「運転せえ、四草。」
目の前にぶら下げられた鍵を見て、うっかり兄弟子の顔を睨んでしまった。
そういえば、草若師匠の元に戻れば、こういう生活が待っているということを、この三年の間に僕はすっかり忘れていたのだった。
相手は僕の嫌そうな顔を見て、(なんか文句でもあるんかい)と言わんばかりの様子で顔を顰めた。
「荷物は。」
「車ん中じゃ。」
そう、この幼稚な兄弟子は、自分の住むマンションから直接仕事場へ出ればいいのに、わざわざ師匠のいるこの稽古場へ寄って、僕にこうして嫌がらせをしに来たのである。
「……なんでまだ僕なんですか。今は喜代美がいるでしょう。」
「しゃあないやろ、喜代美ちゃん、高校卒業してすぐ地元出て来たせいで免許持ってないて言うからな。それにテレビ局みたいなとこ、昼は良くてもこないな夜に出待ちなんかさせられるかい。遅ぅに外に連れ出して何かあったら、小浜のお母ちゃんとお父ちゃんに顔向けできんわ。」
「……僕ならいいんですか。」
「お前は男で、オレの弟弟子やろが。ちっとは我慢せえ。」
兄弟子は師匠の口調を真似たような口ぶりでそう言って、僕の耳を引っ張った。
「まだこんな車に乗ってるんですか。」
「お前まだオレの新しい車見たことないやろが。」
「鍵に付いてるキーホルダー見たら分かりますよ、大体。」
兄弟子の好みは、所謂スポーツカーという部類に入る。
席が広々としているのは悪くはないとは思うが、エンジンの音はうるさいし、本人は後部座席に座ってふんぞり返ってればいいものを、助手席に乗り込んできてハンドル捌きやブレーキングに細かく口出しはしてくるしで、碌なことがない。
しかも、この平成の時代に、それなりの車を買えばカーナビが付いてくるというのに、地図を片手にナビをしようとする。
下手くそなナビで曲がり角を誤ったせいで何度道を取り違えたか分からない。
スポーツカーというのは、普通の軽や、最近流行りの、路地にも入って行けるような一般車とは違って、一度狭い道に入ってしまうと、車体の大きさのせいで一度バックで元の道に出るしかない。
そもそもの目的地の場所を間違えて道を取り違えたせいで、ピンサロのような店が立ち並ぶふざけた繁華街に迷い込んでしまったこともある。
「おい、行くで、四草。さっさと荷物持って付いてこんかい。」
「分かりました。」
消えてしまえばええのに。
「何か言ったか?」
「いえ、何も。」
かつての腹立たしい記憶を思い返しながら、僕は渡された鍵を手の中で握りつぶしたいような気持ちで、先を行く兄弟子に付いて歩いた。



流れていく街の明かりが遠ざかり、車はいつもの橋を渡ろうとしていた。
大阪は水の街だ。
晴れた空の下、今よりももっと美しかっただろうこの川の流れの中を、いくつもの船が通り、活気ある商いをしていた時代を、僕は知らない。
知らないままに、落語家を続け、昔の人間が考えたあほらしい噺を、後の時代に伝えて行こうとしている。
「……来期から水曜はええで。」
仕事の後で不機嫌そうな顔をして車に乗り込んできて、押し黙ったまま窓の外を見ていた兄弟子はぽつりと言った。
「番組、終わるんですか。」
この態度からすれば、きっとそうではないだろうと分かっていたが、ついこんな風に口にしてしまった。
「アホウ。オレのレギュラー出演がなしになった、っちゅう話や。」
「そうですか。」
「驚かんのかい。」
「驚きませんね。」
この人がテレビに受けたのは、草若師匠が褒めたいつもの一発芸があったからこそだ。
歴史に名を残すビートルズの陰になってドリフターズがいつしか忘れられてしまったように、ドリフの芸が、僕の住処である安アパートの近所を登校する小学生の口から語られなくなって久しい。
例え、底抜け、という言葉で一時代を作ったとしても、徒然亭小草若のソレは、芸ではなく「一発芸」だ。一度飽きられてしまえば、後は早い。
その後残るものでもないだろうということは、僕でなくとも分かる。
「いつもなら、乗り込んで来るときに、寝床へ行けとか、マンション戻れとか、何か言うでしょう。」
このところ、水曜日は寝床に行くことが多い。
残ったレギュラー出演の番組収録の後の余勢を駆っていかないと、草若師匠の前に顔を出すことも出来ない。小さい草若、である。
与えられた名前に込められたものを分かっていて、約束された未来があるというのに、その明るい未来の芽をずっと、自分で摘み取っていた。
その結果が、やっと巡って来ただけだろう。
今日はどっちですか、と尋ねる前に、車は走り出して、今は寝床に向かっている。
草若邸の向かいにある、いつもの店に。
「……適当にその辺流してくれ。」
「どういう意味です。」
「お前の知ってる道で、ドライブせえちゅうこっちゃ。」
「はあ?」
「どっかないんか、一時間で帰って来れそうで、旨いもん食わせる場所とか。」
一時間。
旨いもの。
「知りませんよ。」
いわゆる、雑誌のグルメ情報欄に載っているような店に入ったことは何度かあるが、店を選ぶにせよ、移動するにせよ、段取りはすべてその頃に付き合っていた女任せだった。
しかも、寝床の横の空き地へは、もう五分もすれば着くところだ。
僕は大きなため息を付いて、右に曲がる予定だった道を左折した。
このまま真っ直ぐに行けば、茶屋町の方へと続く通りに出るが、どこで飲んだところで、この辺りでは局からは近すぎるだろうとは思う。
「僕は店、知りませんよ。」
「オレのことを知らん人間がおるとこなら、どこでもいい。」
「……どこでもいいなら、寝床でもいいでしょう。」
「寝床以外じゃ。」
子どもの頃から賑やかな家で育って、人恋しさが誰よりも強いくせに、そういう強がりを貫き通す男だった。
身を持ち崩してしまった親の傍にいることを投げ出し、その場所を赤の他人の兄弟子に譲って、ついでに噺家としての修行も放り出して顧みなかったアホ。
底抜けのアホ。
「僕の家に来ますか。」
「……は?」
「冗談です。」
三十分でマンションに戻りますよ、というと、そないせえ、と男は言った。



ウヒョヒョヒョヒョ、という気持ちの悪い笑い声をあげて近づいて来た男と今度こそ縁を切って、この先一生、他人のふりをしたいと心底から思った。
いや、実際僕と徒然亭草若という男は他人だ。
ずっと他人ではあるが。
「久しぶりに草若ちゃんのスーパーカー復活や!」と寝床の前の路上で年甲斐もなく上機嫌になっている男は、僕の顔など見てはいない。
通りすがりの小学生が「底抜けに~!」と合唱でもするようにして歩いていくのを横目に、兄弟子の声は更に大きくなった。
「四草、お前今日運転せえ!」
「嫌です。」
とっさに草々兄さんの一番弟子のようなことを言ってしまった。
「兄弟子に何逆ろうとんねん!」と久しぶりに草若兄さんの手が出た。
子どもの前で叩いたり蹴ったりするのもDVですよという僕に神妙な顔をしていたのは先週のことだったと思うが。流石、底抜けの頭の悪さである。
「せっかくお前のためにカーナビ買うたったのに、無駄にする気か?」
「何を恩着せがましいことを。」と言うと、何か言ったかと言わんばかりに口笛を吹いている。
「行くで行くで~! 小浜に一直線や!」
「は?」
「ええやろ、今から小浜。魚屋食堂で焼き鯖食べて、底抜けに賢い草若ちゃんが一丁上がりや!」
浮かれた兄弟子はいつものポーズを取った。
今、巷の小中学生によって再発見されてしまった例の『底抜け~』がリバイバルで流行っているせいで、新しい仕事が次から次へと舞い込んで来た兄弟子は、ここが神武景気と言わんばかりの勢いだ。
「仕事はどうするんです。」夕方からの出演があったはずだ。
このところ、テレビは放送事故を嫌ってか、昼帯の番組の生放送がほとんどなくなり、録画が多い。
「……まあ明日の朝にあっち出て、戻ってくればええやろ。」
それ僕が運転するんですよね、と言う言葉を飲み込んだ。
「鍵、今すぐ渡してください。」
運転は久しぶりの上に、新しい車は、たとえ知った車種だとしても、バージョンが刷新されるたびに、サイドブレーキなどの配置がこれまでに運転した造りとは変わっていることが多いのだ。
そうでなくては、と言わんばかりに再び鍵を差し出し、男は小さく笑った。
「なあ四草、お前が嫌ですっちゅうてもなあ、……もうあすこはお前の席やで。」
底抜けに安全運転で行くで、と言って、兄弟子は車を止めた場所に歩いて行く。
その背中を見ながら、僕は大きくため息を付いた。

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