全部焼き鯖みたいに茶色いけど、美味しい。そんでも、うちの味とは違うから、夜にちょっと帰りたなってん。お父ちゃんも草若ちゃんもおらへんうちに帰ってもやっぱり寂しいんとちゃうかな、とは思うんやけど。」
「そうかあ。」
おちびにとっては、今はあの狭い部屋がうちなんやな、と思うと、なんや変な感じやった。
庭と客間と仏壇と稽古場があって、夏はちょっと涼しくて、冬は大掃除がめんどいくらいの広さの家がオレにとっての普通やったから。
「昔はなぁ、日暮亭の建物のある土地に、オレのうちがあってん。」
あ、今気づいたけど、今のオレって、オレや草々が入門したときのオヤジの年くらいになってんのか?
あかん……頭痛くなってきた。
「それ、見たことある。三代目草若の家を潰して建てた、って日暮亭のパネルに書いてあったやつ。」
「……生まれたうち、今はどこにもなくなってしまってん。」と言うと「草若ちゃん、なんや顔赤くない?」とおちびが言った。
「おい、坊主、お前んとこの父ちゃん、のぼせてるかもしれへんで!」
知らんおっちゃんの声が聞こえて来て、さっきからずっと頭がぐらぐらしてた理由が分かった。
「この冷たいタオル乗せてやり。」とその通りがかりの親切なおっさんが腰の周りに当ててたタオルを隣のサウナ用の水風呂に浸して……うそやん……。




「はあ~、生き返った。」
冷たいミックスジュースを一気飲みして人心地着くと、湯あたりでのびていたオレの横でさっきまでぱたぱたと団扇を扇いでた隣のおちびが小さくため息を吐くのが聞こえて来た。こういう時、いつもの稽古の時みたいに浴衣やと、横になんのに楽やったな、と思う。
「ちゃんと何か飲んだか? アイスも買ってええで。」と言うと、「僕は自動販売機でポカリ買ったからええよ。お父ちゃんからお小遣いもらってるから、アイス食べたいなら、草若ちゃんが好きなん買って来るし。何がええ? ホームランバーとか、ピノとかチョコモナカ、雪見だいふくとか。」という答えが返って来る。
ぎょうさんありすぎると逆に選べんなあ。
「冷凍みかんとかあるか?」
「三つ入ったやつならあったけど草若ちゃん食べ切れる?」
「一個か二個、いらんか?」
「僕も嫌いとちゃうけど、あんまりお腹冷やすと、うち戻ったときトイレ占領してしまうもん。」
そうかあ。
すまんなぁ、頼りない大人で……、と心の中で反省してると、おちびが隣で「そんでも、大きなお風呂ってええなあ。」と言った。
「そうか?」と尋ねながら
「うん。足延ばしたり出来るのも、なんや楽しいし。冷たいポカリは美味しいし。」
「そんなら、また一緒に来ようか。」
「うん。次はお父ちゃんとも一緒に来たいなあ。」
「そうやな。」
そろそろうちに帰るか、というと、うん、と言っておちびが嬉しそうに笑った。
いや、オレのうちとちゃうんやった。
……まあ今は訂正せんでもええか。

powered by 小説執筆ツール「notes」

48 回読まれています