大学生と社会人その9



マンドリン部の練習は割とグダグダで、毎回誰かしらの集中が切れたところで解散になる。
そもそも名前だけの在籍者が多い上に、家で自主練習が出来る環境にある人間も少ないので、指揮者が来たところでまともな合奏にならない日もあるくらいだ。
珍しく人が揃った日には合奏になる、いや、ならないということもない、くらいの話だろうか。音を合わせる練習を開始して一回通して、さて解散するかということもあった。(その日は勿論、いそいそとジュノにメールをし、インスタントラーメンを買って家に帰った。)
時間の束縛がないせいで何もかもが緩い、という話とも違って、ノートの貸し借りやテストの範囲を教え合ったりした後には、バイト、あるいはボランティアの時間があるので、と言い訳してさっと消えていく人間が多すぎるのだ。通しの練習をした後は三々五々。人に抜きんでて成績を上げようと努力する人間はそもそも部活には入らないとはいえ、大多数の部員が何のために横のつながりを作ろうというのかがよく分かる光景だった。
一昔前のハン・ホヨルなら、きっと同じようにしていただろう。巷では、将来の履歴書に書くための実績づくりに時間を使う人間が最後に笑うのだと思われている。賢く生きる、というのはそういうことなのだろう。今の自分に真似ができるとは思えないけど。
主義というほどのことでもなく、ただ部活の日にはバイトを入れないようにしている。気が急く中で移動する、というシチュエーションを何度も経験したけれど、いつもいつも、新鮮に苦手だと思った。前を行く車全てに腹立たしい気持ちが募ってクラクションを鳴らしたり、焦って不必要な車線変更をしたくなるような気持ちになってしまうこと。あの日の記憶。

部室のドアノブをひねって扉を開けると、耳をつんざくようなロックが聞こえて来て、一旦扉を閉じた。
ギターマンドリン部、と書いてある古い扉を眺めて、あってるな、と頷いてから再び戸を開けると、大音量のロックに物怖じしているように見えたのか、ホヨルさん、マンドリンこっちですよ、と手を振られた。狭い部室を見渡せば今日も、経験者も多く音質のいいギター派にレジスタンスするようにして、初心者ばかりのマンドリン派は今日もぽつぽつと練習に参加している。
三年生も二年生も、学年は上だが、年齢的にはホヨルの下に当たるので、こんちわ、とぞんざいに挨拶をして部室に入っていくと、来年は就職を諦めて一年チベットに旅行するぞと豪語していた三年生が、扉の近くでエアギターを披露していた。ロックが聞こえているのはこのせいか、と腑に落ちる。
部屋の奥のいくつかパイプ椅子が並べてある場所では、二年生と初心者がそのエアギターを眺めて拍子を取っている。知らない顔で、知らない曲だった。入れ替わり立ち替わりの幽霊部員が多すぎて、同級生以外の人間で覚えているのは数名だ。マンドリンを抱えたままパイプ椅子の迷路を進んでいくと、奥にあるレコードプレイヤーの上には黒字に派手な文字を乗せたレコードのジャケットが見えた。メタリカと読めるが、一番上に置いてあるレコードが掛かっているとは限らない。
手近な椅子に座っていた先輩に小声で、「あの人、何の練習をしてるんですか。」と聞いてみると、定期演奏会の他にも外部に見せる文化祭のようなものがあり、そのステージに、ギタマン部の名前で出演する予定のダブりの三回生なのだという。エアギターで出演出来るなら、カラオケはどうですと聞いてみたが、ある程度の実力が分かる大会での入賞実績か、合唱・歌唱部への登録がないとカラオケでの登壇は許可されない、と返事が返って来た。なるほど、下手の横好きばかりが占拠するステージにはならないということか。
あの後輩に飛び入りで歌わせてみようかと思ったのに、上手くはいかないか、などとつらつら考えていると、昔は大丈夫だったこともあったらしいんだけど、まあ、町内会の出し物でもないし、と言われて納得してしまう。唄が苦手な後輩を呼ぼうかと思ったんですけど、止めときます。後輩、どんな子? 男ですよ。度胸はあるくせに女の子にきゃあきゃあ騒がれるの苦手らしいので、場数を踏ませようかと。踏ませてどうするの。そうですね、俺が見てて面白いだけかも。後輩って高校の? いえ。ふうん、まあつるむのは同じタイプのやつの方が楽だけど、付き合いが長くなるのって、タイプの違うやつの方かもな。俺もそう思います。適当に相槌を打ちながらマンドリンを出す。弦の調子を確かめている間もエアギターの間奏が続いていて、終わる気配が見えない。手拍子もよく聞けばおざなりで、パイプ椅子に座って眺めている観客たちも、皆自分たちが弾き始めるタイミングを逸してしまったような横顔に見えて来た。
以前はこういう場面で、ふらりと外に出て煙草を吸ったものだけれど、ここからは決まった喫煙所が遠いのですっかりご無沙汰になってしまった。
口寂しいので、部室の隅にある赤い缶の中にある飴をとって、包み紙を破って舐め始める。
誰が買って来たのか置き放しになっているが、全然減らない。甘いけれど、空気が中に入っているのか、時々舌が切れる。
見物客も、雑談をはじめながら、各々の練習を始める。
ホヨルも、手元の楽譜を開く。
譲って貰った楽譜には歴代の注意事項がびっしりと書かれていて、そこをなぞって演奏するだけでいいようになっている。そもそも演奏初心者のホヨルには自分なりの曲の解釈などはないのだけれど、指揮者が変われば、人に合わせて少しは曲の解釈も変わるはずだと思うので、これでいいのかと思わないでもない。
時折、楽譜の隅に、どうでもいいメモ書きなどが書いてある。
『ドーナツ食べたい、誰か私の代わりに買って来てくれないかな。』
大学生というより中学生のような丸文字の手跡で書かれた独り言めいた言葉を見ていると、バイトの給料日前の困窮を思う。(流石に、自分の楽譜を魔法のランプと勘違いした人間はいないだろうから。)
給料日前に必ず通帳から金を引き出すことにしているハン・ホヨルの悩み事は多くない。
手にした金で、今夜ドーナツを買うなら、何がいいだろうということだ。
気が付けば、メタルのエアギター演奏は終わっていた。


「で、何ですかこの大量のドーナツ。」
二週間ぶりに顔を合わせたというのに、アン・ジュノは呆れた顔を隠しもしなかった。
ジュノにヒョン、と呼ばれるのは嬉しいけれど、こんなに可愛げのない弟はいらない、と年に二回くらいは考える。今日はその一回目だ。
ドーナツがダースで入る二段重ねの箱に、チュロスが二本、オールドファッションがふたつ、イチゴのチョコ掛けがふたつ、生クリームが入った丸いのもふたつ。クマと書いてあるけど犬に見えるキャラメルがけがふたつとメロンクリーム入りに、ピカピカモンスターの顔をしたやつ。ピカピカは人気なのか、今日に限っての品切れか、なぜか一個しかなかった。
飲み物はカフェオレ、ふたり分。賞味期限が切れる寸前の牛乳は、これですっかりなくなった。
「美味しそうだろ。」と箱から出したチュロスを目の前に翳すと、ジュノはそれはそうですけど、という顔をしてから、「こんなに食えるんですか?」と言った。反論にも思えるし、単純に疑問に思っているように見える。
「食うんだよ。俺の頭の中じゃお前も頭数に入ってるけど、お前は違うのか?」
沈黙の後、「今日はタッカンマリですけど。」とジュノからは少々恨みがましいような返事が返って来る。
「お前がそんなに鳥の足をしゃぶるのが好きだとは知らなかったぞ、可愛い息子よ。」
何の気なしに言った言葉に、ジュノは「……含みがあるような言い方は止めてください。」と言って膨れ面になった。
「含み、って何だ。」
「すいません、今のは忘れてください。」
こういう関係になってから知ったことは、ジュノが、ベッドとかそういうところでもねちこい性格を発揮する人間だということだ。
この野郎、キスしてやろうか。そう思ったけど、今はしない。
今日だって、ドーナツを食べたいと思ったから買って来たわけで、それに、年に一度くらいはタッカンマリも食べておきたい。ジュノのアレで腹がいっぱいになるのは困る。
「アンジュノ、ほら、こんなのは、半分空気みたいなもんだ。」と言ってチュロスを取って口元にやると、ジュノは大人しく口を開けて砂糖掛けされた小麦粉で出来た菓子を齧った。
「美味いか?」
「賞味期限の切れたチョコパイよりは。」
「そんなの食べたのか?」
「ヒョンが食べさせたんですよ。」
いつの話か、ちっとも覚えていないような顔をしたかったけれど、ちらりと頭に浮かんだのは、除隊の日の何日か前に荷物を整理して、食い物も一切合切押し付けた時の話だったかもしれなかった。履き古して色が変わったパンツを押し付けようとしたら、冗談だと分かっているだろうに、おかしなほどに神妙な顔をしていた。アンジュノ。
「……お前ってむっつりすけべだよな。」
「は?」
これも食え、とクリスマスの電飾みたいに黄色いピカピカを白くて丸い皿に乗せて押し付けると、ジュノは大人しくそれを眺めて、こいつ、ヒョンに似てますね、と言った。

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